オクタウィアヌスⅨ ―アクティウムの海戦~アントニウス、クレオパトラの死まで―

オクタウィアヌス カエサルの遺志を継ぐ青年

アントニウスが元老院に報告したパルティア遠征の内容は、真逆の結果を示していた。
彼はパルティアから撤退し、2万人もの兵士を犠牲にしていたのである。

一方のオクタウィアヌスはアントニウスの失敗を尻目に、足場を固めるべく言っリュリクムの制圧とローマの公共整備に乗り出す。

さらにオクタウィアヌスはアントニウスを弾劾し、「クレオパトラによってたぶらかされたローマ人」というプロパガンダ作戦を展開。
これによりローマ国内でのアントニウスの評判を落とすことに成功した。

この弾劾でオクタウィアヌスとアントニウスの対立は決定的となる。
ローマの盟主を賭けた戦いは、ついに最終ラウンドに突入しようとしていた。

オクタウィアヌス、全イタリアと西方の統一戦線を促し、アントニウスの遺言を暴露する

アントニウス軍、ギリシアへと行軍する

アントニウスの軍は、エフェソス(トルコ南部の都市)からギリシアへと移動した。
総勢30個軍団に12,000の軽装兵と同数の騎兵を伴った大軍団である。
ただしアントニウスは、いつものようにオクタウィアヌスの約束破りをくらい、イタリア国内で兵を集めることができなかったため、主に東方から徴募した兵で構成された軍だった。
そのため忠誠心と質で西方の軍よりも劣るところが悩みのタネとなる。

またアントニウスのもとに集まった上層部は、イタリアから逃れてきたアントニウス派の他に、共和政主義者も多数存在していた。
そのため、指導する人々のあいだでも一枚岩になりきれていなかったのである。

さらにアントニウスはクレオパトラを、東方軍の共同司令官待遇として、自分のもとに同行させたのである。
これにはアントニウスのもとで提督をしていたアヘノバルブス(前32年の執政官で、ローマから去った一人)も強く反対した。
なぜならクレオパトラは、オクタウィアヌスの巧妙なプロパガンダでローマ人に不人気になっているだけではなく、オクタウィアヌスが大義名分に掲げているのが対エジプトとの戦争なので、王将、それも1歩も動けないのに捕られたら負け、というコマを抱え込むことになるからである。

オクタウィアヌス、西方全土に誓約を求めて対アントニウス統一戦線を形成する

その頃オクタウィアヌスは、戦争の足音をひしひしと感じていた。
しかしオクタウィアヌスのほうから攻め込むことは、政治的理由から避けた。
わざわざ自らの正当性を、侵略者の汚名とともに捨てることはないからだ。

しかしいずれ決戦のときは来る。
対決に備えてオクタウィアヌスは軍の維持と増強をしなければならない。
オクタウィアヌスは戦争の資金を得るために、年収の25%という重い税金を取り立てた。
ときには富裕層にたいして、軍のために献金するよう圧力をかけたこともあった。
このためイタリアや西方各地から暴動や放火が発生。
オクタウィアヌスの人気は急落した。

オクタウィアヌスはここで大胆な手を打つ。
彼は市民個人に対して、自分に忠誠を誓うよう求めたのである。
オクタウィアヌスは、みずから記した業績録の中で、次のように書いている。

全イタリアが、自らの意思によって私に忠誠を誓い、やがてはアクティウムの勝利に至ることになる戦争において、私を将帥(ドゥクス)にと選んだのである。

ローマ革命 上 共和政の崩壊とアウグストゥスの新体制 | 第二〇章 全イタリア

横暴な税金を取り立てられ、恐怖と暴力で無理やり資金を提供されられた市民たちが、愛国心に目覚めてオクタウィアヌスの元に一つとなるような協力体制を、いきなり打ち立てることが果たしてできたのだろうか。

上記に対する答えは、おそらく「否」だろう。
だが業績録の内容は、まるっきり嘘ではないはずだ。
では、オクタウィアヌスが主張する

  • 忠誠を誓い
  • 将帥にと選んだ

根拠は、なんだったのだろうか。

オクタウィアヌスの支持層は、オクタウィアヌスの出自と同じイタリアや西方の(ローマ以外の)地方出身者であり、騎士階級(経済界)の人々が主だったのではないかと思う。
彼らはオクタウィアヌスとアントニウスの決着がつかず、西方と東方が分断されてしまうことを恐れたのではないかと思う。
結局富は東方にあり、東方との商取引こそが彼らの生命線だったのだ。

また一般市民についても、東方領土からの食料供給がないと、生活は破綻するのである。
この事実こそが、アントニウスとの決戦に市民たちを向かわせた最大の要因ではないかと思う。
そして西方の盟主は、目下のところオクタウィアヌスだったのである。

オクタウィアヌスの盟友であり、部下でもあるマエケナスの働きも手伝って、暴動はやがて沈静化した。
そしてオクタウィアヌスに、予期せぬところからアントニウスとの決戦を決断させる知らせが訪れたのである。

アントニウスの離婚と遺言状の公開

前32年の5月か6月の初夏、アントニウスはオクタウィアヌスの姉オクタウィアと離婚した。
これはアントニウスなりの優しさであり、オクタウィアヌスに対する無言の同盟解除だったのかもしれない。
オクタウィアも、アントニウスとフルウィアの長男であるアンテュッルス以外の子どもをすべて引き取っている(アンテュッルスは父アントニウスのいるギリシアへと向かった)。

しかしオクタウィアとの離婚は、アントニウスが考える以上に悪評をローマ人に与えることとなった。
なぜならオクタウィアは(この時代には珍しく)ローマ人の妻として理想である慎み深い女性であり、夫思いの健気な人物として有名だった
それがエジプトの女王であるクレオパトラにかまけて、アントニウスから離縁するなど、言語道断だったのである。
オクタウィアヌスのプロパガンダは、完璧にアントニウスを陥れていたのだ。

またこの離婚は、アントニウスにさらなるダメージを与えることになる。
それが長年アントニウス派の将軍として従ってきたプランクスの離反である。
プランクスは時節に聡い人物だった。
アントニウスの陣営、およびローマでの雰囲気を鑑みて、今こそオクタウィアヌスへの乗り換え時期だと判断したのだろう。

プランクスは、アントニウスのもとを去り、ローマに着くとすぐにオクタウィアヌスのもとに訪れた。
そして彼はアントニウスの秘密を握っていると打ち明けた。
その一つがウェスタ神殿に預けている遺言状だったのである。

オクタウィアヌスはすぐさまウェスタ神殿に向かい、巫女にその遺言状を渡すよう要請する。
しかし巫女はそれを拒否。
なぜなら遺言状を本人の断りなく公開することなど、もってのほかだった。
しかしオクタウィアヌスはこの禁断の手を使うことに躊躇なかった。
オクタウィアヌスは自身で神殿内に入り、遺言状を押収すると、通読したあと(アントニウスの注記を無視して)元老院に読ませたのである。

アントニウスの遺言状には、次のことが記されていた。

  1. クレオパトラの子であるカエサリオン(プトレマイオス・カエサル)が、ユリウス・カエサルの子どもであること
  2. アントニウスとクレオパトラとの子どもたちに遺産を分け与えること
  3. アントニウスが死んだあと、アレクサンドリアに埋葬してほしいと願っていること

特に(3)の内容にオクタウィアヌスは注目し、アントニウスがローマ人の心をなくし、東方の人間に成り下がったと主張したのである。

元老院は、オクタウィアヌスの行為を非難の目で眺めながらも、アントニウスの印象を明らかに悪くしたようだった。
その結果、翌前31年に執政官へ就任する予定だったアントニウスの権利を剥奪するという動議は、賛成多数で可決された。

オクタウィアヌスは、ついにラストピースを手に入れたのだ。
彼は東方の敵に対し、宣戦布告を行った。
しかし戦う相手は、あくまでも外国であるエジプトであり、アントニウスを堕落させたエジプトの女王、クレオパトラだったのである。

オクタウィアヌス、アントニウスの作戦を逆手に取り、補給路を断つ

元老院議員と騎士階級の人々を引き連れて、決戦へとのぞむ

前31年1月、オクタウィアヌスは3度目の執政官に就任した。
オクタウィアヌスは同僚の執政官とともに、アントニウス打倒のためブルンディシウムへと向かう。
実はこのとき700名の元老院議員(前年に離脱した元老院議員を除くとほぼすべての議員)と、数多くの騎士階級の人間とともにいた
目的は海の向こう、ギリシアの地へと同行させるためである。
なぜか。

それはオクタウィアヌスやアグリッパがイタリア不在時に、アントニウス派の扇動によって反乱が起こるのを防ぎたかったからだ。
イタリアにはマエケナスが残り、監視の目を光らせる役割を担った。

アグリッパ、敵の兵站を破壊する

今回の戦いもアグリッパが全軍の総指揮をとることが決まった。
オクタウィアヌスは、誰よりも戦争が苦手であるという、自分の力の限界を知っていた。
その弱点を補ってくれる人間に、惜しげもなく仕事を任せることができるのは、オクタウィアヌスがもつ多くの才能のうちの一つだろう。

オクタウィアヌスたちは、プランクスによってアントニウスのおおよその戦略を知ることができていた。
プランクスによると、アントニウスはギリシアの地を貫く大動脈である、エグナティウス街道の遥か南にあるアクティウム(現在のプレウェザ付近)に陣取り、アンブラキア湾に艦隊を停泊させていた。

アントニウスの狙いはこうだ。
彼はオクタウィアヌスたちをギリシアの地に誘い出し、全軍がギリシアに渡りきったところで海上を封鎖、オクタウィアヌス軍の補給路を断ってジリ貧に追い込み、さらに平地での会戦へと持ち込む気だったのである。

アントニウスたちはギリシアの南西沿岸部に基地をつくり、そこから最大の部隊が集結するアクティウムまで守備隊を配置し、エジプトからの海上補給路を確保していた。
それゆえ、長期戦になってもオクタウィアヌスが物資の補給で困っても、自分たちは安心して食料などを得ることができる。

アグリッパはこの作戦を知るや、アントニウスを逆に罠にはめる作戦を立案した。
それはアントニウスの補給路の要であるギリシア南西部の基地を占拠し、さらにギリシア西沿岸部のアントニウスが設置した拠点を各個撃破していくことで、アントニウスの補給路を断つ、というものだ。

この作戦を実行するには、アントニウスに気づかれる前に準備をし、援軍が来る前に拠点を奇襲する必要がある。
作戦が合意されると、アグリッパは3月の初旬、悪天候が収まる前の地中海へ艦隊を出港させ、外洋を航行してペロポネソス南端部へと向かった。

これは大きな賭けだった。
下手をすると、荒れ狂う海に艦隊が沈められ、大惨事へとつながる恐れがあったからだ。
しかしアグリッパはこの賭けに勝った。
敵からの襲撃も、嵐による大破もなく、彼はみごと基地を陥落させることができたのである。

アントニウス軍の封鎖完成

次にオクタウィアヌスの率いる軍が行動した。
オクタウィアヌス軍はアドリア海を渡ると、アクティウムの北、アンブラキア湾開口部の北側にある丘に陣を構えたのである。
この丘は見晴らしがよく、南は戦場に適した平地があり、理想的な立地だったのだ。
ただし、不都合な点が2つあった。

  1. 風雨をしのげる港が、近くになかったこと
  2. 水の補給には、北東のルロス川を使うか、南の泉に汲みに行く必要があったこと

特に(2)は水を汲むために、騎兵隊が護衛につくこととなった。

オクタウィアヌスが湾開口部の北側を押さえたことで、アントニウスはギリシア北部へと抜けることができなくなった。
さらにアグリッパがアクティウム南にあるレフカス島を占拠したことにより、エジプトから補給がとても難しくなってしまったのである。

アントニウスは会戦を熱望したが、アントニウス軍の封鎖が完成した今となっては、オクタウィアヌスが積極的に戦う理由などなかった。

アントニウスはこの状況を打開するために、オクタウィアヌスの泣き所である水源を断つことにする。
オクタウィアヌス軍の南側に陣を設置すると、泉を占拠した。
さらにルロス川への水くみを妨害するため、アンブラキア湾沿岸部に騎兵隊を配置したのである。
しかしオクタウィアヌスの将軍タウルスが、軍を率いてアントニウスの騎兵隊を蹴散らしたため、この作戦はうまく行かなかった。

オクタウィアヌス、アクティウムの海戦でアントニウスを破る

アントニウス軍からの相次ぐ離脱

オクタウィアヌスとアグリッパの作戦がうまくいった結果、追い込まれたのはアントニウスの方だった。
か細い補給線にもかかわらず、動くこともできなくなったのである。

さらに時間が経つと、アントニウス軍の健康状態が悪化した。
あたりまえだが、大軍は人数が多い。
つまり兵たちの汚物も大量に出ることになる。
しかし地中海の入り江は潮流がほとんどなく、汚物を洗い流せる場所がなかったのである。

そこに暑い夏がやってきた。
こうなると、溜まった汚物から赤痢かマラリアと思われる疫病が発生するのは、必然的な結果である。
次第にアントニウス軍に疫病が蔓延しはじめると、多くの兵が病に倒れ、みるみるうちに士気も低下していく。

この状況を、アントニウスも手をこまねいて見ていたわけではない。
一時は部下とともに、アクティウムから艦隊を使って脱出しようとしてみたこともあったのだ。
しかし偶然にもアグリッパが艦隊を率いて現れたために、アントニウスの艦隊は湾内に押し戻されてしまったのである。

アントニウス軍からは、被護国の王や兵士たち、またローマ人の兵や将軍が相次いで離反した
もはやアントニウス軍から雪崩をうって逃亡する兵を止めることは、誰にもできなくなっていたのである。
アクティウムでの戦いは、戦う前からすでに勝敗がついていたのだ。

アントニウス、クレオパトラと脱出計画を練る

ここに至ってアントニウスは、大幅に作戦を変更した。
それは、艦隊をアンブラキア湾から出航させ、大規模な海戦をすることである。
しかしこれは勝つための戦い、というよりは、アントニウス自身と軍団兵、クレオパトラをエジプトへと逃亡させるための戦いだった。
アントニウスはアクティウムから逃れたあと、エジプトとその西隣にいるキュレナイカの軍団と交流し、再起を図るつもりだった。

だがこの作戦もデッリウスというものによって、オクタウィアヌス側に情報が漏れていた。
とはいえ狭い海域で戦っていては、数でまさるオクタウィアヌス軍にとって、不利となる。
逃亡者が相次ぐアントニウス軍には船の漕手が足らないため、使えない船を敵の手に渡さないよう、アントニウスの命令によって燃やされていた。
当初500隻ほどあった軍船は、半分以下の230隻にまで減少していたのである。

実質的な総司令官であるアグリッパは、敵を外洋に誘い出し、そこで北側に回り込みながら相手を囲い込む作戦を立てた。
オクタウィアヌス軍の軍船は400隻。
アントニウスが5段櫂船という大型のガレー船に対し、アグリッパは小回りの効く3段櫂船を揃えていた。
ただしアントニウス軍は漕手が多いので、機動力は高かった。

アクティウムの海戦

9月2日、ついにアントニウスは動く。
2万の軍団兵と弓兵を載せた船を4つの艦隊に分割し、アンブラキア湾の入り江から外洋に向けて出航する。
対するアグリッパはアンブラキア湾の入り口を塞ぐように艦隊を配置。
その総勢は8個軍団と5個大隊、およそ4万の兵が船に乗っていた。

アクティウムでの両軍布陣図
アクティウムでの両軍布陣図
アウグストゥス ローマ帝国のはじまりより

アントニウスは比較的安全な岬近くに停泊し、アグリッパが攻撃の誘惑にかられて、午前中いっぱい誘い込まれるのを待った。
しかしアグリッパはその手に乗らず、作戦通り敵が外洋へと進むまで、状況を見守っていた。
アントニウスは仕方なく艦隊を進ませる。
アントニウス自身は右翼(北側)艦隊の指揮を取り、左翼はソシウスが担当。
後方では戦で何もできないクレオパトラが、ことの成り行きをただ見守るしかなかった。

午後、両者は激突した。
戦闘はアグリッパの狙い通り、アントニウス軍の大型ガレー船1隻を、オクタウィアヌス軍の小型ガレー船が3~4隻で取り囲んで攻撃する、という展開になった。
さらにアグリッパは北側に艦隊を回り込ませ、敵の包囲を試みる。
オクタウィアヌス側は、ある程度作戦がうまく運んでいると考えていた。
アントニウス軍の船は、この包囲を突破することができそうになかったからだ。

アクティウムの海戦
アクティウムの海戦
Lorenzo A. Castro [Public domain] | Wikipedeiaより

しかし午後の早いうちに、北側からの風向きへと変化した。
この瞬間、いままで戦闘に加わっていないクレオパトラ艦隊が、一斉に帆を高く張り、手薄になった敵の中央を突破したのである。
クレオパトラが帆を張って敵中を突破したことは、彼女の船の帆が緋紫色だったことからすぐに分かった。

それを見たアントニウスも、小型船に乗り換えてクレオパトラの後を追った
本来なら海戦時に積み込むはずのない帆を、アントニウスは高々と掲げて逃亡したのである。

アグリッパたちの誤算と、大勝利での終了

当然オクタウィアヌスもアグリッパも、アントニウスが逃亡の計画を練っていることや、そのために普段は積むはずのない帆を船上に搭載していることは知っていた。
だが、アントニウスが海戦を指揮する間、逃亡の指揮まで執ることはできないと考えていた。
アグリッパが北側に回り込んだため、中央部に敵艦隊の抜け出るわずかな道ができたのである。
クレオパトラとアントニウスが綿密に立てた計画が奏功した結果だった。

しかし代償もまた大きかった。
アントニウスは、自分に続いてガレー船が何隻かは逃亡するよう願っていたが、そのほとんどはオクタウィアヌス軍に降伏した。
また陸上にいた別部隊も、アントニウスが彼らを「見捨てた」ことを知ると、アントニウスに付き従ってきた将軍たち数名以外は、オクタウィアヌス側へと鞍替えしたのである。

こうしてアクティウムの海戦は、オクタウィアヌス軍圧勝のうちに幕を閉じたのであった。

アントニウスとクレオパトラの最期

オクタウィアヌスは、アントニウスたちをすぐに追って決着をつけようとはしなかった。
アントニウスがアテにしていたキュレナイカの4個軍団は、アクティウムの海戦後、オクタウィアヌス側につくことを表明しており、アントニウスからの反撃が来ることはないと予想していたからである。

イタリアでの戦後処理

イタリアでは、いくつかの問題が持ち上がっていた。
一つはアクティウムの戦いのあと、古参兵たちを正式に除隊させたことによる、年金問題である。
当面の資金がなかったため、土地や金を与えることなく退役させた結果、兵たちの不満が募った。
この問題は、イタリアにアグリッパを呼び戻し、処理に当たらせた。

もう一つがオクタウィアヌスの暗殺計画である。
この計画の首謀者は、あの三頭政治の一角にいたレピドゥスの息子だ。
この事件のウラでは、アントニウスとクレオパトラが関わっていたと噂されたが、真相は定かではない。
この問題については、オクタウィアヌスに代わってイタリアで全権を握るマエケナスが処理をした。
事件発覚後、レピドゥスの息子、およびその妻は処刑された。

その間、オクタウィアヌスはサモス島でこれまでの疲れを癒そうとしていた。
だが前30年1月、不満を次第に態度に現し始めた兵たちの対処を願う、アグリッパの書状が届く。
オクタウィアヌスはイタリアに戻ると、兵たちの要求通り支払いの約束をして、ようやく事を収めることができた。

しかし当座の資金は手元にない。
ではどうするのか。
オクタウィアヌスは、豊かなエジプトと、エジプトの財宝を奪うつもりでいた。

エジプト侵攻とアントニウスの死

エジプトへの侵攻は、キュレナイカの4個軍団を西から、 自ら率いる軍をシリア方面から進軍させ、挟み撃ちにする作戦をとる。
東方諸国や軍団に見限られたアントニウスを討つのに、もはやアグリッパの力を借りるまでもなかった。

アントニウスとクレオパトラの運命は、尽きようとしていた。
エジプトからローマへ、さまざまな講和の条件を携えて派遣した特使たちは、オクタウィアヌスにすべて無視されていたのだ。

前30年8月1日、アントニウスが挑んだ最後の戦いも失敗に終わった。
アレクサンドリアに引き返すと、女王はすでに死んだと聞かされたアントニウスは、全てに絶望して自刃する。
しかしクレオパトラは死んでいなかったのだ。
彼女はまだ息のあるアントニウスは自分のもとに運び込ませる。
アントニウスは、女王のもとで息を引き取った。
享年54歳。

クレオパトラの最期

オクタウィアヌスはアレクサンドリアに入ると、クレオパトラを捕らえさせ、彼女のためにつくられた霊廟に監禁された。
このままいけば、クレオパトラはローマで行われるオクタウィアヌスの凱旋式に、見世物としてローマ中を引き回されることになるのは明らかだった。

さらにオクタウィアヌスの部下が、

オクタウィアヌスは女王と子どもたちを3日以内にエジプトから連れ出すつもりだ

とクレオパトラに漏らしたのである。

クレオパトラは、自分が殺されなくてもオクタウィアヌスにとって不都合な子どもたち、つまりカエサルの嫡子だと主張したカエサリオン(プトレマイオス・カエサル)は殺されることが分かっていた。

ついにクレオパトラは決心した。
2人の女官を除く全ての従者を、霊廟から退出させる。
そしてクレオパトラは自殺した。
享年39歳。
いちじくのかごに毒蛇をいれて持ち込ませ、自らの乳房に噛ませた、という逸話が残っているが、クレオパトラがどのように死んだのかは、誰にもわからなかったようである。

また、カエサリオンと、アントニウスとフルウィアの長男であるアンテュッルスも処刑された。
アンテュッルスは、成人式をあげていたため、ということが理由らしい。
アントニウスとクレオパトラの、その他の子どもである3人、アレクサンドロス・ヘリオス、プトレマイオス・フィラデルフォス、クレオパトラ・セレネは殺されず、オクタウィアヌスの姉、オクタウィアのもとで育てられることが決まった。

ローマ唯一の覇者 ―今回のまとめに代えて―

ついにオクタウィアヌスは、ライバルのアントニウスを倒し、ローマで唯一の覇者となることができたのである。
アポッロニアからアドリア海を渡り、カエサルの名を受け継いでから、実に14年の歳月が流れていた。

内戦終結に伴い、戦時中は開かれているヤヌスの扉が、ついに閉じられようとしていた。
2代目の王であるヌマの時代に一度閉じられてから、戦争続きで開きっぱなしになっているローマに平和が訪れた象徴でもあったのである。

前29年、オクタウィアヌスは3つの勝利を祝う凱旋式を挙行した。
一つは前35年のダルマティアに対する勝利。
一つはクレオパトラに対するアクティウムでの勝利。
そしてもう一つはエジプトに対する勝利。
オクタウィアヌスはエジプトをローマの属州とし、みずからはエジプトの王であるファラオとなり、さらに「2つの領土の領主(上下エジプト)」と同時に「諸王の王」とみなされたのである。

そして前27年、7度目の執政官となったオクタウィアヌスは、誰もが耳を疑うような宣言を、元老院で行ったのだ。
それは、「自らの職務を辞し、元老院に自分がもつすべての権限を返還する」というものである。
つまり、オクタウィアヌスは事実上、共和政の復活を宣言したのであった。

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