イギリス、グレートブリテン島の中部に建設された、ローマ帝国版万里の長城といえる、ハドリアヌスの長城。しかしこの長城を眺めるほど、ある疑問が浮かんでくる。
ローマ人からすれば小さな島でしかないブリテン島を、なぜすべて征服してしまわなかったのか、と。彼らの軍事力を持ってすれば、この島を落とすのは簡単なことだと考えてしまうのだ。
ではローマ帝国からすれば辺境の小さな島に、なぜ労力と財力をかけて長大な壁を建設したのだろうか。
この記事では長城が建設される以前の、ローマ人の初接触からの歴史を踏まえることで、
- なぜハドリアヌスの長城を建設する必要が合ったのか
- その長城は、どんな規模でどのような構造だったのか
- 長城に勤務する兵士たちや、その周辺で暮らす人々はどんな生活を送ったのか
を書いていく。
この記事を読むことで、あなたの知識の一助となれば幸いだ。
ハドリアヌスの長城建設以前のブリタンニア
ハドリアヌスの長城がどんなものだったのかを書く前に、まず長城がなぜ建設されたのかを知る必要があるだろう。それには長城建設以前の歴史を紐解くことが必要になる。
まずはローマ人がブリタンニアへ初めて接触したときから、長城建設直前までの歴史を見ていこう。
カエサルの「初上陸」
記録上、ローマ人が初めてブリタニア、つまり現在のイギリス(グレートブリテン島)に上陸したのは、ガリア戦記中にあるカエサルの遠征だ。
紀元前55年、ガリア北端のドーバー海峡を挟んで陸があることを知ったカエサルは、船団を組んで海を渡った。彼は島に住む地元の部族たちと戦ったが苦戦し、大陸へと引き上げる。翌年にも再び遠征を敢行したが、結局征服までには至らず年内に島から退去。その後二度と海を渡ることはなかった。
おそらくカエサルは、本気でブリタンニアの征服を考えていたわけではなかったのだろう。ガリア部族の支援を確認する、偵察の意味合いが強かったに違いない。
またローマ人相手に、武力でかなわないことを見せつけるための、脅しもあったと思われる。
皇帝クラウディウスのブリタンニア遠征
カエサル遠征からしばらくは、ブリテン島の部族内抗争によるローマ側への亡命や、海峡を越えた貿易が行われていたが、軍事的衝突はなかった。カエサルの後継者アウグストゥスは、大陸側での覇権確立を優先したため、辺境の島にまで手をのばす余裕はなかったようだ。
またローマ時代の地理学者ストラボンが指摘するように、ブリテン島を仮にローマが支配したとしても、治安維持と帝国防衛にかかる費用を島の収入で補いきれない、つまり赤字になる公算が高かったことも、現実主義者のアウグストゥスが手を出さない原因の一つだと考えられる。
ところが時代が下った西暦43年、時の皇帝クラウディウスが4個軍団を派遣し、本格的にブリタンニア侵攻を開始した。もともと歴史家を目指していた彼には、皇帝としての威厳を得るための軍事的な栄光が必要だった。ただし彼自身のブリタンニア滞在は、わずか2週間程度だったという。
しかし皇帝から軍を任された将軍たちにより、ブリタンニアの部族が集結した大部族連合の本拠地カムロドゥヌム(現コルチェスター)を攻略。
ブリテン島の部族の多くは、ローマとの同盟を結んだ。元々一人の王に支配されていたり、一つの国としてまとまっていたわけではなかったため、各部族がローマ人と同盟を結んだほうが得だと知れば、彼らは進んで同盟を受け入れたのである。
皇帝ネロとブーディカの反乱
その後もローマは着々とブリテン島の支配領域を広げていく。この勢力拡大に待ったをかけたのは、ブリテン島部族の一つ、イケニ族の女王ブーディカを中心とする、西暦60年に起こった大規模な反乱である。ネロの治世に起こったこの反乱の様子は、ネロ ―母からの自立を願い、芸術と娯楽を愛した民衆派皇帝―の属州ブリタンニアでの反乱に記載しているので、ご参考いただくといいだろう。
ローマの過酷な税の取り立てに立ち上がった、10万とも20万とも言われる反乱軍は、ローマ側の本拠地カムロドゥヌムを落とし、ロンディニウム(現ロンドン)を攻略した。しかし最後にはローマ正規軍の反撃にあい鎮圧されてしまう。
以後、ブリタンニアはネロの適切な後処理の効果もあり、ローマのブリテン島放棄まで大きな反乱を起こすことはなかった。
アグリコラの全島踏破
ブーディカの反乱以降も、ローマはブリテン島の支配ををすすめる。70年代初頭には、ウェールズ方面を攻略し、さらにイングランド北部のルグウァリウム(現カーライル)に軍事拠点を建設するまでになった。
ブリテン島の征服事業が最高潮に達したのは、アグリコラがブリタンニアの属州総督に赴任した時代だった。78年に属州総督となると、アグリコラは現在のスコットランドへと軍を進める。そしてモンス・グラウピウス(場所は不明)でスコットランド地方にいたカレドニアの部族軍を撃破し、この地の占領は決定的となった。
その後もブリテン島の北部海岸を調査して、この陸が『島』であることを確かめ、アグリコラは実質的に全島を踏破したのである。
ところがアグリコラの遠征中、ライン川方面でゲルマニア部族の活動が活発になると、時の皇帝ドミティアヌスは防衛に使うため、ブリテン島にいた軍団の一部をゲルマニアに派遣した。これによりブリテン島の全島支配は、維持するための兵が足りず事実上挫折。アグリコラもブリタンニア総督職を解任され、ローマ軍は島北部からの撤退を余儀なくされたのだった。
アグリコラの解任以降から、ハドリアヌスの長城建設まで
アグリコラの解任以降、ドミティアヌス帝からトラヤヌス帝までのブリテン島支配がどうなっていたのか、史料が乏しいため不明な点が多い。トラヤヌスは西の辺境より、東側に向けた戦争に関心があったため、おそらくブリテン島の征服地域も徐々に放棄されていったのではないかと推測できる。
106年には、スコットランド最北端の拠点トリモンティウム(現ニューステッド)が放棄され、それに伴う他の前線基地も引き払われた。
さらにブリテン島から、1軍団が引き抜かれている。ダキア(現ルーマニア)とパルティアでの戦争に使うため、トラヤヌスはブリテン島から配置を変更したのだろう。
この決定で、島北部の維持はますます困難になってしまった。彼らは結局カーライルを拠点とした防衛ラインまで、軍を撤退せざるをえなくなったのではないだろうか。
以上、カエサルの初上陸からハドリアヌス建設直前までの経緯を見てきた。これを踏まえると、ローマ人がなぜブリテン島を全島支配しなかったのかがわかるだろう。
つまり、以下のように結論づけることができる。
- 全島を支配するには、派遣される兵の数が圧倒的に足りなかったため
- 全島を支配したとしても、経済的見返りが薄く維持に膨大な費用がかかったため
要するに大人数の軍を派遣してまで維持するには、経済的なウマミがなかったのだ。ただし島北部(やアイルランド島)からの敵兵侵入には備える必要があった。そこでトラヤヌスの後を引き継いだ皇帝ハドリアヌスは、収入がある程度見込める地域を見定め、島の東西が最も狭くなるラインに侵入を拒む壁の建設を目論んだのである。
それこそが、ハドリアヌスの長城だった。
ハドリアヌスの長城建設開始
ハドリアヌスの視察旅行
117年8月、パルティア遠征からローマに戻る途上で亡くなったトラヤヌスに代わり、ハドリアヌスが新皇帝となった。登位当初は血なまぐさい事件もあり、一筋縄では行かなかったのだが、ハドリアヌスについてはこの記事でこれ以上言及しないことにする。詳しく知りたい方はハドリアヌス ―暴君になりそこねた、旅と美青年を愛する万能賢帝―をご覧いただくといいだろう。
さて、就任当初のゴタゴタ期が去り政権が安定すると、121年からハドリアヌスは帝国中の視察旅行へと向かった。その視察先に、もちろんブリタンニア属州も含まれている。
122年7月17日、ハドリアヌスは将軍アラウス・プラトリウス・ネポスを伴い、ブリタンニア属州を訪問。また第三軍団ヴィクトリクスを加えてブリタンニア駐留軍を増強した。
建設開始時期
一般的にはこの訪問時に、ネポスを属州総督として総責任者とし、長城建設が開始したと考えられている。しかしハドリアヌスの訪問以前から、すでに長城計画が建てられていた可能性もあるというのだ。一体どういうことか。
ブリタンニア訪問に先立つこと1年前の121年、ハドリアヌスはゲルマニアにも訪れている。実はゲルマニアにもリメス(防壁)が建設されているのだが、この材料である木が、彼の訪問の2年前にすでに伐採されていたのである。
つまりブリタンニアでもすでに長城建設の材料調達は計画されており、ハドリアヌスの訪問はその進捗を確かめるためのものだった可能性がある。
いずれにせよハドリアヌス訪問後、長城建設は本格的に開始された。では次に、建設された長城の規模と構造を見ていくことにしよう。
長城の規模と構造
全長と長城の大きさ
ハドリアヌスの長城建設以前のブリタンニアでも記述したとおり、ローマが経済的な利益をかろうじて享受できる島の最も東西距離が狭い場所に、ハドリアヌスの長城は建設された。それは現在のボウネス・オン・ソルウェイからウォールセンドにかけての約73km(49ローマンマイル)。
ローマンマイルとは、ローマ時代に使われていた距離の単位。1ローマンマイル=約1.479km。
ただし長城はそれだけにとどまらず、ボウネス・オン・ソルウェイからさらに西、南の海岸沿いに約46km(31ローマンマイル)続く。東西の壁を合わせると、約118kmの長さになる長大な建造物である。
また、 ボウネス・オン・ソルウェイからウォールセンドまでは、約3mの幅がある石造りの建造物。ボウネス・オン・ソルウェイより西では、約6mの基部がある壁で、芝や木、土といった材料でできていた。
せっかく島の東西距離が狭まる場所を選んだのに、なぜ海岸線にも防壁を作ったのか。
それは、北方部族たちが船を使って対岸から侵入するからだ。湾の対岸距離が短いと、船で侵入されてしまった後はローマ側がどうしても後手を踏む。そこである程度敵の攻撃を遅らせる必要があったのである。
マイルキャッスル
長城の全長は80ローマンマイル(約118km)。東から西にかけて1ローマンマイルごとに、小さな砦(というより詰所のような建物)があった。この砦をマイルキャッスルと呼ぶ。
大きさは場所によりまちまちだが、だいたい15m×18m(270m2)~18m×21m(378m2)ほど。ただし644m2もの面積を持つマイルキャッスルも存在する。
マイルキャッスルは、北側以外を壁で囲まれている(北側は城壁本体に接しているため)。また南側2つのコーナー角は丸くなっている。
マイルキャッスルの北側は長城に接しており、南北に壁を抜けることができる門がある。
十数人程度。大きいところで30から40人程度。歩兵とは別に、マイルキャッスルには騎兵が必ず1名控えている。おそらく伝令用に必要だったのだろう。
見張り台
マイルキャッスルの間には、通常2つの小塔(見張り台)が建っていた。日本で言うところの、櫓(やぐら)に相当する。
見張り台の一部には防衛用の兵器、例えばバリスタ(長距離用の弩弓)が設置されていることもあったが、これが全塔にあったかどうかは不明。櫓の基本的な機能は、敵の襲来を確認する監視塔の意味合いが強かったと思われる。
ちなみに長城建設地でも、谷あいの深い場所では見通しが悪いため、見張り台は3箇所設置されることもあった。
見張り台の高さは9.2m。ちなみに長城自体はだいたい3.6mから4.5m程度。塔の下には待機場所のような部屋があったようだ。
長城北側の溝
平野部にあった長城の北側、つまり敵側にV字状の壕が掘られていた。幅約9m、深さ約2.7m。V字とは言いながら、南側はVよりもむしろU字で角度が急になって反り返り、より侵入しにくい工夫がされている場所もある。
また一部には南側に太い柱を立て、その柱に尖った杭を打ち込む障害をもうけていた。現代の有刺鉄線に相当すると考えればいいだろう。
ちなみにこの溝は、長城が崖沿いに建設された場所には存在しない(そもそも必要としなかった)。また ボウネス・オン・ソルウェイ の西側、海岸沿いの城壁にも作られることはなかった。
長城の南側の溝(ヴァラム)
長城の溝は、北側だけではなく、南側(ローマ側)にも掘られていた。この溝を現在ではヴァラム(Vallum)と呼んでいる。溝の幅はやく6m。掘ったときに出る土砂を利用し、ヴァラムの両側に幅3.5mほどの盛土を作った。
では一体なぜ長城の内側に、わざわざこのような溝を掘ったのだろうか。
著書『古代ローマ帝国 1万5000キロの旅 』の中で、アルベルト・アンジェラ氏はこの溝を次のように記述している。
(前略)…「味方の」陣地からも攻撃がしかけられることを恐れていた証拠…(攻略)
古代ローマ帝国 1万5000キロの旅
果たしてこれは打倒な考察だろうか。
古代ローマの専門家エイドリアン・ゴールズワーシー氏は、著書『Hadorian’s Wall 』の中で、
ハドリアヌスの長城は敵を撃退することができないが、敵の侵入を遅らせることはできる
と指摘している。
つまりヴァラムの目的も、基本的には同じなのだ。北の壕、長城、そしてヴァラムの3段構えで敵の侵入をある程度遅らせる。そして遅らせたことにより、対策を十分にしたうえで敵への対処をすることが可能になるのである。
その他長城に付随するもの
長城にマイルキャッスルの他にも、約6kmごとに補助軍が駐屯する16基の基地が設けられた。また長城の北には3基ほどの見張り台も建てられたようだ。
もちろんハドリアヌスの長城にある施設だけでは、防衛に必要な兵力を駐屯させることはできない。この最前線の防衛施設と連携する軍事拠点が、当時『ルグウァリウム』と呼ばれたカーライルであり、『コリス』と呼ばれたコーブリッジである。
長城建設の方法
次に長城の具体的な建設方法を見てみよう。この長大な建造物はどのように建設されたのだろうか。
測量
まず彼らは、長城を建設するために測量を行った。海岸近くから始めて、内陸へと向かったようだ。東から向かったのか、西から向かったのか、その両方だったのかは不明だが、建設場所に明確なアタリを付けたのだろう。
建設作業
次に具体的な建設作業について。私はてっきり東端か西端から順を追って長城を建設したのかと考えていたのだが、どうやら的を外れていたらしい。彼らは3つの軍団から、建設に必要な兵をピックアップして分遣隊を結成すると、隊を各地に派遣して同時並行的に建設を開始したようだ。
場所によっては基礎や敷石のみを敷く場合もあれば、見張り台やマイルキャッスルから建設することもあったという。これは地形による違いが大きく、壁の東7から22ローマンマイル目の、比較的平野部が多い地方では城壁そのものが優先された。逆に険峻な中央部は、櫓を建てることに注力したようである。
城壁は、まず西の海岸沿いから完成した。これは材料が木や芝、土といったローマ兵たちにとって馴染み深い材料だったため、比較的早く建設することが可能だった。
中断と再開、軌道修正
ところが建設工事そのものは、すべてが順風満帆というわけではない。工事が度々中断された跡が認められるのだ。なぜ中断せざるを得なかったのだろうか。
これはおそらく足場に使用する木材が、不足していたことが原因だと考えられている。特にブリテン島中部は、鉄器時代に先住民たちが農耕のために、森林を伐採して畑に作り変えていたので、木材の入手は困難を極めたのだ。
また建設途中に、当初予定していた城壁の幅を変更している。元々3mで計画していた厚みを2.3mと薄くしたのだ。これにより、資材の大幅な削減と建設期間の短縮を実現することができた。現場感覚で、それほどの防御力は不要と判断したのか、経済的な理由を優先させたのか。
ちなみに学者たちの間では、下部3m幅の壁をブロードウォール(広い壁)と呼ぶのに対し、基盤以降の薄くなった上部壁をナローウォール(狭い壁)と呼ぶようだ。
長城付近にできた町
ブリタンニアに配備された兵の数は、正規兵、補助兵合わせて約30,000人にも登る。もちろん彼らはハドリアヌスの長城付近のみに配置されたわけではなく、後方にも配備されることはあっただろう。しかし最前線への軍備が重要なのは変わらない。最も多くの兵を長城付近に割いたのは確かだろう。
そして古代で1,000人規模の集団がいれば、一つの立派な町が作れるのである。兵たちが勤務する場所に、民間人がビジネスチャンスを見て人が集まってくるのは、自然な流れだった。
市民の居住区『ヴィクス』
ローマ軍が専有する軍事施設の周りにできた、民間の集落をヴィクス(Vicus:市民居住地)といい、次第に自治権を持つようになっていく。
小さいヴィクスはヴィラム沿いに作られ、溝に接した面以外を壁で囲んだ。大きいヴィクスになると、ヴィラムを挟んで両側に建物があり、全方位を壁で囲んだ。
ヴィクスはその性質上、間口が狭く奥行きが広い、いわゆるストリップハウジング(日本で言えば、うなぎの寝床)の建物になりがちだった。ではヴィクスにはどんな施設があったのだろう。
一般市民の施設は、基本的に都市、町、村など同じく酒場、工房、寺院などである。また浴場もあったが、火災を考慮して、城壁の外に建てられていた。
公務で使用する建物には、ムータチオーネス(車両や動物をメンテナンスする場所)やマンシオネス(公用の宿泊施設)などがあった。これらについては、ローマ街道 ―地球2周分にも及ぶ大事業、古代ローマインフラの一つ―で詳しく説明しているので、ご覧いただくといいだろう。
軍ではなく市民の居住区に、それも軍事施設が近くにあるのに、ヴィクスの中にも軍の関係する建物が存在するのは、意外だったのではないだろうか。とはいえ兵士たちも兵舎に閉じこもっているわけではない。やはりヴィクスのような『町』に繰り出すのである。そこに軍の施設があれば、利便性も増す。
ではヴィクスにはどのような軍事施設があったのか。
大きいヴィクスになると、軍の中心人物が集まる司令部が存在した。その建物の中には、次のような場所があった。
- 中庭
- 集会場
- 事務室
- 記録保管倉庫
- 貴重品保管庫(地下に多い)
- 皇帝像のある神殿
また司令部の隣には、プラエトリウムという司令官の住居があった。ローマ時代の一般的な住居であるドムスの形を踏襲していたようである。
巨大な控壁(屋根の重みを逃がすための主壁から直角に突き出した壁)があるのが特徴。害虫を防ぐための高床式で、高い天井があり、湿度の調整ができて穀物や食料を保存するのに役立った。
実はまだ十分な確証がないものの、兵士たちが医療を受けられる専用の施設が存在したのではないか、との研究がある。実際古代ローマは古代国家の中で唯一軍専用の病院を作った国家なのだ。
長城勤務の様子
最後に、長城で軍務に就いていた兵士たちの様子を見てみよう。
日常の軍務
まず最初に断っておきたいのは、大半の兵士が軍隊勤務で実際の戦闘を経験することはまれだった、ということだ。下手をすれば、25年の補助軍生活を通じて、一度も戦闘に参加しない兵士もいたのである。では彼らは一体何をしていたのか。
まずは日常の軍務を、ルーティーンでこなすこと。彼らの一日の始まりは、ラッパを吹いて守備隊を起こすことから始まる。そして行進をして司令部に士官たちを集める。
歩兵なら百人隊の副隊長、騎兵なら騎兵隊の副隊長が点呼をとる。ローマ人は記録魔でもあったので、報告書に残すため、その日の状況を記録した。
兵士たちの勤務表が残っているが、彼らは次のような勤務を行っていたようだ。
- 門番
- 浴場(清掃?)
- 百人隊長の護衛
- 道路清掃
- 便所(掃除?)
兵士たちの経歴は、詳細に記録された。入隊時の状態や除隊の理由、個人の栄誉記録(市民冠などを授けられた記録など)、さらに獲得した動物も記録された。
ちなみに砦には武器や防具、馬具や馬の付属品、鞍、テント、盾カバーなどを修理する作業場がある。そのため、兵士自身がこれら道具を修繕、管理していた(もちろん盗まないように、在庫の管理は厳重にされた)。また馬の世話は奴隷が行うこともあったが、正規兵や補助兵自身が行うこともあったようだ。何しろ属州出身の補助兵のほうが馬の扱いに長けていたのだから。
もちろん長城の維持や管理も兵士たちの仕事。また長城の新築や全面的な改築は、軍の一大プロジェクトだった。瓦の製造や石の切り出し・加工、木の伐採や木材の加工、人員や資材の移動など、やるべきことが多岐に渡っていたのである。
兵士の食事や買い物について
兵士たちには、毎日穀物(通常小麦)が支給される。基本的には未調理品(小麦のまま)なので、小麦からパンを作るのは兵士自身か、彼らが所有する奴隷、あるいは妻が手伝った(ただしいれば、の話だが)。
肉類は牛肉やマトン(羊肉)、ベーコンが支給される。ただし場所や部隊によっては野菜類のみの食事になることもあったようだ。食事は朝食と夕食の2回。飲み物は酢のようなアセトゥム(acetum)かポスカ(酢を水で割った飲み物)が支給された。
とはいえ、これだけで食事に満足できる兵士は稀だろう。彼らは通常、食料を狩りや釣りでより豪華にしたようだ。またハドリアヌス帝の時代、兵士の給料は年3回に渡って支給されたが、給料の一部をワインや果物、卵、肉、魚や牡蠣などの購入に当てている。
兵士たちはその他、装備品も与えられたもの以外は、自分たちで整えることがあった。その証拠に、彼らは複数の靴を所有していたのである。
もう一つのお金の使いみちは娯楽である。彼らはヴィクスの歓楽街に行き、ゲームや賭け事、さらに売春婦などで散財していたのだった。
今回のまとめ
それではハドリアヌスの長城について、おさらいしよう。
- ハドリアヌスの長城は、視察旅行にブリタンニアを訪れた皇帝ハドリアヌスの命で建設が開始された
- 長城は城壁のほか、マイルキャッスルや見張り台、城壁を挟むように掘られた溝(壕)があった
- 長城建設の目的は、経済的な利益が見込める範囲を確保すると同時に、北方からの侵入者に対し、ある程度の時間稼ぎをする、というものだった
- 長城は端から順番に建設されたわけではなく、各地で同時に建設された
- 長城の軍事施設の近くに、兵士たちの需要を見込んだ人々が集まるヴィクス(居住区)ができた
ハドリアヌスの長城建設以降、北方に領土を広げる試みが行われた。一時的にはうまくいくが、結局は長城を拠点とした防衛体制が確立する。
そしてローマ時代が終焉を迎えてもなお、イングランドはハドリアヌスの長城を利用して、北方からの侵入を防衛することで、今日のイングランド、スコットランドの国境線に大きな影響を残したのだった。