戦車競走とは、何頭かの馬(一番多いのは4頭)に引かせた二輪付きの車(戦車)を走らせ、競走場を何周か回って勝敗を決める競技のことだ。
馬を使うので競馬を想像しがちだが、現代に例えるならF1レースに近いだろう。
「パンとサーカス」の「サーカス」とは古代ローマの「キルクス」、つまり戦車競走のことである。それほど古代ローマの人にとって、戦車競走は重要な娯楽だった。
ではこの戦車競走、
- いつごろ、どこで始められ
- どのような人たちがどんな馬を操り
- どんな戦車に乗って
- どのようなレースをしていた
のか、あなたはご存知だろうか。
古代ローマでもっとも人々を熱狂させたイベント、戦車競走を今回は見ていこう。
※タイトル下のイラストは、Legionarius様 よりご提供いただいたものです。
戦車競走の起源
古代ギリシアでの戦車競走の始まり
戦車競走がいつごろから行われていたのか、正確にはわかってない。戦争で戦車が使われたのは、かなり古い時代(紀元前2,000年頃)までさかのぼれるので、何らかの形で競走をしていた可能性はある。
戦車競走を競技として行ったのは、古代ギリシアである。
最も古い記録だと、前8世紀の詩人ホメロスが描いた詩『イリアス』の中にある。この詩のなかでは、死者を送るために戦車競走を催した、葬儀用のイベントだった。
オリンピックでの戦車競走
戦車競走が競技として登場するのが、有名なオリンピックだ。
紀元前680年に行われた第25回大会に、オリンピック競技の種目として、はじめて戦車競走が行われたようである。第33回大会からは、戦車競走に加えて馬に直接騎乗する競馬も加わった。
ちなみに古代ギリシアの戦車競走は、古代ローマの競走よりも周回の回数が多く、レース場を12周する(古代ローマは7周)。
レースで最も激しく順位が入れ替わるのが競走場のコーナーなので、周回が多ければ多いほど観客も興奮するわけだ。
古代ローマでの戦車競走の始まり
では古代ローマでの戦車競走の起源はいつか。
古代ローマには、イタリア半島の北部国家エトルリアを通じて、古代ギリシアの戦車競走が伝わったようである。
サビニ女の略奪で使われた戦車競走
戦車競走が関わる王政時代の伝説で有名なのは、サビニ族の女性を略奪して妻にした、いわゆる『サビニ女たちの略奪』でのエピソード。
初代王ロムルスは、サビニ人たちを招待して戦車競走を催した。サビニ人たちが競技に熱中しているスキに、ロムルスとその部下がサビニの女性たちをまんまと連れ去ったのである。
このエピソードでは、戦車競走が人々をいかに熱狂させる魔力があるかを物語っている。
第5代王による戦車競技場の建設
もう一つ王政時代のエピソードは、第5代王タルクィニウス・プリスクスの時代に行った、戦車競走場の建設だ。
タルクィニウスが治める時代になると、ローマ市の人口が増え、7つの丘だけでは居住面積が足りなくなってきた。
そこでエトルリア出身の王だったタルクィニウス・プリスクスは、当時ローマ市の湿地帯だった低地に大排水工事を行うことを決意。
その際、フォロ・ロマーノと戦車競技場であるキルクス・マクシムスを建設したという。
このエピソードは、
エトルリアの土木建築技術が優れていた
だけではなく、
市民にに娯楽を提供する必要があった
ことを教えてくれる。
ではこのキルクス・マクシムス(戦車競走場)は、どんな施設だったのだろうか。
戦車競走を行った場所
ローマ市の戦車競走場
ローマ市最大の競走場、キクルス・マクシムスを紹介する前に、まずはローマ帝国に戦車競走場がどのぐらいあったのかを見てみよう。
帝国全体でのキルクス(戦車競走場)の数は、剣闘士が戦うアンフィテアトルム(円形闘技場)よりも圧倒的に数が少なく、大都市でしか建設されていない。
理由は単純に、円形闘技場よりも建設につかう敷地が広かったことと、費用がかかったこと。そして大都市でなければ、それほど広い「ハコ」に集客が見込めなかったのだ。
では、帝国の首都ローマ市には、いくつ競技場があったのだろう。
じつはローマ市とその周辺だけで、4世紀中頃までに、6つもの競走場が建設された。建設時期の古い順に並べると、次のようになる。
競走場名 | 建設時期 |
---|---|
キルクス・マクシムス | 前6世紀ごろ? |
フラミニウス競走場 | 前220年 |
カリグラとネロの競走場 | 37~68年ごろ? |
ドミティアヌスの競技場 | 86年 |
ヴァレリアヌス競走場 | 203~221年ごろ? |
マクセンティウス競走場 | 311年 |
このうちヴァレリアヌス競技場は、アウレリアヌスが建設した城壁に飲み込まれてしまったため、50年ほどで姿を消してしまったので、ローマ市(とその周辺)には5つの競走場がひしめいていたことになる。
すべてがキルクス・マクシムスほど大きくなかったとはいえ、ローマ市では戦車競走で大きな集客が見込めたといえるだろう。
キルクス・マクシムスの規模
ではローマ市、いやローマ帝国最大の戦車競走場キルクス・マクシムスの規模は、一体どれぐらいの大きさだったのだろうか。
紀元前50年、カエサルによってキルクス・マクシムスが拡張されたので、拡張後の規模を見てみよう。
キルクス・マクシムスは片方が真っ直ぐなライン、もう片方が曲線の半角丸長方形となっている。その長辺は600m、短辺は200mほど。
現代日本の施設と比較すると、有馬記念の開催場所として有名な中山競馬場よりも、若干小さいサイズ。
また同じ古代ローマの建造物で比較すると、競走場のトラックはコロッセオのアリーナ(観客席を含めない闘技場所)の12個分になるという。
現在ローマ市にあるキルクス・マクシムス(チルコ・マッシモ)の遺構を見てもらえれば分かるが、あのだだっ広い空間すべてが競走場だとすると、かなり大きな施設だったことが想像できるだろう。
ではこの巨大な施設に、何人ぐらい入ることができたのか。
記録によると、キルクス・マクシムスには15万から38.5万人ほどの観客を収容できたという。また仮設の観客席を設ければ、最大50万人も収容できたという説もある。
おそらく15万人というのは、快適に観ることができる推奨収容人数であり、人気レースですし詰めになれば30万人超、さらに収容するために、仮設施設を作ったのではないだろうか。
キルクス・マクシムスの構造
ではこの巨大な施設、キルクス・マクシムスはどのような構造になっていたのだろうか。
競走用トラックの中央には、スピナと呼ばれる中央分離帯があり、戦車はこのスピナの周りを回って競走していた。
ちなみにスピナとは「背骨」のこと。細長い競技場の真ん中にある様子が、ちょうど背骨のように見えたのだろう。
このスピナには、
- 周回数を表示するイルカや卵の装置
- 勝利の像
- アウグストゥスがエジプトから運ばせたオベリスク
が設けられていた。
短辺の一方は直線上になっていて、発走するスタートゲートがあった。このスタートゲートは12基ならんでおり、テコの原理を応用した発馬装置が備えられていた。
雨が降ってもぬかるまないように、競走路(トラック)は水はけを考えた構造になっていた。
具体的にいうと、この競争路の下には陶片が埋まっており、下層になるほど大きな陶片が敷き詰めてある。
この構造はローマの舗装道路と原理的に同じ。つまり競走場にも、ローマのインフラ技術が遺憾なく発揮されていたのである。
カエサルの拡張工事で、観客席と競走路の間に約3mの溝が掘られた。カエサルの時代にはまだ大規模な闘技場がなかったので、キルクス・マクシムスがしばしば野獣との戦いを披露する見世物の会場になっており、観客の安全を確保する必要があったのである。
では観客席自体はどのようになっていたのか。
観客席は3層構造、つまり3階席まであり、コロッセオと同じくアーチを利用したつくりになっていた。また階段はジグザグに設けられ、観客は上の階に素早くアクセスできた。
最上階は木造。しかし老朽化してしばしば崩れることがあった。ディオクレティアヌス帝の時代には、観客席の崩壊により、13,000もの人が被害にあったという。
またコロッセオと同じく、観客席は身分によって座る位置が決まっていた。手前はVIPや身分の高いもの、上階にいくほど身分の低い一般市民の席となる。
ただし、性別によって席が分かれていなかったので、競走場は男女の出会いの場にもなっていたようである。
戦車を引っ張る馬、競走馬について
レース会場の様子がわかったところで、今度はレースをする側、いわゆるマシン(戦車)とレーサー(馭者)のことを見てみよう。
戦車のなかでもレースの勝敗に大きく関わるのが、マシンのエンジンともいえる競走馬である。
ではこの競走馬は、どのような馬たちだったのだろうか。
競走馬の産地
まずは馬の産地について。
現代でもそうだが、馬の出身地は馬の優劣に大きな影響を与える。では戦車競走に使われた馬は、どこの馬が多かったのだろう。
『馬の世界史(本村凌二著) 』の中に記載されている、紀元後75年の勝利馬に関する碑文によると、記録された全42頭の内訳は次のようになる。
馬の種類(出身地) | 頭数 |
---|---|
アフェール馬(北アフリカ) | 37 |
ムーア馬(ブリタンニア) or イベリア馬(ヒスパニア) |
2 |
イタリア馬(イタリア) | 3 |
お気づきの通り、イタリア産の馬はまれで、北アフリカ出身の馬が圧倒的に多い。
第二次ポエニ戦争で活躍したヌミディア騎兵たちが、北アフリカにいた現地民だったことを思い返しても、昔からこの土地には良馬が多かったのではないか。
競走馬育成の様子
競走馬はどのようにして飼育、育成されていたのだろうか。
現代と同じく、競走馬は専用の牧場・施設で生産や飼育、調教されていた。戦車競走のチームについてでもあらためて述べるが、古代ローマの戦車競走には主に4つのチームがあり、各施設もこのチームのどれかに所属していた。
飼育場には獣医もおり、馬の健康は徹底的に管理されていたようだ。また馬たちの血統や性格などの情報も詳細に記録され、交配や育成に役立てられていたのである。
現在残っている競走馬のモザイク画からも、
- ほっそりとしたスプリンター、マイラー(1マイル競走が得意な比較的短距離を走る馬)タイプ
- がっしりとした体格のステイヤー(長距離)タイプ
が育て分けられていたことが見てとれる。
ほかにも、育成施設から帝国各地の競走場に馬たちを安全に届けるため、施設の経営者は馬房施設のついた船まで所有していた。
戦車の構造と馭者の装備
次にマシンの車体である戦車と、マシンを操るレーサー(馭者)を見てみよう。
戦車の構造
戦車競走を題材にしたハリウッド映画『ベン・ハー』を、あなたはご覧になったことがあるだろうか。
『ベン・ハー』で再現された戦車はかなり大きく、また装飾も多い。
しかし実際の競走で使われた戦車は、現在まで残るレリーフなどを見ても分かる通り、正面部は腿(もも)の半分程度の高さしかない。
また車体の構造は、頑丈な木製の枠を革製のプロテクションで覆い、紐で数カ所固定されたシンプルなつくりになっている。
実はベン・ハーのような戦車は、凱旋式用の豪華なものなのだ。ところが実際にレースで使う車体は軽いに越したことはない。
現代のF1マシンでも、極限まで車体を軽く、なるべく空気の抵抗を減らすように設計されている。それと同じ理由で、競走用の車体も、強度をなるべく保ちつつ軽量化されたのである。
馭者の装備
ではレーサーである馭者は、どのような装備をしていたのか。
彼らは革製のヘルメットや胴着、そして足にまで防具を装備していた。なぜなら競走中に起こる事故率は高く、もしトラックに投げ出された場合に身を守らなければならなかったからだ。
また、胴着にはベルト穴があった。手綱をこの穴に通して体の後ろに回し固定することで、体重をかけて手綱を操り、馬に馭者の命令がより伝わるようにするためである。
しかし手綱が体に巻き付いていると、もし戦車が横転したり破壊されたときに、馬に引きずられる危険がある。そこでもしものときに手綱を切るため、馭者は短剣を装備していた。
それでもとっさの場合に切れるかどうかは、馭者の腕と運でしかなかった。
戦車競走の馭者は、どんな人達だったのか
馭者の身分
レースに勝てば、一攫千金と名誉を同時に手に入れる事ができる馭者。現代で例えるならスタースポーツ選手だろう。ではこの馭者はどんな人達だったのだろうか。
古代ローマのレーサーである馭者は、剣闘士と同じく奴隷や解放奴隷、また最貧民で教養のない人達がなる職業だった。現代ならブラジルの貧しい家の子が、ストリートサッカーからスター選手を目指すことに例えられる。
そのため、仮に成功をおさめて名誉と大金を手に入れたとしても、最下層の人々からは羨望の混じった「やっかみ」があり、また上流階級の人々からは成り上がりものと白い目で見られたのである。
有名な馭者
このような馭者たちにも、アイルトン・セナやミハエル・シューマッハのような、伝説級のスターレーサーがいた。
ただし、戦車競走の死亡率は高く、目覚ましい戦績を上げた馭者でさえ、大半が若くして命を落としている。
その中でも特に戦績の良かった馭者たちをピックアップしてみよう。
カルプルニアヌスは、生涯1127回ものレースで1着になった。また獲得賞金額は100万セステルティウス以上にものぼる。
1セステルティウスがどれぐらいの価値だったかは、種類も図柄も様々!古代ローマ貨幣の価値や当時の物価についての記事を参考にしていただければ分かると思う。
一例を上げると、ローマ帝国前期の一般兵士の年給が900セステルティウスだったので、100万セステルティウスは1,000年分以上になる計算である。
『(出場したレースに)3度に1度は勝つ』の異名をもつ伝説中の伝説、キングオブレーサーである。ディオクレスの戦績は、後述する戦車競走のレースの種類で詳しく書くが、彼の出場レースは4,237回にもおよび、そのうち1着になったレースは1,462回もあった。
彼の生涯獲得賞金は、3,500万セステルティウス以上にもなったという。
またディオクレスは五体満足のまま42歳で引退を迎えることができた、数少ない馭者だった。
戦車競走のチームについて
チームの種類
競走馬育成の様子でも述べたが、戦車競走の競走馬や馭者は、単独でレースに出場していたのではなく、チームに所属していた。このチームはF1で例えるなら、マクラーレンやフェラーリ、ホンダのようなものである。
古代ローマでは、基本的に4種類のチームがあった。チームは色で分けられており、それぞれが春夏秋冬を表していた。
- 緑(プラシナ):春
- 赤(ルッサータ):夏
- 青(ウェネタ):秋
- 白(アルバータ):冬
各チームにはオーナーのような存在の人がいた。彼らは主催者と交渉し、どのレースに自分のチームのマシン(とレーサー)を出場させるか決める。
もちろん金額次第によっては断ることもあったようだ。オーナーになるには、かなりの資産とコネが必要だった。
当然馭者も、この4種類のチームのどれかに属してレースに出場していた。ただし、彼らは一度所属したチームにずっと縛られるわけではなく、チームを渡り歩くこともできた。
おそらく現代のサッカー選手のように、オーナー同士の取引(移籍金)や、馭者への報酬(給料)で、所属チームを変えていたのではないかと私は考えている。
皇帝たちにもチームの贔屓(ひいき)があった
もちろん観客たちは、応援するチームが決まっていた。日本の野球ファンなら、観客席やテレビの前で贔屓(ひいき)のチームに声をかけ、相手のチームに罵声を浴びせているのは、おなじみの光景だろう。
実は皇帝たちにもレース狂は多く、肩入れするチームがあったのである。
帝政前期から中期にかけて、世に悪帝とレッテルをはられたカリグラやネロ、ドミティアヌス、コンモドゥスも、例にもれず戦車競走大好き人間だった。だが彼らはなぜかすべて緑チームを応援していた。
この中でもドミティアヌス帝は戦車競走熱が高く、紫と金チームを新たに加えている。もっともこの2チームはすぐになくなってしまったようだが。
ちなみに時代が進み、3世紀には赤と白チームは消え、緑と青の2チームのみとなってしまう。スペインサッカーに例えるなら、レアル・マドリードとバルセロナの2強のみが残ったようなものだった。
戦車競走での賭け事と呪い
戦車競走の賭け事
戦車競走のようなレースが、賭博の対象になることは、ご存知のとおりだ。日本でも競馬は現在、唯一公営の賭博競技である。
戦車競走ではどの馬や馭者、チームが勝つかの賭けが盛んに行われた。おそらく競技場周辺にあるタベルナなどの酒場が賭博会場となっていたのだろう。オッズなども決まっていたに違いない。
そこでは一回のレースで大金を手に入れるものもいれば、すっからかんになってしまうものもいたのである。
戦車競走に使用された呪い
勝負事にお金が絡んでくると、人は熱くなるものだ。もちろん賭けが絡まなくても、熱狂的なファンは自分が応援するチームやレーサーを勝たせたいと考えるものもいただろう。
そしてレースに参加する当のレーサー(馭者)たちだって、「どんな方法を使っても自分が勝ちたい」と思っても不思議ではない。
そんなとき彼らが用いたのは、呪いを書いた呪詛版だった。この呪詛版に実際の効能があったかはともかく、人々が呪文の力で勝敗を左右したいと願っていたのは確かだし、また効果があると信じていた。
ではこの呪詛版には、どのようなことが書かれていたのか。
たいていは競争相手や馬のミスを誘ったり、体の自由を奪ったりといった、「足を引っ張る系」の呪文だった。例えば次のような呪文だ。
(前略)呪縛せよ、これらの馬どもの走りを、その力を、その心を、その突進を、そのスピードを。その勝利を奪え。
その足をもつれさせよ。邪魔せよ。びっこにせよ。
そうして明朝、競走場で、これらの馬どもが走れないように、歩き回れないように、勝てないように、出走ゲートから出られないように……(後略)
しかし相手の不幸を起こすより、自分が応援する馬や馭者の無事を願う、次のような珍しい呪詛版も存在する。
(前略)誰々が走らせているこの馬たちに、また馬たちを御している馭者に、力と戦意を授けて下さいますように。これらの者たちを走らせ給え、しかも疲れたりつまずいたりしないように。これらの者たちを走らせ給え、しかもワシのように素早く。どんな動物も、これらの者たちの前に立ちはだかることがありませんように。そしてどんな魔術や魔法も、これらの者たちに効き目がありませんように。
このような呪詛版を、ローマ人たちは怪しげな妖術師や魔術師(と名乗るもの)から、それなりの金額を払って買っていたのである。
戦車競走場での恋愛と売春
競走場での娼婦と売春事情
さて、レースの種類や実際のレースの様子を紹介する前に、少し横道にそれて戦車競走場での性愛模様について紹介しよう。
競走場は人気スポットであり、年間にかなりのレース数が行われていたので、人々の往来も多かった。
ことにキルクス・マクシムス(大競走場)のメインレースともなると、それこそ何万人単位で人が集まるため、競技場の列柱廊(アーチをくぐったところ)には、商店がならんでいたのである。
もちろん娼婦にとっても、客引きが見込める絶好の商売スポットだった。そこで彼女たちは柱によりかかり、めぼしい人間を見つけると声をかけ、柱の陰やひと目につかないところに連れ込み、商売を始めるのだった。
競走場はナンパしやすかった!?
また競走場は、男女の出会いの場でもあった。
帝政期に入ると、アウグストゥスによって身分の区別が厳格につけられ、それとともに観客席にも、前列はVIP席で後列に行くほど庶民の席というような序列ができた。
しかし闘技場とはちがい、競走場には観客席に男女での区分けはなかったのである。そのため、男女ともにナンパ目的で訪れるものも珍しくはなかった。
実際に1世紀に活躍した、詩人オウィディウスの著書『恋愛術』にも、次のような「ナンパ術」が紹介されている。
(前略)できるだけ彼女に接近しなさい。これは容易なことだ。座席はいずれにしろ、窮屈なのだから。口実を見つけて彼女に話しかけなさい……どんな馬が競技場に入ってくるか、彼女の贔屓はどれかを尋ねなさい。彼女の選択に賛成しなさい……よくあることだが、もしわずかでも埃が彼女の膝に落ちたら、そっと払い落としなさい。たとえ埃が落ちて来なくても、落ちたようなふりをして、おなじように彼女の膝をそっと払いなさい
娯楽と癒やしからみた古代ローマ繁栄史 第5章 戦車競技
私からすれば、オウィディウスの「テクニック」はまだ気取っているようにみえる。
一番いいのは、サッカーでよくやる「応援しているチームにゴールが生まれたらハグする」方法。戦車競走なら、応援チームが勝った瞬間に、感激を装ってハグするのがいいのでは、と思うのだがいかがだろう。
え、負けたらどうするか?
近所の軽食屋で、残念会と称した食事にでも誘えばいいだろう。
戦車競走のレースの種類
ディオクレスの戦績
話を戻そう。
戦車競走のレースには、どんなものがあったのか。
ここで有名な馭者でも紹介した、ディオクレスの戦績を紹介したい。なぜ彼の戦績をこの話題で紹介するかは後ほど説明するとして、紀元146年、42歳で引退するまでに残した戦績の内容を、少し長いが『馬の世界史 』から引用してみる。
ディオクレスは、24年間で4,257回にわたって戦車御者として出走した。
馬の世界史 4章 ポセイドンの変身
全勝利数1,426回。そのうち開演競走で110勝。各組一両競走で1,064勝。重賞競走92勝。そのうち、6頭立て競走での3勝をふくみ300万円賞金レースで32勝、6頭立て競走での2勝をふくみ400万円レースで28勝、7頭立て競走での1勝をふくみ500万円賞金レースで29勝、600万円賞金レースで3勝。各組2両競走で347勝、それには3頭立て競走1,500万円賞金レースの4勝もふくまれる。各組3両競走では51勝。
優勝および入着すること2,900回。2着861回、3着576回、受賞4着1回。着外1,351回。青組との同着10回、白組との同着1回、そのうち2回は300万円賞金レース。総収得賞金総額35億8,631万2,000円。それに加えて、2頭立て競走の10万円賞金レースで3勝し、白組との同着1回、緑組との同着2回。先行して815勝、後方待機で67勝、ハンデ・キャップ競走で36勝、多種条件競走で42勝、奪取戦で502勝、このうち緑組に216勝、青組に205勝、白組に81勝。
彼によって、9頭が100勝馬になり、1頭は200勝馬になった。
漢数字をアラビア数字に変更したこと以外は、そのまま文章を引用させていただいた。
ちなみに、円については、1セステルティウスを100円として賞金額を換算している。例えば300万円なら、3万セステルティウスである。
様々なレース
ディオクレスの戦績を長々と引用したのは、あらためて彼のスゴさを強調したかったわけではない。
引用文の中にある太字のところ(私がオリジナルで強調した部分)が、様々な戦車競走のレースの存在を物語っていることを示したかったのだ。
ちなみに古代ローマの戦車競走で一番人気があったのは、4チームが各3台の4頭立て戦車を出走させるレース。引用文では『各組3両競走』が、件のレースを指す。
では引用文にそって、どんなレースがあったのか洗い出してみよう。
開演競走とは、レースの種類というより、オープニングレースのことだ。1日のレース数が最大24レースあり、その開幕を飾れるのは名誉なことだったのかもしれない。
1チームから何台の戦車を出走させるかで、レースの種類が分かれていた。1両なら競走トラックには4台の戦車が、2両なら8台の戦車、そして3両が最大で12台の戦車が出走したのである。もちろん戦車の台数が多いほど盛り上がった。
また台数が多いと、チーム戦となることも意味していたのである。つまり、1台を勝たせるために、他の2台はほかのチームの戦車を攻撃する、あるいは進路を妨害するなどのチームプレイがあった。
重賞とは、年に何回か行われる大きなレースのこと。つまり古代ローマでも、現代日本のダービーや有馬記念などにあたる、重要なレースがあったということである。
「何頭立て」とは、戦車を引く馬の頭数のこと。通常は4頭だが、2頭や3頭もあった。また、6頭や7頭で引かせるレースは、練習用の小さいレース場で行っていたようだ。
ディオクレスの碑文からは、獲得賞金額によってレースが別れていることも示している。もちろん獲得額が多いほど、大きく人気の高いレースだったことだろう。
また碑文からは、なんらかのハンディ(重さや頭数制限?)をつけて行ったレースがあったことも分かる。さらに多種条件競走とは、おそらく日本で言うところのダート(トラックに土を敷いて行うレース)や、障害物競走なども行われていたのだろう。
こちらはレースの種類というより、チームの1着を奪い取るレースだったのではないか。つまり、自チームが青で前回2着、緑チームが1着だとすれば、青チームで1着を奪う(ことを目的とした)レースと推測できる。
以上はディオクレスの戦績から見た私独自の推測なので、的はずれなものもあるかもしれない。しかし大きくは外していないと考えている。
戦車競走の実際のレースについて
では、いよいよ実際のレースがどのように行われていたのかを見ていこう。ここではキルクス・マクシムスで行われたメインレースを中心に説明する。
レース前
小さいレースなどではそのままレースだけ開催されることも多かっただろうが、大きなレースともなると、レース開催前にパレードを行った。
カピトリヌスの丘を出発してキルクス・マクシムスへと向かい、競走トラックを1周する順路で、ちょうど凱旋式の逆順路をたどる。
パレードに参加する内訳は、次のようになる。
- 先頭:レースの主催者。キルクス・マクシムスに入場するときは、馬に引かせた戦車に乗って登場した
- 2番手:有力者の家の青年。馬に乗るものや徒歩のものもいる
- 3番手:レースに参加する、戦車に乗った馭者たち。
若年者カテゴリーに出場するもの、さらに騎乗レース(競馬)に出場するものもいる。また、レースの合間に出演するダンサーや楽師、曲芸師もパレードに参加していた
パレードの列が、キルクス・マクシムスのスタートゲートから退場すると、いよいよレースの準備が始まる。
各マシンがどのスタートゲートから出走するか、その並び順は各チームカラーのビー玉を使ったくじ引きにより決定した。
また、スタート地点には、各チームに所属する「モラートル」という係のものがいた。彼らの仕事は、馬を落ち着かせたり、スタートゲートの閂を開けるといったものだ。
もちろんそれだけが「モラートル」の仕事ではない。彼らは常に馬に寄り添い、レース場の馬の世話をする、いわばチーム付き調教師のような役割があった。
レースのルールと実際のレースの様子
主催者がスタートの合図をすると、いよいよレースが始まる。その合図とは、白い大きなハンカチーフを振り下ろす(ロール状の白い旗を下に向かって広げる)ことだった。
各車両はスタートゲートからある一定の距離まではコースが決まっており、そのコースを外れることはできなかった。しかしセパレートコースが終了すると、コース取りは自由になる。そのため馭者は、有利な位置を確保するため激しく争った。
オリンピックでの戦車競走でも述べたとおり、走行距離はトラック7周。中央分離帯にある卵やイルカのオブジェクトを回転(あるいは落下)させることで、周回数が誰の目にも分かる仕組みになっていた。
走行中のルールとして、馭者が持つムチで他の馭者を攻撃するのは禁止されていた。しかし馬はそのルールが適用されない。他チームの馬の目をムチで打ち付けるものもいたのだ。
チーム専属の獣医は馬の目の外傷を治療するため、10種類以上の軟膏を用意していたという。
また、相手の戦車を中央分離帯に追い詰めて激突させることは、ルール違反どころか立派な戦略として推奨されていたのである。
ただし映画『ベン・ハー 』に出てくる、車輪に刃物がついた武器(ギリシアの車輪)は、映画の中だけの話。余計なものをつけて走ると重い上に車体のバランスが取れず、すぐに横転してしまうからである。
戦車競走での一番の見ところは、なんといってもコーナーでの攻防だ。直線よりもコーナーで戦車の順位が入れ替わることが多かった。
このコーナリングをうまくこなすには、馬の連携が何よりも必要だった。そのため何年も馬を訓練したのである。
特に外側の馬は、長い距離を早く走ることを要求されるため、より能力のある馬をスカウトすることもあった。
また、戦車を引っ張る馬、競走馬についてでも説明したとおり、良馬をもとめて優秀な馬を産出する地域にまで買い求めることもあったという。
戦車は猛烈なスピードで走っているが、この時代には木製の車軸を採用していたため、摩擦熱で燃える可能性があった。そのため各チームには、円錐状のバケツとアンフォラを持って車輪を冷やす整備係がいた。
現代のF1レースなら、マシンのピットイン時にタイヤを交換する整備士たちに例えられるだろう。
ただし整備士たちのかける水は、車輪だけではなく馭者も冷やしていたようだが。
古代ローマの戦車競走で面白いのは、レース中に「激励者(ホルタートル)」と呼ばれる騎乗者が競走トラックに入り込み、自チームの馭者に指示を伝えられるところだ。彼らは敵の位置を知らせたり、作戦を伝えることができた。
ただし最大12台の戦車が走り抜けるレース場に、さらに馬を走らせることを想像してほしい。走路にひしめく戦車たちに紛れて馭者に指示を伝えるは、難しいだけでなく、相当危険だったに違いない。
それでもなんとか指示を伝えると、激励者はレース場からそのまま退場した。
レース終了後
7周を走りきり、見事1着になったものだけが、主催者に表彰された。2着の選手には、賞金こそあったもののごくわずかで、誰からも顧みられることがなかった。優勝者との扱いが、まさに雲泥の差だったのである。
優勝した馭者は、「栄誉の一周」というビクトリーランを行うことができた。これはゴール後に走路を一周して、観客から拍手喝采を浴びる最高の瞬間だった。
また、「栄誉の一周」では、レースで一番活躍した馬(たいていは外周を走る馬)にまたがった。
「栄誉の一周」を終えると、主催者(皇帝のこともあった)から、次のものが授与される。
- 棕櫚(シュロ)の枝
- 月桂冠
- 賞金
さらにレースが終わると、近隣にも勝利チームが伝えられた。その方法とは、片方の羽に勝利チームの色を塗ったハトを飛ばす、というもの。
鳩たちを見て応援者は歓喜し、賭博場では、悲喜こもごもの風景がみられたにgちがいない。
今回のまとめ
それでは古代ローマの戦車競走について、おさらいしよう。
- 戦車競走の競技は古代ギリシアで始まり、ローマにはエトルリアを通じて伝わった
- ローマ市にはいくつもの競走場があったが、最大の競技場キルクス・マクシムスは15万人(最大50万という説あり)収容できた
- 競走馬は優秀な馬の産地で、各チームの所有する施設により飼育・育成されていた
- 戦車はなるべく軽く丈夫に作られており、馭者は革製の防具でレースの危険から身を守った。またナイフを装備し、事故が起きたら手綱を切れるように準備していた
- 戦車の馭者は身分の低いものが多かったが、レースでは莫大な報奨金を獲得できた
- 戦車競走のチームは主に4つあり、皇帝ですら贔屓チームがあった
- 戦車競走での賭け事は日常茶飯事であり、勝つために呪詛版を用いることもあった
- 古代ローマの戦車競走には、現代の競馬と同じくさまざまな種類のレースがあった
- 実際のレースにはほとんどルールがなく、1着になったもののみ栄誉を手にすることができた
古代ローマ人にとって、戦車競走は剣闘士競技よりも重要で、なくてはならない娯楽だった。
彼らは戦車競走を通じて天国と地獄を体験し、また恋愛にも花を咲かせていたのだった。