父の下で同盟市戦争を戦ったポンペイウスは、父の死後マリウスとスッラの争いを経験する。
スッラに味方すると決めたポンペイウスは、自力で集めた軍を率いてスッラの下に参戦。スッラに軍事的才能を認められ、彼の命令でシキリアとアフリカを平定し、若干26歳でローマ最年少の凱旋式を挙げる。
スッラの死後もレピドゥスの反乱を鎮圧し、さらに名声を高めていくポンペイウス。そして彼はヒスパニア(スペイン)に赴き、スッラ派に敵対する将軍セルトリウスと戦うことになる。
しかしセルトリウスの巧みな用兵により、人生で初めての敗北をポンペイウスは経験したのだった。
セルトリウス、ポンペイウスたちを苦しめる
メテッルス・ピウス、セルトリウスの右腕を討つ
ポンペイウスがセルトリウスに手痛い打撃を受けていたころ、もうひとりの遠征軍司令官メテッルス・ピウスはイタリカ(現セビーリャ付近)で、セルトリウスの副官ヒストゥレイウスの軍を壊滅させるという、大きな成果をあげていた。
兵を失ったヒストゥレイウスはルシタニアに戻り、セルトリウスと合流する。メテッルス(とポンペイウス)はピレネーの南端に冬営地を設置し、年明けの作戦に備えた。
年が改まった前75年春、ポンペイウスは再びスペインの南岸沿いを進軍。ヴァレンティア(現バレンシア)付近でペルペルナと衝突したが、難なく破ると敵の拠点となっていた町を破壊した。
一方のメテッルスは内陸部に軍を進める。セゴビア付近でふたたびヒルトゥレイウス(このときはルキウス、クィントゥス兄弟がともにいた)と戦い、敵を包囲してまたもや殲滅したのである。
この戦いでヒルトゥレイウス兄弟は戦死。セルトリウスは右腕といえる部下を失った。
スクロ川の戦い
ヒルトゥレイウスが敗れたことで、遠征両軍の合流を恐れたセルトリウスは、ポンペイウスをなんとしても戦いに引きずり込みたかった。
ヴァレンティア付近のスクロ川(現フカル川)で両軍は対峙。ポンペイウスが戦いに応じたことで、セルとリウスの思惑通りことが進む。
互いに右翼側で相手の左翼を押すポンペイウスとセルトリウス。そしてポンペイウスの副将アフラニウス率いる左翼が、セルトリウスによって破られると、白兵戦で傷ついたポンペイウスも、馬をオトリにして戦場から脱出する羽目になった。
アフラニウスはセルトリウスの陣を強奪する計画をたてたが、夜のうちに戻ってきたセルトリウスにまたもや敗れ去ってしまったのである。
セルトリウスは、あと一歩のところまでポンペイウスを追い詰めたが、メテッルス軍接近の知らせを受け戦いを断念した。
セルトリウスは悔しがり、
「老婆(メテッルス)」が来なければ「小僧(ポンペイウス)」を始末できたのに
と叫んだようである。
サグントゥム平原の戦い
セルトリウスに苦戦を強いられたポンペイウスは、メテッルスと合流することでより大きな軍勢へと変貌した。一方のセルトリウスも、ペルペルナと合流。両軍決戦の準備が整ったのである。
セルトリウスは、大きくなったことで補給に苦しむ敵に、またしてもお得意のゲリラ戦法で優位な立場を確保すると、そのまま戦闘に引きずり込むことに成功した。
そしてセルトリウスは三度ポンペイウスと激突。この戦闘はよほどの激戦だったようで、ポンペイウスは副官のメンミウスを失ってしまう。さらに自身の軍もセルトリウスに壊滅させられそうになってしまった。
しかしメテッルスがペルペルナを蹴散らして、ポンペイウスに迫るセルトリウスの攻撃を持ちこたえたために、ポンペイウスは大勢を立て直すことができたようである。
セルトリウスは状況を不利と見るや退却を始めた。しかしこれは彼の秀逸な罠だったのだ。クルニアの町(現ヌマンティアの西)で敵を待ち構えると、ここでもゲリラ戦で敵軍を困惑させ、敵を撤退に追い込んだのだった。
ポンペイウスはセルトリウスに、3度も煮え湯を飲まされたことになったのである。
セルトリウス・ミトリダテス6世と同盟を結ぶ
セルトリウスの巧みなゲリラ戦と彼に協力する海賊たちの妨害で、ポンペイウスとメテッルスの両軍は次第に物資不足に悩まされる。
とくにポンペイウスはこれまでの戦争で資金を使い果たし、私財まで投入していたのだ。兵士たちへの給料支払いは限界を迎えていた。
そこでメテッルスは一旦ガリアへと引き返し、ポンペイウスはスペイン北部のウァカエイ族の地(現バリャドリード付近?)での冬営に入る。
一方のセルトリウスは、領土拡大を狙う東方のミトリダテス6世と手を組むことに決める。スペインの状況でローマを出し抜くチャンスとみたミトリダテスが、セルトリウスに使者を送ったのである。
ミトリダテスの支援により、セルトリウスは40隻のガレー船と銀3000タラントンを受け取った。セルトリウスの勢いは、ますます加速していくかのように思えた。
実はセルトリウス、前75年にポンペイウスやメテッルスに対し、停戦を申し込んでいるようなのだ。スペインを明け渡す代わりに、自分のイタリア帰還を許してほしいと。
一私人としてイタリアで余生を過ごそうとしたセルトリウスの申し出は、あいにくポンペイウスらに握りつぶされてしまったらしい。
ポンペイウス、セルトリウス戦争を終結させる
イタリア本国からの援助
このままでは戦争継続に支障が出ると考えた2将軍は、前74年、ローマ本国に使いを送り、資金援助と追加の軍団派遣を要請した。
特にポンペイウスは、このままローマが自分たちに何もしないと、戦争の継続を断念しなければならない、自分はイタリアに帰るとまで言い切ったのである。
この年の執政官の一人がルキウス・リキニウス・ルクッルス。かつてスッラの下でメテッルス・ピウスやポンペイウスとともに、マリウス派と戦った人物である。また、メテッルス・ピウスとは“いとこ”の関係でもあった。
ルクッルスはスペインからの要請に、資金の投入と新たに2個軍団の派遣を元老院に認めさせた。この結果、スペインでセルトリウスとの戦いを継続できるようになったのである。
ポンペイウス・メテッルス連合軍、セルトリウスを追い詰める
本国から資金と兵力の援助を得たポンペイウスとメテッルスは、前74年春から再びスペイン侵攻を開始。
この年はスペイン各地で多くの都市を占領。しかしポンペイウスはパランティア(現パレンシア)の占領途中で、またしてもセルトリウス軍の邪魔にあい、カラグッリス郊外で戦った結果敗北し、3,000の兵を失った。
ポンペイウス、これでセルトリウスに戦闘で4度の敗北を経験したことになる。
とはいえ、セルトリウスも苦しい戦いを続けていたことは確かだ。いくら戦闘で勝利を重ねても、彼一人ではスペイン全土を守ることなどできない。ローマは大軍を活かし、セルトリウスの外堀を徐々に埋めていったのである。
この年は冬営地へと引き上げたポンペイウスとメテッルスだったが、翌前73年も2将軍の攻勢は続き、セルトリウスから大半の要塞を奪回することに成功。セルトリウスは次第に追い詰められていった。
セルトリウスの死と戦争の終結
前72年、ポンペイウスたちが苦しめられてきたセルトリウスとの決着は、実にあっけなくついてしまう。セルトリウスが暗殺されてしまったのである。
セルトリウスはスペインで、ローマ風の行政機構を再現するため、ローマ本国とは独立した元老院を独自に創設していた。また、彼は教育にも力を入れ、学校も作っていたのだ。
ところが前73年頃からスペイン情勢の雲行きが怪しくなると、セルトリウスの態度は次第に乱れ、酒に溺れるようになったらしい。また原住民へ態度もきびしくなり、たびたび恨みを買うこともあったようだ。
以前からセルトリウスの地位を狙っていたペルペルナにとって、セルトリウスの豹変は好都合だった。彼は元老院と結託すると、セルトリウスを酒席に招き暗殺したのである。
しかしセルトリウスに変わって実権を握ったペルペルナの天下も、長くは続かなかった。
ポンペイウスは戦場でペルペルナと対峙すると、巧みな誘導でペルペルナを罠にかけ簡単に破ってしまう。ペルペルナではポンペイウスの相手が務まらなかったらしい。結局ペルペルナは捕虜となり、その後処刑された。
こうして前80年から続いたセルトリウス戦争は、足掛け8年(ポンペイウスが参戦してから4年)でようやく終結したのである。
またスペイン遠征により、ポンペイウスはスペインやガリア南部にも庇護民(クリエンテス)を得ることになる。これでポンペイウスはスッラ時代の庇護地域を加えると、西地中海全域に自分の勢力を得ることができたのだった。
ポンペイウス、異例の年齢で執政官に就任する
イタリアへの帰還とスパルタクスの乱参戦
ポンペイウスがスペインでの戦争を終えた同じ時、イタリア本国では奴隷による大きな反乱の真っ最中だった。その反乱の中心にいた人物は、元剣闘士のスパルタクス。反乱勢力は10万人を超える規模に膨らんでいた。
スパルタクスの乱については、スパルタクス―第三次奴隷戦争と呼ばれる反乱を指揮し、故郷を目指した剣闘士―に詳しく書いてあるので、興味のある方はご一読いただければと思う。
現職の法務官や執政官が奴隷軍に次々と撃破される中、反乱鎮圧に名乗りをあげたのがクラッスス。ローマ一の資産家になっていた彼は、自分の財産だけで6個軍団を編成し、奴隷軍鎮圧に乗り出したのである。
またクラッススは同時に自分の力だけを頼ろうとはせず、スペインのポンペイウス、東方遠征に出かけていたルクッルス(前74年の執政官)にも援軍を要請したのだった。
前71年、ポンペイウスはクラッススに応え、イタリア北部から進軍。クラッススによってほぼ鎮圧されていた反乱軍の残党を始末する。約5,000人がポンペイウス軍の餌食となった。
セルトリウス戦争終結とスパルタクスの乱鎮圧の実績を手に、ポンペイウスはローマへと帰還する。この時彼は、ある野望を胸に秘めていた。
元老院へ執政官立候補を要求
その野望とは、2回めの凱旋式挙行と執政官選挙への立候補である。しかしローマでは、とくにスッラの独裁官時代に定められた法により、名誉あるキャリア(クルスス・ホノルム)を経験せずに執政官選挙に名乗りを上げることはできなかった。
ローマの公職(政務官)を、決まった年齢で徐々に高位のものに就任していく制度。通常『財務官(クァエストル)』より始まり、平民なら『護民官』をへて、
按察官(アエディリス)→法務官(プラエトル)→執政官(コンスル)
と階梯を登っていく。また、上位2つの政務官には、民会による選挙で選ばれる必要があった。
加えて執政官選挙に出馬するには、クルスス・ホノルムを順調に昇進できたとしても、最低でも40歳程度の年齢になる必要があった。
ところがポンペイウスは、法務官格(「格」とは同程度の権威のこと)や執政官格での命令権行使経験はあるものの、今まで一度も政務官に就任したことがなかったのだ。
さらに彼は前71年の段階で35歳の若さだった。つまり政務官職に就いたこともない(イコール元老院議員でもない)ものが、40歳にもなっていないのに政務官最高職の執政官選挙の立候補を申し出たことになる。
ポンペイウスは、凱旋式と執政官選挙への出馬を元老院に願い出た。しかし保守的な元老院への嘆願だけでは、認めてもらえないのは目に見えている。そこで彼は民衆の前にも姿を表し、演説を始めたのである。
しかしクルスス・ホノルムをすっ飛ばしてまで、ポンペイウスが執政官になりたかったのはなぜだろうか。そこにはポンペイウスの、ある狙いがあった。
護民官職権の回復
その狙いとは、スッラによって制限されていた護民官の職権を回復させること。スッラは元老院体制強化のために、護民官は元老院によってあらかじめ選別された法案しか民会に提出して採決を取れないように制限していた。
それをポンペイウスは元通り、元老院を通さずに護民官が法案を提出し、採決できるようにしたかった。ではなぜポンペイウスは護民官職権の回復を狙ったのか。
その理由は護民官(の何人か)に、自分の息がかかったものを就任させ、ポンペイウスに都合がいい法案の提出(と決定)をさせるつもりだったのである。
ポンペイウスは前71年の護民官パリカヌスに、護民官権限を返すことを民衆の前で約束した。当時元老院議員が刑事裁判を行っていたため、元老院議員の身勝手を許さない制度がなかったのもあり、当然民衆はとても喜んだ。
加えてポンペイウスの人気である。結局元老院は、凱旋式も立候補も認めざるをえなくなったのだった。
同僚執政官クラッスス
さて、古代ローマの政務官制度の特徴として、権力集中を避けるため必ず2人以上の役職を設ける『同僚制』がある。執政官も例外ではなく、毎年2人選出されていた。ではこの年の同僚執政官に名乗りを上げたのは誰か。
実はクラッススが立候補したのである。彼はスッラ時代の金儲け主義で、民衆からあまりいい印象を持たれていない、有り体に言えば人気がなかった。とはいえ、元老院にも強力なパイプを持っているわけでもない。
そこで元老院に警戒されているポンペイウスに近寄ることで彼の名声を利用し、執政官になることを狙ったのだ。
ポンペイウスより10歳ほど年長だったにも関わらず、ポンペイウスに主導権を渡すことを約束した。ポンペイウスは見返りとして、民会の演説でクラッススを次のように応援する。
クラッススを選ぶことで、自分も同じようにに喜ばせてくれる
人気のあったポンペイウスを喜ばせるためならと、民衆たちはクラッススに票を入れることをためらわなかっただろう。こうして前70年の執政官は、ポンペイウスとクラッススに決まったのである。
ポンペイウス、執政官になる
前71年の最後の日である12月29日(この頃はまだユリウス暦が採用されていないため、31日ではない)、執政官就任の前日にポンペイウスは生涯2度目の凱旋式を行った。
そして年が明けて新執政官となった2人により、護民官関連の法案が民会に提出された。もちろんこの法案は民会により可決採択され、護民官の制限、つまり元老院であらかじめ選別された法案しか民会に提出できない決まりが廃止されたのである。
これはスッラのもとで戦ったいわば門下生とも呼べる二人が、スッラの築き上げた体制を崩す皮肉な結果を意味していた。
ポンペイウスとクラッススの執政官コンビは手を取り合って協力し、このままローマの改革を推し進めるかに思われた。
ポンペイウスとクラッススの反目
しかし次第に両者の協力関係は崩れていく。ポンペイウスの出す法案に、同僚のクラッススがことごとく反対し、拒否権を発動したからだ。
なぜクラッススはポンペイウスに協力しなかったのだろうか。
執政官当選のために表向き協力を装ったクラッススだが、実はポンペイウスに好意を抱いているわけではなかった。
おそらくお坊ちゃん育ちで恵まれたポンペイウスに、心のどこかでコンプレックスを抱いていたのだろう。しかしクラッススの心情に決定的な要因があるとすれば、それはスパルタクスの乱を終えたときのポンペイウスの態度だった。
スパルタクスの乱は、明らかにクラッスス指揮のもと鎮圧された争いだった。にも関わらず、ポンペイウスは元老院へ、あたかも自分が反乱に終止符を打ったかのような報告をしたのである。
クラッススにとっては寝耳に水だっただろう。さらに(スパルタクスの乱だけの功績ではないにしろ)ポンペイウスに凱旋式が許されたことも、原因の一つだったかもしれない。
ポンペイウスとクラッスス。彼らの仲の悪さはローマ中の噂となり、今後も不和が続くことになる。
初の執政官はほろ苦いものに
結局ポンペイウスが、第1回目の執政官としてできた主な仕事は、護民官関連の法案のほかには次の2つ。
- 裁判の判決を決める陪審員のなかに騎士身分(エクィテス)300人と地区の代表者300人を加えること。もともと元老院議員のみの300人で占められていたので、元老院の身勝手さは緩和された
- 監察官(ケンスル)による元老院議員の人物調査。この調査で64人もの議員が資格なしとして元老院から追い出された
これ以外はおとなしくせざるを得なかったポンペイウス。一体なぜ彼は執政官として控えめな成果しか残せなかったのだろうか。
ポンペイウスの若さと経験不足のためだろうか。確かに35歳は執政官として若年ではある。しかしポンペイウスはこれまでの属州遠征と現地の行政を担当したため、並の元老院よりもはるかに実務経験は豊富だった。
また執政官としての業務に支障をきたさないため、ポンペイウスはローマ随一の学者であるウァッロを助言役として指名している。そしてポンペイウスのまわりにも十分な経験者がいただろうことが予想されるので、執政官としての落ち度はなかったはずだ。ではなぜか。
これは私の完全な憶測だが、ポンペイウスは元老院議員内のパワーバランスを学ぶ機会に乏しかったため、彼らの意見を調整する思慮に欠けていたと思われる。サラリーマン的に言えば、企画を通すための「根回し」が足りなかったのだ。
本来なら名誉あるキャリア(クルスス・ホノルム)を一つひとつ上っていく段階で議員たちの背後関係や結びつきを学んでいくはずだった。ところがポンペイウスはこの枠から完全にはみ出した、異質な出世を成し遂げてしまった。
このことが、クラッススによる拒否権の発動につながったのである。クラッススは、相対的にだがポンペイウスより「元老院に近い」存在だった。
そしてポンペイウスも、このような面倒な「根回し」での実現ではなく、あくまで自分自身の実力や実績、名声で彼の発言は強化されると信じたのである。
さてスッラの定めたところによれば、執政官の任期終了にともない、あらかじめ決められた担当属州へと赴任することが決まっている。
しかしポンペイウスは執政官時代から、どの属州へも赴任しないと宣言していた。本来なら金のなる木となる属州総督に就任しないものはまずいない。しかしポンペイウスは目先の利益よりも、より大きな果実を手に入れることを望んだ。
それが、この2年後に就任する海賊討伐の責任者となることだった。
ポンペイウス、海賊討伐の最高司令官に任命される
地中海の海賊問題
ポンペイウスの行った海賊討伐を記述する前に、まずは当時ローマが抱えていた海賊問題について説明しておこう。
前3世紀から中盤から始まった3度に渡るカルタゴとの決戦、いわゆるポエニ戦争とそれに続く東地中海のヘレニズム国家との戦争に勝ち抜いたローマは、地中海全域をほぼ手中に収めるに至った。
ローマ人は地中海のことを『我らが海(マーレ・ノストルム)』と呼ぶようになり、彼らの商業活動にとってなくてはならない海となる。しかしヘレニズム国家を倒し、あるいは力を削ぐことで東地中海の沿岸地域の治安が弱まり、海賊たちに活動の余地を与えてしまう皮肉な結果を生んだ。
また当時小アジアで積極的に領土拡張を狙ったミトリダテス6世が、ローマ似対抗するため海賊たちを積極的にバックアップしたため、キリキア西方(現トルコ南西部)を拠点とした海賊行為が横行したのである。
特にエーゲ海のデロス島は、奴隷市場の一大拠点だった。しかしこの奴隷市場を成り立たせていた買い手が、巨大国家ローマあったことも忘れてはならないだろう。
ちなみに前75年、カエサルも海賊に捕まったことがある。カエサルのエピソードについてはユリウス・カエサルⅡ ―弁護士時代から海賊との捕虜生活、『名誉あるキャリア』の道まで―に詳しく書いているので、彼の鮮やかな対処をぜひ読んでいただきたい。
前70年代になると、海賊たちの活動はますます活発になり、上陸してローマ街道を使い、都市を襲撃する事件が多発した。そして現職の法務官2人が海賊に襲われるという、ローマとして屈辱的な事件が起きたのである。
さらに前67年にはローマの玄関港オスティアが海賊に襲われた。こうなるとローマへの食糧供給が絶たれる恐れがあり、市民の暴動を引き起こしかねなかったのである。
元老院は重い腰を上げざるを得なかった。
ポンペイウス以前に海賊問題に取り組んだ将軍たち
とはいえローマも、次第に増えてくる海賊たちに対処しなかったわけではない。ポンペイウス以前にも、海賊退治に乗り出した人物がいたのである。
元老院、同時の法務官マルクス・アントニウスを海賊の本拠地キリキアへと送り出す。前101年には民会で東地中海の同盟諸国が海賊行為に対して介入するべきと民会で決定。
しかしミトリダテス6世の積極的な海賊支援により、問題解決には至らず。
属州総督として、パンフィリア(小アジア南部でキリキアの西隣)からイサウリアまで軍を進める。
海賊の根城を数多く占領したが、根本的な解決には至らず。
後の第二回三頭政治の一角を占める、マルクス・アントニウスの同名の父親で、前74年の法務官。
元老院、初めて本格的な海賊討伐を決め、アントニウスに「ローマが支配する全海岸」の海賊掃討を委任。
大権が与えられたが、準備段階で属州の人々に重い税の取り立てや労働の提供を強要し、大きな反発を招く結果に。
また、イタリア北部のリグリア、スペインの海岸で戦った後にクレタ島へ。しかしここで海賊との海戦に敗北し、屈辱的な講和をする。
アントニウス自身は前71年に死亡。
海賊討伐を委任された将軍たちに共通するのは、ある一定の成果を挙げるものの海賊問題を根本的に解決できていないことだ。
彼らはなぜ海賊たちを完全に討伐できなかったのだろう。また海賊を一掃するために何が必要なのだろうか。
海賊討伐に必要な大権とは
まず1点目の「海賊たちを完全に討伐できなかった理由」。それは属州総督という形で通常の命令権を与え、海賊退治を任せたことにある。
1つのエリアに限定した命令権では、海賊たちを命令権外の地域に逃がしてしまうと、それ以上追いかけることができない。前78年のセルウィリウス・ウァティアがその例だ。
つまり海賊たちを地中海から一掃するためには、
- 属州というエリアに縛られず
- 地中海中をカバーするため、何人もの命令権所有者を動員し
- その命令権を持った将軍たちを使って、彼らをまとめ上げる一人の最高司令官により作戦を実行する
必要があった。
前73年に一度だけ、元老院はその大権を与えたことがあったが、失敗した理由は人選の問題だろう。
軍の指揮を長年務めて実績があり、さらに命令権を与えられる有能な部下や友人たちを数多く持ち、なおかつ彼らを有効に活用できる人物がこの大権を駆使する必要がある。
当時のローマで上記の条件を満たす人物は、ポンペイウス以外にいなかった。
護民官ガビニウス
とはいえ一人にこのような大権を与えることは、独裁を忌み嫌うローマ人たちにとってタブーである。ましてや名声があり軍事的才能が豊かなポンペイウスだ。大権を持ってローマに弓を引けば、独裁も可能となる。
おそらく元老院が簡単に認めないことは、ポンペイウスにも予想できた。そこでポンペイウスは、就任していた自派の護民官ガビニウスに、
海賊に対抗するために一人の将軍を任命することについて
という法案を用意させる。
この法案の内容は次の通り。
- かつてアントニウスが与えられた大権が、海賊討伐の責任者に与えられること
- 法案が通り次第、ローマ市民がその人物を選ぶことができること
前73年にアントニウスに与えられた大権とは、次のようなものだ。
- 任期は3年
- 命令権を持った15人の副官、および財務官をもつ
- 元老院に戦果の報告義務がない絶対権を持つ
- ジブラルタル海峡から東地中海の海岸(つまり全地中海の海岸)から内陸72kmまで有効な命令権を持つ
- 手元にある軍勢と軍艦200隻をすべて自由に使うことができる
- 3600万デナリウスの資金に加え、必要であれば公的金庫から無制限に費用を引き出すことができる
前67年1月、護民官ガビニウスはこの法案を提出すべく、元老院の議場へと向かった。
元老院議員たちの妨害
元老院のフィルターを通す必要がなくなったこの法案が民会に提出されたら、簡単に可決されることは想像に難くない。そこで元老院は、あらゆる手段を使って妨害した。
元老院の中にも、ひとりだけガビニウスの法案に賛成した議員がいた。その人物とは、前69年に財務官となり、元老院議員の仲間入りを果たした新人カエサルである。
まず、ガビニウスが元老院に姿を見せると、元老院議員たちがガビニウスに向かって殺到した。おそらく提案自体を阻止するつもりだったのだろう。
本来なら身体不可侵の護民官だが、ガビニウスは身の危険を感じて逃げた。ところがガビニウスの危機を知った群衆が議場に殺到したため、元老院が逆に会議を中止するしかなかった。
この時、法案反対の急先鋒だった執政官が群衆に捕まり、ガビニウスに救い出されるというハプニングも起きている。
元老院、1回目の敗北だった。
力ずくの妨害に失敗した元老院が次に行ったのは、他の9人の護民官を使ってガビニウスの法案に拒否権を発動させ、成立を阻止することだった。
しかし護民官の一人がそのことを発言した瞬間、ガビニウスは民会に
自分が発案する法を邪魔しようとするものが、護民官であってもいいか
と呼びかけ、トリブス民会に投票させたのである。
つまりこの決議が可決してしまえば、ガビニウスに反対する護民官は直ちに解任されてしまうのだ。
トリブス民会35地域のうち、17地域が不当な邪魔を否認(つまりガビニウスに賛成)した段階で、他の護民官が拒否権発動を見合わせた。
元老院、またしても民衆の力に屈したのである。
ならばと護民官の一人が、同僚制の原則に従い、せめて最高司令官を2人にとの意味を込めて指を2本たてた。しかしこれも民衆のヤジでかき消されただけだった。
結果はガビニウスの完全勝利に終わり、ガビニウス法は成立したのである。
ポンペイウス、海賊討伐の最高司令官へ!
ガビニウスが法を提出している間ローマの町を離れていたポンペイウスは、法案が通ったその夜帰還した。そして翌日、予定通り海賊討伐の司令官に選ばれたのである。
ガビニウスの原案では海賊の討伐に不足しているとし、ポンペイウスは次の項目を原案から変更した。
- 艦隊を200隻から500隻へ増加
- 歩兵12万と騎兵5,000をポンペイウスの指揮下に組み入れる
- 命令権をもつ副官を15人から24人に拡大
この時ポンペイウスは、いまだかつてない規模の軍を指揮する、文字通りローマの最高司令官となったのである。
ポンペイウス、たった3ヶ月で全地中海の海賊たちを一掃する
ポンペイウス、全地中海を9つの区域に分ける
ポンペイウスが大権を与えられてからの行動を見ると、おそらく執政官の任期終了から2年の間に、作戦を十分練っていたのではないかと思う。
ポンペイウスはまず、地中海全域を9つのエリア※に分け、各エリアを担当する副官に沿岸部の海賊たちを攻めさせた。
※プルタルコスのポンペイウス伝には13エリアとあるが、属州の管轄を考慮し、ここでは9つとした。
このときの海域区分と担当副官の人数は次の通り。
- 【第Ⅰエリア】ジブラルタル海峡からピレネー山脈までのスペインの海岸
担当副官:2名 - 【第Ⅱエリア】ガリアの海岸
担当副官:1名 - 【第Ⅲエリア】サルディニア、コルシカへの航路を含めたアフリカ海岸
担当副官:2名 - 【第Ⅳエリア】ティレニア海とアドリア海(イタリア半島からバルカン半島東部)
担当副官:2名 - 【第Ⅴエリア】シキリア、イオニア海とデロス島までのペロポネソス半島
担当副官:2名 - 【第Ⅵエリア】エウボイア島~マケドニアまでの海岸
担当副官:1名 - 【第Ⅶエリア】エーゲ海の島々と、ヘレスポントス(現ダーダネルス海峡)
担当副官:1人 - 【第Ⅷエリア】マルマラ海(ダーダネルス海峡からボスポラス海峡までの海域)
担当副官:1名 - 【第Ⅸエリア】小アジアの南岸とキュプロス、フォイニキア(東地中海岸)
担当副官:1名
そしてポンペイウス自身は、軍艦60隻の『特殊作戦艦隊』を率いて、各地を移動しながら海賊を掃討する、いわゆる遊撃艦隊の役目を負った。
この作戦は、まるでオキアミ漁のようだった。周りから追い込んで、ポンペイウスの艦隊で一気にかたを付ける。問題はいかに各地の副官と連携を取るか、であった。
西地中海での海賊掃討作戦
ポンペイウスの作戦は、前67年春、まず西地中海の海賊殲滅を狙って行われた。スペイン、ガリア、ティレニア海とシキリア全域、さらにサルディニア・コルシカ、アフリカにリビアの海岸から、副官に命じて海賊たちを追い立てたのである。
ポンペイウス自身はシキリアからアフリカに向かうと、属州アフリカ(現チュニジア)、サルディニアで海賊船と戦った。ポンペイウスの電撃作戦により、海賊たちはほとんど戦うことなく降伏するか、一部は本拠地であるキリキアへと逃げ帰ったようである。
エトルリアの港の一つに寄港することで、ポンペイウスの西地中海海賊掃討作戦は完了した。その期間、わずか40日。いかに海賊たちが正規の兵たちでなかったとはいえ、副官たちと連携して取り組んだ作戦が有効だったかがわかるだろう。
これより、ローマの主な穀物輸入先である3属州(アフリカ、シキリア、サルディニア)の安全が確保された。その結果、穀物価格は大幅に下落し、民衆は狂喜したという。
ポンペイウスは続いて自分の艦隊をブルンディシウム(現ブリンディジ)に急行させる。そこから出航して東地中海の海賊たちを一掃する予定だった。
しかし彼は途中ローマにどうしても立ち寄る必要に迫られる。執政官ピソが、自分の委ねられた属州、ガリア・ウルテリオル(アルプス以西の南フランス)で、ポンペイウスの副官に対し、海員からの兵士招集を拒む指令を出したのである。
命令権の罠
なぜピソは上記のようなことができたのか。そこには命令権の罠が潜んでいた。
これまで、幾度となく『命令権』という言葉を出しているので、ここで命令権について、もう一度おさらいしておこう。
命令権(インペリウム)とは、これまで軍指揮権とイコールで使用してきた。しかし本来は執政官などがイタリア本国の外に遠征した際、行政や徴税、裁判権や外交権なども含めた包括的な権限のことを指す言葉である。つまり軍指揮権プラス現地出張行政権とでも思ってもらえればいいだろう。
そしてこの命令権には格、つまり優先順位が存在する。例えば法務官に与えられる命令権よりは執政官に与えられる命令権のほうが、従う優先順位が高いのである。
話を戻すと、執政官ピソの属州総督としての命令権と、ポンペイウスの副官が与えられていた命令権は同格だった。つまり命令権の競合が起こったのだ。
このようなことが起こっては、作戦が破綻してしまうことにもなりかねない。ポンペイウスはローマで執政官ピソを説得した。最悪の自体に備え、ガビニウスに法案を用意させておく。
幸いピソはポンペイウスの求めに応じ、指令を取り下げた。おそらく穀物価格の下落にメリットを感じた民衆の無言の圧力が、ポンペイウスにはあったのだろう。
こうして後顧の憂いを断つことに成功したポンペイウスは、急ぎブルンディシウムへと向かい、東地中海の海賊討伐へ出航したのだった。
ポンペイウス、海賊の根城キリキアへ乗り込む
ブルンディシウムを出航したポンペイウスは、アテネとロドス島に短期滞在した後、海賊の本拠地であるキリキア(現トルコ南西部)へと向かった。
コラケシオン沿岸(現アラヤ)で海賊たちとの海戦に勝利した後は、大した抵抗もなく軍を上陸させた。そして海賊たちの根城である要塞を包囲した。
そのころには海賊たちの間に、ポンペイウスが降伏者を寛大に扱うことが広まっていたらしい。海賊たちは次々と降伏して、120ほどあった要塞はすべて陥落。
ポンペイウスはこの要塞を破壊させて、海賊討伐を完了させたのである。ブルンディシウム出航からわずか49日。全期間をあわせても、海賊討伐に要した時間はたった3ヶ月という驚異的な早さだった。ポンペイウスの天才的な組織運営能力が、改めて実証されたのである。
海賊問題の根本的解決に取り組む
ところでポンペイウスには、降伏した海賊たちを奴隷として売ったり処刑する権利があった。ところがポンペイウスは彼らを故郷に返してやるという寛大な処置を選ぶ。また帰る故郷がなければ、より豊かな土地を用意し、そこに入植させたのだ。それはなぜか。
ポンペイウスは、どうやら海賊たちを「犯罪者」ではなく、生活のためにやむを得ず行っている「かわいそうな人々」という認識があったようだ。
海賊問題の根本的な解決には、その彼らに対しより良い生活条件を創り出す必要があると考えたのである。
そこで前支配者の放棄した土地にある荒廃した都市や、他国に破壊された都市に定住させたのである。この入植は、戦乱の続く小アジア一帯だけでなく、ギリシアのアカイア人としデュメや、南イタリアのタレントゥム付近にも入植地を用意してやった。
余談だがポンペイウスの処置により、キリキアで当時信仰されていたミトラ教がローマに伝わり、やがて一大勢力となったことが、プルタルコスによって記載されている。
ポンペイウスの海賊討伐でもっともメリットが大きかったのは、ギリシア諸都市の人々だった。彼らは海洋民族で、主に地中海貿易を生業としていたからである。ポンペイウスの従属者(クリエンテス)がギリシアにまで広がったことで、東地中海に勢力が及ぶことになったのだった。
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