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コンスタンティヌス大帝の後を継いだコンスタンティウス2世により、政治や軍事の経験もなく、突如副帝に任命されガリアに赴いたユリアヌス。
予想に反しユリアヌスは軍事的にも政治的にも優れた統治者としての才能を発揮していく。
そしてようやく落ち着いたガリア統治の日々を過ごすユリアヌスのもとに、激震が走る皇帝の書簡が届いたのだった。
ユリアヌス、正帝(アウグストゥス)になる
パリでのクーデター
ガリアでの統治が安定し、軌道に乗り始めた360年の2月か3月ごろ、東方のコンスタンティウス2世から、ササン朝ペルシアと戦うための援軍を派遣する命令が届いた。
内容は以下のとおり。
- 4つの補助軍団すべて
- 各軍団から精強な兵300名ずつ
この兵数は、西方軍の半数から3分の2の規模であり、ようやく安定したガリアの安全を破壊しかねない命令だったのである。
さらにこの命令で派遣する兵には、ガリア出身者が数多く含まれていた。ユリアヌスはガリア兵たちに対し、故郷と家族を見捨てるようなことはさせないと約束していただけに、苦渋の決断を迫られた。
それでもユリアヌスはコンスタンティウス2世に従う意思をみせる。ユリアヌスは、派遣する前に兵たちをユリアヌスのいるパリに集め、最後の晩餐をひらく準備を進めていた。
ところがこの日の夕方、集まった兵がユリアヌスを正帝(アウグストゥス)と宣言したのである。これはコンスタンティウス2世の命令に不満を抱いた兵たちのクーデターだった。
『背教者ユリアヌス』の著者バワーソックによると、騎兵長官ルピキヌスと道長官フロレンティウスの不在期間をねらった、ユリアヌスの計画的なクーデターだったと指摘している。
いずれにしても、ユリアヌスは正帝になることを受け入れた。こうして皇帝ユリアヌスは誕生したのである。
コンスタンティヌス2世との決別と背教者の登場
とはいえユリアヌスは、ただちにコンスタンティウス2世と戦うことを決意したわけではない。自分が正帝になった経緯を説明する書簡を送り、コンスタンティウス2世に皇帝昇進の同意を得るため誠意は見せた。
またライン川下流のフランク族を征服し、ガリアの安定を図っている。
しかしコンスタンティウス2世は、ユリアヌスの『勝手な』正帝就任に激怒した。皇帝にしてみれば、ユリアヌスは自分が不在の西方を任せただけで、あくまで自分の下で働く臣下でしかなかったのである。
またいくら謙虚さをにじませているからとはいえ、いずれ自分に歯向かうかもしれない勢力が出現したことは、受け入れがたい事実だったのだろう。コンスタンティウス2世はユリアヌスに、副帝にとどまることを要請した。
ユリアヌスは、コンスタンティウス2世が正帝就任を受け入れないことを知ると、急激に態度を変える。
ユリアヌスの妻であり、コンスタンティウス2世の妹ヘレナは、このときすでに他界していた。またユリアヌスと皇帝との間を取り持ってくれたコンスタンティウス2世の皇后エウセビアも、この世にはいない。
二人の存在がなくなったことも、ユリアヌスがコンスタンティウス2世と戦う決意を後押しした。
彼は同僚皇帝を批難する。
さらに360年11月6日、副帝就任から5年目にあたるこの日、5周年の祝いをヴィエンナで行った。この祝典に、ユリアヌスは皇帝らしい出で立ちで出席する。そして、あらゆる宗教の信仰を認める寛容令を布告した。
宗教改革で詳しく説明するが、この寛容令こそユリアヌスがキリスト教と決別し、『背教者ユリアヌス』となる始まりだったのである。
ユリアヌス、東へ
コンスタンティウス2世との対決を決意してからのユリアヌスの行動は素早かった。
アラマンニ族の攻撃があったものの(コンスタンティウス2世にそそのかされた証拠をユリアヌスが見つけたようだが、プロパガンダの可能性もある)、その王を捕らえてガリアを安定させた。
道長官にサルティウスを任命してガリアを任せると、361年7月ユリアヌスは軍を3つに分けて東へと軍をすすめる。
ネウィッタ率いる軍と、ヨヴィヌス、ヨヴィウス率いる軍は、陸路を東へ。
ユリアヌス自ら率いる3,000の軍は、艦隊でドナウ川を一気に下って東進した。
この時ユリアヌスに従った兵たちは、どのような人たちだったのか。
実はガリア出身の兵たちが多数つき従っていたのである。しかし彼らはユリアヌスに対し、自分たちの故郷や家族と離れることをあれほど渋っていたはずだ。それなのに、なぜ彼らはコンスタンティウス2世打倒へと向かったのか。
おそらくそれは、コンスタンティウス2世への恨みからだろう。簒奪者マグネンティウスを滅ぼすと、コンスタンティウス2世は簒奪者の支持者狩りを強行し、ガリアやブリタンニアの人々を粛清した。
それが怒りを買う原因となっていたのである。
361年10月、シルミウム(現セルビアのスレムスカ・ミトロヴィツァ)で別れていた軍と合流すると、ユリアヌスは南東のナイスス(現セルビアのニシェ)で、皇帝打倒を正当化するために、ギリシアの各都市やローマ元老院に対してユリアヌスの言い分をしたためた書簡を送った。
また哲学者マクシモスにも書簡をおくり、ローマ古来の宗教祭儀を行うことを名言したのである。
ユリアヌスはついに、ローマ帝国全土に対し、伝統宗教を信仰する表明と、それらの復興を公表したのだった。
ユリアヌス、単独皇帝に
ユリアヌス東進の知らせを受けると、コンスタンティウス2世はペルシアへの対応をすませた。そして軍を西に向けて出発する。
しかし皇帝は小アジアを移動中、キリキアのタルソスで急病にかかり、さらに西の都市モプスクレネで症状が悪化し、11月3日にあっけなくこの世を去ってしまった。
ユリアヌスはコンスタンティウス2世と戦わずして、単独の正帝(アウグストゥス)となったのである。
12月11日、ユリアヌスは首都コンスタンティノープルへと到着した。そこでキリスト教徒であるコンスタンティウス2世の葬儀を、キリスト教式に行い、丁重に葬ったのだった。
ユリアヌスの改革
カルケドンでの裁判
コンスタンティノープル到着後、皇帝の葬儀以外で始めに行ったこと。それはユリアヌスに敵対する者たちを裁判でさばくことだった。
この裁判はコンスタンティノープルからボスポラス海峡を挟んで対岸にある、カルケドンで開かれた。ユリアヌス自信はこの裁判から距離を起き、指名した裁判人6名による判決で結果を決める。
この6人には次のメンバーが選ばれた。
- ネウィッタ:ユリアヌスの臣下、軍人
- アギロ:ユリアヌスの臣下、軍人
- マメルティヌス:ユリアヌスの臣下、文人
- サルティウス:ユリアヌスの臣下、行政官
- ヨウィウス:ユリアヌスの臣下、軍人
- アルビディオ:元コンスタンティウス2世臣下、軍人
これを見ていただくと分かることがある。それは、ほとんどがユリアヌスの部下であり、それもガリア時代からの臣下がほぼすべてだということだ。
ユリアヌスは前皇帝の臣下計12人をさばいたが、宦官エウセビオスなどを死刑や追放刑に処した。中でも『鎖の』とあだ名された悪名高き秘書官パウルスに至っては、最も厳しい火あぶりの刑が適用された。
この裁判のあと、ユリアヌスは首都および帝国の改革を行っていく。
宮廷改革
皇帝が住むコンスタンティノープルの宮廷には、年を追うごとに使用人の数が多くなっていったようだ。修辞学者リバニオスによると、この頃の宮廷には1,000の料理人と理髪師がいたという。
こんな話がある。
ユリアヌスが理髪師を呼ぼうとしたところ、豪華な衣装をまとった人物が彼の前に姿を見せた。ユリアヌスはこの人物に対し、次のように言ったという。
私は理髪師を呼んだのであって、財務官僚を呼んだのではない!
ユリアヌスは多すぎる使用人を追い出し、また使用人たちの報酬も、適正価格に戻して、帝国民の税負担を改めたのである。
さらにコンスタンティウス2世の時代には、疑り深い彼の性格を反映して、書記官やスパイたちが暗躍していた。彼らは帝国の公用郵便制度(クルスス・プブリクス)を乱用し、都市に大きな負担をかけていた。
ユリアヌスは政府から彼らを取り除くことで、都市の負担を軽くしただけでなく、皇帝に対しても風通しをよくするよう務めたのである。
都市改革
ユリアヌスは、ローマ帝国の活力の源である都市に対しても、税負担を軽くし活力を取り戻させるさまざまな改革を行った。
宮廷改革で秘書官、スパイの排除について言及したが、これに関連する公用郵便制度(クルスス・プブリクス)の利用許可証を、皇帝と一部の人間にしか発行できないように厳格化した。
またその他にも、次のようなことを行っている。
- キリスト教徒の都市参議会委員の勤務免除の廃止
- 不当に押収されていた都市の土地を返還
- 帝冠献納の義務化を廃止
- 徴税官の勤務を5年続けたら、1年の休憩を挟む
- 滞納金の減額と、新税の賦課や旧税の免除の厳格化
当時ローマ元老院の都市版とも言える、都市参議会への勤務に対し、キリスト教徒は免除されていた。
ユリアヌスは教徒たちに、キリスト教信者という理由で都市参議会勤務を免除することはできないとの宣言をしたのだ。
これは反キリスト教施策というより、少しでも有力な人物を都市の行政に参加させたいという、ユリアヌスの意図があったようである。
ユリアヌスはまた、政府が不当に取り上げた土地を都市に返還し、この土地を都市が賃貸しすることで都市収入を増やそうとした。
帝冠献納とは、各都市が皇帝に黄金の花輪を準備し、互いに競う習慣のこと。この帝冠づくりが都市に大きな負担となっていた。
ユリアヌスは半ば義務化していた帝冠献納を、各都市の自由意志に任せることを宣言した。
この措置は、不当な徴税を受けた市民が徴税官を告発し、それに対処できる期間を設ける目的があった。
詐欺行為で有罪になったものは、拷問が待っていた。
これまで必要以上に取り立てられていたせいで、支払い困難となっていた都市の滞納金を減額するとともに、皇帝が許可しないと新税を新たに課すことや、旧税の免除をできないようにした。
これらはすでに、ガリア時代にユリアヌスが行ってきた施策を発展させたものである。彼は都市を健全にすることで、帝国をより安定させることができると考えていた。
そしてそれは、彼が富や贅沢に無関心な、禁欲生活も苦にしないからこそ、徹底できたのである。
宗教改革
ユリアヌスは単独皇帝となったことで、本格的にローマ古来の神々に対する信仰を復興させることにした。
まず伝統宗教の寺院を再開させ、生贄や捧げものを伴う古来の神々への礼拝の復興を宣言した。
さらにユリアヌスが行ったことは、キリスト教の緩やかな排除である。それはハードな内容をともなう「迫害」といった直接的なものではなく、帝国から徐々にキリスト教を追い出し、人々の記憶から消し去る方法だった。
たとえば、当時のキリスト教で正統と認められていたのは、アリウス派だったが、ユリアヌスはアタナシウスはの復帰を認めた。
これは一見キリスト教の多様化を認めているようだが、彼の狙いはキリスト教同士の内部抗争を煽ることで、疲弊させることを意図していたのである。
その証拠に、アリウス派の教徒が元の司教区へと戻ることは認めていない。
また伝統的な文学を教える教師に、キリスト教信者の就任を禁止した。教育がその後の思想に影響を与えることを、ユリアヌスは熟知していたのである。
この他にも、ユダヤ人の要請に応じてイェルサレムにユダヤの神殿建設を試みたりもした。これも宗教対立を煽っていることは明らかだろう。ただしこの神殿建設は、火災のため失敗したようだが。
しかしユリアヌスが行ったこれらの改革は、果たして成功したのだろうか。その答えはペルシア遠征のために立ち寄ったアンティオキアで、証明されるのだった。
アンティオキアでの試練
ユリアヌスは、前皇帝時代からの課題である対ササン朝ペルシア問題を解決すべく、東方への遠征を計画する。その前線基地として選んだのが、アンティオキア(現トルコ、アンタキア)だった。
コンスタンティノープル入城からわずか8ヶ月の後、首都を出発して362年7月18日に、ユリアヌスはアンティオキアへと入った。
アンティオキアでの施策
訪れたアンティオキアで、ユリアヌスは主に次の3つの問題を解決しようと試みている。
- 食糧難
- 伝統宗教の復興
- 都市参議員不足の解消
食糧不足の解消
アンティオキアでは、前年の干ばつに加え、軍の常駐により食料不足が続いていた。それに便乗する形で、富裕層が食料の買い占めにはしり、価格が高騰していたのである。
ユリアヌスは近隣の町と皇帝属州領、さらにエジプトからの穀物を輸入し、売値を流通額より安い値段になるよう指定した。
しかしユリアヌスの対策には問題があった。
それは、次の2点。
- 穀物の配給計画を立てなかったこと
- アンティオキア以外の都市に対して価格統制をしなかったこと
この結果、アンティオキアで穀物を買い、ほかの地方都市で売るものが続出したのである。
また、ユリアヌスは食糧生産に当てる土地300区画を、貧民者のために用意した。もし彼の狙い通りなら、食糧難と貧民対策を両方行うことが可能な、一石二鳥の政策に思われた。
しかしこの政策にも抜け道があった。富裕層が買うことを防ぐための方策を立てていなかったのだ。この結果、金持ちに土地を買い占められて、狙いは大きく外れる結果となってしまった。
伝統宗教の復興
ユリアヌスは皇帝登極当初から、伝統宗教の復興を掲げてきた。そしてそれは、アンティオキアで具体的な施策として現れる。
まず彼はローマの伝統にしたがい、初代皇帝アウグストゥス以来の
皇帝=最高神祇官(宗教のトップ)
最高神祇官として祭儀を行うため、生贄となる犠牲獣や酒、合唱隊を用意するよう、都市参議会に指示を出した。
しかし折しも食糧難による資金難を理由に、アンティオキアの参議会はユリアヌスの要請を拒否したのである。
彼らは代わりに戦車競走や劇場の公演で祝祭を祝おうとしたが、今度はユリアヌスがそれらを認めず、彼自らも見に行くことを拒否した。結局夏の大祭の費用は、国庫から賄わなければならなくなってしまった。
もう一つ、ユリアヌスの伝統宗教の施策で、アンティオキアに人々がユリアヌスを怒らせる事件が発生する。
アンティオキアの近郊にダフネという都市がある。ここにはローマ伝統の神であるアポロン神の神域があった。その中でも特にカスタリアの泉がパワースポットとして有名だった。
ところがその近くに、ユリアヌスの異母兄ガルスが副帝時代、キリスト教の殉教者バビュラスに捧げたお堂を建てていた。
ユリアヌスは、神殿の管理者がこのお堂のせいで神託を受けられなくなったことを聞いたので、このお堂を移転するように命じ、ここを昔のように参拝者が集まるよう復興しようと、アポロン神殿の再建工事を始めた。
しかし何者かの放火と思われる火災により、再建途中の神殿は焼け落ちてしまったのである。
ユリアヌスは激怒し、キリスト教徒を犯人扱いして、アンティオキア大教会を閉鎖し、祭具を没収してしまった。
この事件は、キリスト教徒の反発はもちろんのこと、ローマ伝統宗教を信じる人も困惑させたのだった。
都市参議員不足の解消
ローマ帝国もユリアヌスの頃になると、都市の行政を担う都市参議員は負担が重く、なり手が少なくなっていた。
そこでユリアヌスは他の都市と同じく、アンティオキアでも参議会再生のために、候補者を拡大した。
たとえば議員の男系の子孫だけではなく、女系子孫にも有資格者を適用したり、参議会身分の地方に住む人が、他の都市に登録することも許可したりした。
しかし議員職を避けたい有力者は、賄賂を使って無資格な人々を強引に参議員に加入させたのである。
おかしいと感じたユリアヌスは調査をさせ、彼ら都市参議員の最近の指名を無効とし、再調整を行ったようだ。
ただしこの政策も、アンティオキアの市民から反感を招いたのだった。
アンティオキア市民との対立
アンティオキアでの施策は、ユリアヌスとアンティオキア市民、特に有力者との対立を深めてしまう結果となった。
アンティオキア市民は皇帝に対し、風刺を展開して皮肉を浴びせた。特にギリシアかぶれの皇帝のひげ顔をあざ笑ったのである。
ユリアヌスは彼らに剣ではなくペンで対抗する。彼は『ミソポゴン』という著作を刊行したのだ。ミソポゴンとは、ギリシア語でひげ嫌いを意味する。この著書で風刺を展開した。
これらはユリアヌスと市民との対立を激化させ、ユリアヌスの孤立が深まるばかりだった。
ガリアで一定の成果を見せたユリアヌスの政策が、なぜアンティオキアでうまくいなかったのだろうか。
私は、東方と西方での住人の違いがあると考えている。
ユリアヌスはマルクス・アウレリウス帝を尊敬し、皇帝になってからも贅沢に興味がなく禁欲生活を貫いている。
西方では彼の生き方のスタイルが、市民たちとしっかりとマッチしていたのではないだろうか。彼は皇帝として模範を見せることで、彼らの尊敬を集め、さらに市民たちの生活に安定をもたらした。
ところが東方では、市民たちが豪奢な暮らしをすることも厭わなかった。特に貧富の差が拡大し、さらに富裕層が積極的に公共へ財産を寄与する、いわゆる『エヴェルジェティズム』が廃れて自己中心的となっていくなかで、ユリアヌスのような生き方は、流行らなかったのかもしれない。
さらにアンティオキアは五大司教区のある都市で、住人のほとんどがキリスト教化していたという。このことも、伝統宗教復興を目指すユリアヌスにとって、大きな壁となって立ちはだかった要因だろう。
結局ユリアヌスは失意のまま、363年3月5日、ペルシア遠征に出発することとなった。
ペルシア遠征とユリアヌスの死
遠征の理由
ユリアヌスはアンティオキアを出発し、遠征を開始した。ペルシア遠征軍は6万とも8万以上とも言われている。もちろんユリアヌスがこんな大軍を指揮するのは、初めての経験だった。
ところでユリアヌスがササン朝ペルシアへと遠征する理由は何だったのだろうか。
それは直接的理由と、間接的理由に別れていたと思われる。
- 直接的理由:コンスタンティウス2世時代に残したペルシアとの外交問題の解決
- 間接的理由:アンティオキアで市民と対立した経験から、皇帝の権威を軍事的成功で強化したいという狙い
おそらくガリア時代に経験したアルゲントラトゥムの戦いが、記憶に大きくのこっていたのだろう。ペルシア遠征さえ成功すれば、彼の政策も受け入れられるに違いないと考えるのは、そうおかしなことではないと思う。
そのため、不吉な前兆の頻発や、絶大な信頼を寄せる部下サルティウスが、
ペルシア遠征は時期尚早
と助言しても、それを無視してペルシアに軍を進めたのではないだろうか。
クテシフォンへの道のり
さて、ユリアヌスはカルキスの郊外から、ベロア(現アレッポ)、バトナへと進み、ヒエラポリスに到達する。
ヒエラポリスで補給の準備を確認したあと、北ユーフラテス川で艦隊を編成しているという知らせを受けた。
さらに北メソポタミアに入るとカラエへと進み、ここで軍を2手に分ける。一方の軍は東方に進出し、アルメニア王の支援を受けて隣国メディア征服を計画。実は遠征前に、アルメニア王に物資と兵の支援を要請していたのだ。兵の数は30,000。
もう一方、つまりユリアヌスが率いる本隊は南下し、ユーフラテス川沿いに進軍する。そして両軍はササン朝ペルシアの首都クテシフォン近くで合流する予定を立てた。
ユリアヌス軍はカリニクム(現ラッカ)まで進むと、艦隊と合流する。それは1,000隻の船(おそらくは輸送船)と50隻の軍船、さらに船橋用の平底船がある大艦隊だった。
軍はユーフラテス川沿いを南へすすみ、ハブール川との合流地点キルケシウムで船橋を作って川を渡る。次々と要塞を落としながらさらに南にすすみ、マケプラクタに達した地点で、トラヤヌス帝やセプティミウス・セウェルス帝が使用したティグリス川とユーフラテス川をつなぐ運河をつかって艦隊をティグリス川へと移動させた。
そしてついに敵国の首都、クテシフォンへと到達したのである。
撤退
ユリアヌスは夜陰に紛れてティグリス川を渡り、クテシフォン近くに陣を構えるペルシア軍を攻撃した。それは一定の成果をあげたものの、クテシフォンを攻囲できるまでには至らなかった。
またユリアヌスは、途中で分けた30,000の軍が未だに合流できていないことも気にかかっていた。そしてペルシア王シャープール2世の軍はクテシフォン郊外に集結している。
ユリアヌスはここで撤退を決意。しかし大軍は、進軍の容易さとはちがい、撤退時には軍の移動に困難がともなった。さらに大艦隊を川の上流へと移動しなければならないのも難しい。
ユリアヌスは敵に奪われる危険があるとして、連れてきた船に火を放った。これは味方に偽装した敵のスパイの偽情報とも、ローマ軍将校の進言とも言われている。ユリアヌスはこの命令を撤回したが、すでに遅く、火は艦隊を焼き払ってしまったのだった。
ユリアヌスのミスは、ティグリス川を西へ渡る前に艦隊を焼いてしまったことだ。ローマ軍はこのために、ペルシアから断続的に攻撃を受けることになったのである。
ユリアヌスの死
補給物資、とくに食料が積んであった艦隊を灰にしてしまったことで、次第にローマ軍は食料欠乏に悩まされることになる。
加えて敵兵が先回りして、ローマの撤退経路にあたる土地の作物を根こそぎ奪うことで、ローマ軍を一層困らせたのである。
いつ果てるともない撤退と間断なく迫ってくる敵影に、ローマ軍は徐々に消耗していく。
そして363年6月26日、ペルシア軍の猛攻を受けた後、敵軍さらに迫るとの報を聞きつけ、ユリアヌスは最前線の兵を鼓舞しようとし、あわてて馬に乗った。彼はこの時胸当てもせず、防具といえば左手に持つ盾だけだった。
そして敵味方入り乱れる中、ユリアヌスは何者かが放った投げ槍に脇腹を貫かれて倒れる。味方によって慌ててテントの中に運び込まれたが出血量が多く、ユリアヌスはまもなく永遠の眠りについた。
享年32歳。ユリアヌスは偶然にも、彼が敬愛したもうひとりの人物、アレクサンドロス大王と同じ歳に死んだのである。
今回のまとめ
それでは『背教者』ユリアヌスについて、おさらいしよう。
- コンスタンティヌス大帝の甥として誕生したが、幼い頃軍の暴走により父や親族の虐殺を経験した
- キリスト教の教育を受けたが、青年期の学びで次第に哲学に興味を惹かれるようになった
- 政治や軍事の経験が全くなかったにも関わらず、副帝に任命されたが、任されたガリアで目覚ましい成果を上げた
- ガリア勢力を基盤に正帝となって軍を東に勧めたが、戦う前に皇帝が死亡したため単独の皇帝になった
- 皇帝登極後、数々の改革を行った。特にローマ伝統宗教の復興を試みたため、『背教者』と呼ばれるようになった
- アンティオキアで行った政策で有力市民たちと対立し、孤立を深めた
- 対ペルシア戦争中、撤退戦で死亡した
前半生を見たとき、副帝に任命されてからの活躍、特にガリアでの成果は奇跡に近い出来事だったのではないだろうか。古き良きローマの復興を試みたユリアヌスが、もう少し長く皇帝を続けていたら、ローマ帝国の命運は違っていたと夢想する。
しかしアンティオキアの成果を見る限り、彼の思想は時代遅れだったと感じることもある。特に東と西での温度差もあることから、次第に帝国のきしみが表面化していったのかもしれない。
ユリアヌスの死後、ペルシアから無事撤退するため、あとを継いだヨウィアヌスはペルシア王に対して大幅な譲歩を提案する。ササン朝ペルシアに割譲した領土は、その後ローマ帝国の領土に戻ることはなかった。