父と伯父の跡を継ぎ、スペインへと派遣されたスキピオは、たった2日で敵の本拠地を奪い取ると、カルタゴ軍を次々と撃破。イリパでの大勝後、スペインからカルタゴ軍を一掃し、ローマの勢力下へと置くことに成功する。
一方イタリアにいるハンニバルは、スペインから陸路をはるばるやってきた弟ハスドゥルバルとの合流を図るが、ローマ軍に阻止され弟は戦死。
最後の望みを絶たれたハンニバルは、南イタリアに再び退くしかなかった。
アフリカへの決戦に向けて
スキピオ、執政官に当選する
スペインを制圧し、ハンニバルへの兵士の供給源を断つ、という目的を果たしたスキピオは、前205年ローマに帰還すると執政官へと立候補し、当選を果たした。
スキピオの執政官当選は、異例中の異例だった。
まずその若さ。通常なら40歳を超えてからでないと、執政官に立候補すらできないのがローマ政界である。それを、いくら熱狂的な指示を集めたからといっても、彼はまだ30歳であり、必要十分な年齢を満たしていなかった。
もう一つは政務官経験の少なさ。そもそもスペインに司令官として派遣されたときも、按察官(アエディリス)しか経験していなかったのだ。本来なら法務官(プラエトル)に就いてから、政務官最高職の執政官に立候補する、という手順を踏むはずなのだが、それを一足飛びに実現してしまったのだった。
スキピオとアフリカ侵攻への反発
スキピオの若さと、何よりもスキピオが公約として掲げた
カルタゴ本国を衝く
ことが、元老院の反発を招く。その中心となったのが、ローマ政界の重鎮であり、『ローマの盾』と謳われる「クンクタトル」ファビウス。彼は、ハンニバルと戦ったこともある有力議員の一人、フルウィウス・フラックスを味方に引き入れると、スキピオの主張に激しく反対した。
まずはこのイタリアから、ハンニバルを駆逐するべきである。イタリアの地に敵がのさばっているにも関わらず、なぜアフリカへ攻め込む必要があるのか、と。
それでもスキピオは譲らない。アフリカへ上陸し、カルタゴ本国を攻めるのが、この戦争を終らせることができる一番の近道であり、カルタゴが危機を迎えれば、ハンニバルもイタリアに留まっていることはできないはずだ、と。
長く激しい議論の末、スキピオはアフリカ上陸作戦を認めさせた。そして彼は、シチリアと(いまだ領土になっていない)北アフリカを、自分の管轄領分としてシチリアに赴任し、アフリカ上陸の準備を進めたのである。ただし、ファビウスがイタリアでの徴募を認めなかったため、スキピオはシチリアで志願兵を募るしかなかった。
こうしてローマは、開戦当初に計画したアフリカへの侵攻計画を、14年ぶりに実行するときがきたのである。
シュファックスへの接近
カルタゴ本国侵攻への軍備をすすめる一方で、スキピオはヌミディア西方の王シュファックスとも交渉を進めている。
第二次ポエニ戦争Ⅴ ―スキピオのカルタゴ・ノウァ急襲からスペイン制圧まで―で記述したとおり、スペイン攻略時にスキピオは、ヌミディアのもう一つの王国の王子マシニッサと接触し、ローマ側へ引き入れていた。
ヌミディアは良質な騎馬戦力を持つ国である。この国をカルタゴから引き離し、ローマ側につかせることができれば、ローマの戦力を格段にアップすることができるのだ。
すこし時間は遡るが、スペインをほぼ手中に収めたスキピオは、シュファックスのもとを訪れる。もともとマサエシュリー王国はカルタゴに反旗を翻していたが、スキピオはマシニッサだけではなく、シュファックスをも確実にローマへ取り込むつもりだった。
ところがここで思わぬ事態が発生する。イリパでスキピオに破れ、カルタゴ本国へと帰っていたハスドゥルバル・ギスコも、ちょうどこの頃シュファックスのもとにいたのである。
ここでスキピオはハスドゥルバルと同席の饗宴となり、同じ値椅子に横たわって食事をするという、奇妙な光景が生まれた。
この席でシュファックスは、カルタゴとローマの講和を提案したが、さすがにこれは両者とも受け入れられない相談だった。このような事件があったものの、スキピオはシュファックスと友好条約を結ぶという当初の目的を果たし、スペインへと戻ったのである。
マシニッサ、マッシュリー王国を追われる
ところがカルタゴ本国へと戻ったハスドゥルバル・ギスコが、本国での政治的な影響力をつけると、ことは一変する。彼はローマと結んだシュファックスを味方につけるため、自分の娘で美しいソフォニバを嫁がせたのだ。
ハスドゥルバル・ギスコの美貌の娘で、もともとはマシニッサの許嫁。マシニッサが人質としてカルタゴ市で過ごしていた頃に、才能を見込んだ父ハスドゥルバルが、マシニッサに娘を与えると約束していた。
マッシュリー王国では、マシニッサがスペインからいまだ帰国していない時期に、マシニッサの父で王のガイアが死んだ。この時、王位継承の混乱の中で、ラクマゼスという少年が担ぎ上げられる。
彼はマザエトゥルスという、マッシュリー王国の実力者に操られた王でしかなかった。マサエドゥルスはハンニバルの姉妹の娘(ハンニバルにとっては姪)と結婚しており、さらにマサエドゥルスとシュファックスは、以前から縁のある間柄。
つまりマッシュリー王国は、マシニッサのいない間にカルタゴの息のかかった一派に乗っ取られてしまい、さらにシュファックスからも影響を受けるようになっていた。
スペインからアフリカへと戻ったマシニッサは、すでに帰る場所がないことに気づいた。そこで彼は自分の国を取り戻すため、シュファックスとカルタゴ両国を相手にゲリラ戦をしつつ、スキピオの到着を待ったのだった。
スキピオのカルタゴ本国侵攻
スキピオ、アフリカに上陸する
前204年夏、兵の徴募と訓練、艦隊と輸送船団の建造を終えたスキピオは、いよいよリリュバエウムの港からアフリカへ向けて出港した。その数35,000。
この兵の中には、カンナエの戦いで破れ、シチリアに送られていたものもいる。彼らにとって、アフリカ上陸作戦は「カンナエの借りを返す」という意味もあったことだろう。
さて、スキピオはウティカの北東にある、『美の岬』と呼ばれる場所に上陸した。まず近郊のウティカを狙い、ここをカルタゴ攻略の足がかりにする予定だった。
スキピオのアフリカ上陸の報を聞いたマシニッサは、200騎ととともにスキピオ陣営に現れる。塩野七生氏の『ローマ人の物語 ハンニバル戦記 』で、王国を奪われたマシニッサとスキピオの対面を描くシーンは、私が好きな場面の一つなので紹介したい。
二百騎のみを従えてスキピオの前に姿をあらわしたマシニッサは、砂漠の一匹狼を思わせる精悍(せいかん)な風貌(ふうぼう)を崩しもせず、スキピオの眼にじっと視線をあてながら言った。
「あなたは、二年前にわたしとの同盟を望んだが、今のわたしには、あなたに提供できるものはこのわたししかいない」
スキピオは、内心では落胆していたろうがそれは毛ほども見せず、いつもの人なつこい微笑で包みこむようにして答えた。
「わたしには、それで充分だ」
ローマ人の物語 文庫版5 ハンニバル戦記 [下]
実際にこのような、男の友情物語があったかはともかく、このアフリカではスキピオと、彼の親友であり副官のラエリウス、そしてマシニッサの三者が協力して進めていくことになる。
シュファックスの和平提案
さて、ウティカを包囲したスキピオの試みは、失敗に終わった。ハスドゥルバル・ギスコ率いるカルタゴ軍30,000と、シュファックス率いるヌミディア兵(カルタゴ軍の倍の兵力と言われているが、眉唾なのでおそらく同数程度ではないか)が援軍に駆けつけたからである。
スキピオはわずか40日で包囲を解くと、その東に『カストラ・コルネリア』と呼ばれる強固な陣営を設営し、艦隊とともにカルタゴ・ヌミディア連合軍への守りを固めることにした。
カルタゴ側はなおもローマ軍に対し圧力をかけてきたが、そこへ表面上はローマとの友好関係を保っていたシュファックスが、数年前の饗宴よろしく、スピキオにカルタゴとの和解を勧めてきたのだ。
和解の条件は、次の通り。
- カルタゴは、ハンニバルのイタリアから撤退し、ローマはアフリカから撤退する
- その上でカルタゴはローマに対し、シチリア・サルディニアとその他すべての島々、そしてスペインの領有を認める
スキピオはこの時、シュファックスのことをどう見ていたのだろうか。ハスドゥルバル・ギスコと饗宴にわざわざ同席させる食わせ者ぶりや、カルタゴ側についたにもかかわらず、ローマとの和平を買って出て両者に恩を売る厚顔無恥な態度。
おそらくスキピオは、シュファックスよりマシニッサのほうが、ローマと良い関係を築く同盟者になる、と考えたのではないか。
スキピオは、シュファックスの申し出に対し、応じる素振りは見せた。ただし本国の意向を確認する必要があるとして。だがこれは、停戦をするための口実だった。和平交渉中は、両軍が停戦する了解があったからだ。
スキピオは、交渉のための使者をシュファックスの陣営へと派遣するとき、奴隷の格好をした将校や百人隊長を付添として同行させ、敵陣営をつぶさに偵察させていたのである。
その結果、わかったことは次の2点。
- 敵陣営が、木や藁葺きなど燃えやすい材料で作られていること
- 大軍のため、密集して設営されていること
スキピオの中で作戦は決まる。あとは計画を練り、実行するだけだ。
ウティカの奇襲作戦
翌203年、戦争が実行可能な季節になると、スキピオは突如交渉打ち切りを申し出た。停戦解除を示し、ウティカ包囲を再び始めたのである。ただし、この包囲に取り掛かったのは分遣隊の2,000のみ。これは真の作戦を隠す目くらましにすぎなかった。
ではローマ軍の本隊はどうしたのか。
ウティカ近くの陣営にもう2,000の兵を残し、彼らは夜の闇に紛れて、10km先のカルタゴ・ヌミディア陣営に迫っていた。夜明け前に敵陣営付近に到着すると、スキピオは隊を二手に分け、ラエリウスとマシニッサ率いる軍はシュファックスの陣営に、残りはカルタゴ陣営の近くの高地に布陣する。
ラエリウス・マシニッサ隊は敵陣につくと周りを取り囲み、一斉に火矢を放つ。燃えやすい材料で設営された陣は、あっという間に燃え広がった。
びっくりして飛び起きた陣内の兵たちは、慌てて脱出を試みる。しかし出口という出口を塞ぐローマ兵に、陣から脱出した兵たちは無残にも殺された。ならばと中へ戻っても火の海が広がるばかり。犠牲者は増えていく。
一方のハスドゥルバルの陣でも同様のことが起こった。ただし、彼らはシュファックスの陣で火災が起こっているのを確認していたので、友軍の救出に向かおうとした。ここにスキピオの部隊が襲いかかったのである。戦う準備をしていなかったハスドゥルバル軍は壊滅した。
シュファックスとハスドゥルバルは、戦場から脱出することができたが、この戦いでカルタゴ・ヌミディア連合軍の死者は3万人以上にものぼり、その他の兵たちも、散り散りになって逃げていった。
スキピオはアフリカ上陸後初の野戦で、奇襲とはいえ兵数で上回る敵を相手に、完全な勝利を手にすることができたのだった。
ハスドゥルバル・ギスコの失脚とマッシュリー王国再興
バグラダス川の戦い
しかし夏になると、散り散りになった兵たちもカルタゴ市へと戻ってきていたのである。また、新たに雇ったスペイン傭兵4,000も到着する。ハスドゥルバルとシュファックスは兵を再編すると、バグラダス川のカンピ・マグニ(大平原)で合流した。兵約30,000。
カルタゴ軍結集の情報を掴んだスキピオは、ウティカ攻囲中だったにも関わらずその兵の一部を割いて、カルタゴ・ヌミディア軍の合流地点へと向かった。もちろん今回もラエリウスやマシニッサを従えている。その数約15,000。
5日間の行軍で敵軍の近くにローマ軍が到着すると、しばらくの小競り合いのあと両軍の戦いが始まった。
カルタゴ・ヌミディア軍の布陣は、両翼に騎兵を配置し、中央にスペイン傭兵とカルタゴ歩兵、ヌミディア歩兵が展開する。
一方のローマ軍は両翼にラエリウス率いるローマ騎兵とマシニッサ率いるヌミディア騎兵を置き、中央はローマ歩兵の伝統的な布陣を布いていた。
この伝統的な布陣とは、次の通り。
- 最前列:ハスタティ(若手の兵)
- 二列目:プリンキペス(最も働きざかりの兵)
- 三列目:トリアイリイ(熟練兵)
ラエリウスとマシニッサの両騎兵は、正面にいるカルタゴ・ヌミディア騎兵にいきなり突っ込んでいく。彼らの勢いに押されたカルタゴ側騎兵は後退し、戦場から離脱、あとは歩兵同士の戦いとなった。
通常ローマ軍の歩兵たちは、前列のハスタティが疲れる、あるいは乱れると二列目のプリンキペスが交代して戦線を支える。だがこの戦いでは、スキピオは「予備兵力」を作らなかった。
前列のハスタティがふんばっている間に、二列目、三列目を縦隊にして左右に回り込ませ、歩兵のみの半包囲を実現させたのである。
ある意味、これはイリパの戦いの応用ということができるだろう。
結局この包囲が完成してスペイン傭兵は全滅、カルタゴ・ヌミディア歩兵たちも壊滅し、ハスドゥルバル・ギスコ、シュファックスは逃走した。半数の兵しかいないにも関わらず、またもスキピオは完勝したのである。
マシニッサの王国再興
戦いが終わっても、スキピオは追撃の手を緩めない。ラエリウスとともに騎兵のみでシュファックスを追いかけたマシニッサは、ついに敵居城キルタ付近で、シュファックスに追いついた。そしてわずかな軍を再編したシュファックスとの戦いに勝つと、キルタの城門でシュファックスを捕虜にしたのである。
マシニッサは、ついに奪われていた王国を取り戻すことができた。そしてもう一つ奪われていた美貌の許嫁、ソフォニバとも結婚したのだ。
しかしこの結婚に待ったが入る。スキピオである。
ソフォニバとの結婚は、彼女の父がカルタゴ政界で影響力がある以上、単なる男女の関係では終わらない。カルタゴとヌミディア王国という、国同士の結びつきにもなってしまうのだ。
そんなことをローマと、それを代表して遠征にきたスキピオが認めるはずがない。ローマはマシニッサに、ソフォニバの引き渡しを要求する。
彼女を捕らえにローマ兵がキルタの王宮に迫る中、マシニッサは自分が肌身離さずもっていた自決用の毒を、使いのものに渡した。毒を飲むか捕虜となるかを、新妻に選ばせたのである。
ソフォニバはマシニッサの使いに言った。
「結婚の贈り物はお受けします。もしわが夫が妻にこれより良い物を送ることができなかったのなら、これをありがたくいただきましょう。でも伝えてください――もし葬儀の時に結婚するのでなかったら、もっとたやすく死ねましたものを――と」
興亡の世界史3 通商国家カルタゴ 第八章 ハンニバル戦争
そして毒を受け取ると、彼女はそれを飲み死んだ。
第一回和平交渉
マシニッサが王国を取り戻したその頃、アフリカの東の地では、スキピオがカルタゴ市から25kmほど離れたテュネス(現チュニス)を占領し、いよいよカルタゴ市の包囲網を狭めていく。
シュファックスがローマ軍に捕らえられたことを知り、絶望感が漂うカルタゴでは、急速にローマとの和平へと傾きつつあった。そしてテュネスにいるスキピオのもとに、カルタゴの長老たちが訪れ、身を投げ出して講和を求めてきた。
この時、スキピオが出した講和条件は、次のとおり。
- イタリアおよびガリアからのカルタゴ軍撤退
- スペイン領の放棄
- マシニッサの王国を認め、主権を尊重する
- イタリアとアフリカにあるすべての島々の放棄
- 20隻を除く全軍船の引き渡し
- 交渉期間中、ローマ軍の食糧はカルタゴが持つ
- 5,000タラント(額は諸説あり)の賠償金
1番目のガリアとは、北イタリアのこと。ここではまだ、ハンニバルの弟マゴが、ゲヌア(現ジェノヴァ)を拠点として戦い続けていた。
また4番目の「イタリアとアフリカにあるすべての島々」とは、シチリア・コルシカ・サルディニアを除く全諸島のことだ。カルタゴが通商の拠点としている島も含め、完全にローマのものにする、という内容であり、地中海の女王と言われたカルタゴが海で生きることを放棄せよ、と言ったに等しいのである。
それでもカルタゴ側は、この交渉に応じた。同時にハンニバルとマゴにも本国帰還の招集命令が届けられることとなった。
しかしカルタゴの政界内部では、ウティカとバグラダス川での敗戦の結果、ハスドゥルバル・ギスコが失脚し、新たな人物が将軍に任命される。その人の名はハンノ・ボミルカル。ハンニバルの姉妹の子であり、ハンニバルにとって甥にあたる。
つまりカルタゴ政界は、反バルカ家から再びバルカ家が中枢へと返り咲いたことになる。このことが、ハンニバル帰還後のカルタゴの運命を決するのだった。
ザマの戦い
ハンニバル、カルタゴ本国へ帰還する
前205年以降のハンニバルは、ブルッティウム地方に閉じこもったまま、攻勢すらかけられずにいた。実はアフリカ出発前のスキピオに、ハンニバルが支配していたロクリを急襲され、ローマの手に落ちている。これでハンニバルはますます行動範囲が狭くなった。
また同じ年、彼はクロトンの近くにあるヘラ-ラキニア神殿に、自分がこれまでしてきた所業についての記録を収めた。その記録は、大きな青銅板2枚に、フェニキア語とギリシア語で書かれていたという。
すべては終わった
という諦観の表れだったのか。イタリアでのやることは、もう何もない、いや何もできないと思ったのか。ともかくそんな中で、本国への帰還命令を伝える使者がハンニバルのもとに訪れた。
ハンニバルはこの命令に対し、強い憤りを示したと言われている。しかしカルタゴの将軍である以上、本国の命令に背くことはできない。前203年秋、約15年間もアウェイの地で奮闘し続けたハンニバルは、クロトンを去り、イタリアの地をあとにした。
その際、ともに戦った精鋭15,000は一緒に連れて帰ったが、病人や戦えないものは残していった。また象や馬については何も伝えられていないが、カルタゴ本国が輸送船を送らなかったために、殺すしかなかったとも言われている。
一方、北イタリアのマゴにも使者が訪れ、彼もイタリアを離れた。しかし戦闘で傷ついていたマゴは、本国への帰還途中に帰らぬ人となってしまう。それでもマゴに付き従った兵たち12,000は、無事アフリカに送られた。
和平交渉決裂
クロトンを出発したハンニバルは、カルタゴ市ではなく、その南のレプティス・ミノル(現ラムタ)に上陸した。
理由は次の2つ。
- 和平交渉期間中にも関わらず、スキピオがカルタゴ市を艦隊で封鎖していたため
- バルカ家の所領があったため
彼はここから北に進み、ハドルメトゥムで甥であり、ハスドゥルバル・ギスコに変わって将軍になったハンノ・ボミルカルより、彼の連れてきた兵たちを与えられた。そしてこの地で越冬することになる。
この時点でハンニバルが有する兵力は次の通り。
- イタリアから連れ帰った精鋭:15,000
- マゴの残兵をあわせた傭兵:12,000
- ボミルカルの連れてきたリビア人とカルタゴ市民兵:12,000
- カルタゴ貴族からなる騎兵:1,200
- シュファックスの元家臣テュカイオス率いるヌミディア騎兵:2,000
これに加えて象80頭。総勢4万以上の兵たちが集結していたのである。
ハンニバルの帰還。この影響はカルタゴの政治にとって非常に大きな意味を持っていた。和平派の勢いが削がれ、特に主戦派、バルカ家の支持層が勢いづいたのだ。その結果、ローマと戦うべし!との声が大きくなる。
さらに前203年末から前202年の始めにかけ、サルディニアからアフリカへと向かったローマの補給船が嵐にあった。この貨物がカルタゴ市の付近に荷揚げされたところを、市民の声に負けた政府が艦隊を出し、物資を奪ってしまう事件が起こる。
ローマでは、カルタゴ使節がスキピオの出した条件で合意し、あとは本国での承認を得るだけだった、にも関わらず。
スキピオは激怒した。彼の使節がカルタゴ市を訪れ、元老院と民会で誓いと条約を踏みにじったことをなじった。しかしカルタゴでは、主戦派の勢いが強く、厳しすぎる条約への不服を表明したものが多数をしめる。
停戦は破棄され、再び戦争が始まった。
援軍を求めて
前202年春、戦闘可能な季節の到来を待って、スキピオとハンニバル両軍はぞれぞれの拠点から出発した。この時、なぜカルタゴ市とハドルメトゥムの間に戦場を求めず、彼らは西に向かって進軍したのか。
彼らはともに、西方にあるヌミディアからの援軍を求めていたのである。スキピオは、ヌミディア王となったマシニッサからの軍を。そしてハンニバルは、シュファックスの逃亡中の息子が率いる2,000の騎兵たちを。
両者とも、今度の対決が最後の決戦だということ、そしてその戦いでは騎兵こそがキモであることを自覚していた。だからこそ両者とも、ヌミディアの近くへと移動したのである。
進軍は、兵数の少ないスキピオが急いだこともあり、一歩先んじた。ただし、両者とも戦場の場所を勘案していたこともあり、そのスピードは遅い。ハンニバルはカルタゴ政府からスキピオとの決戦を急かされたが、
戦場は自分が決める
と、きっぱりと拒否している。
決戦前夜
しばらくして、ハンニバルはザマ・レギアの町(現サキエッド シディ ユッスフ付近)に到着した。そこでローマ軍が、この町から100km西にあるサッラガラにいることを知った。
彼は敵情を視察するため、3人の斥候を放った。ところがこの斥候がスキピオの陣で捕まってしまったのだ。てっきり殺されると思った斥候たちに対し、スキピオは言った。
好きなだけ見ていくがいい
ちょうどこの頃、ヌミディアからマシニッサが、歩兵6,000、騎兵4,000を率いてスキピオのもとに駆けつけている。3日間かけて視察し、マシニッサ合流まで確認した斥候たちに対し、スキピオは途中まで護衛を付けて、ハンニバルのもとへ帰したという。
このエピソードが本当かどうかはわからないが、その後ハンニバルはスキピオと、会見の機会をもうけて、戦いの前に両者で最後の話し合いが行われたようである。
ハンニバルはこの会見で、スキピオに改めて和平を申し出た。その条件として、アフリカ以外の土地をローマが所有することを認めること、ただし賠償金は重すぎると訴え、軍艦の削減は取り下げるように、とのことだった。
それに対しスキピオはきっぱりと拒否する。そもそもこの戦争を始めたのは、カルタゴではないか。また和平交渉も、ハンニバルが自主的にイタリアから退去する、あるいはローマが出した講和条件が決裂する前ならともかく、今になっては遅すぎる、と。
そしてスキピオは最後にこう付け加えた。
「ハンニバル、あなたには明日の会戦の準備をするようすすめることしか、わたしにはできない。なぜなら、カルタゴ人は、いや、あなたはとくに、平和の中で生きることが何よりも不得手(ふえて)なようであるから」
ローマ人の物語 文庫版5 ハンニバル戦記 [下]
こうして、「カルタゴの」ハンニバルと、「ローマのハンニバル」スキピオと戦うことが決まった。
そして勝利の女神はローマに微笑んだ
古今でも珍しい名将同士の決戦、「ザマの戦い」の経過を書く前に、ここでもう一度両者の戦力を比較しておこう。
まずカルタゴ軍。和平交渉決裂でも書いたが、もう一度記載しておく。
- イタリアから連れ帰った精鋭:15,000
- マゴの残兵をあわせた傭兵:12,000
- ボミルカルの連れてきたリビア人とカルタゴ市民兵:12,000
- カルタゴ貴族からなる騎兵:1,200
- シュファックスの元家臣テュカイオス率いるヌミディア騎兵:2,000
- 戦象80頭
ここにハンニバルの姪の夫である、ヌミディアの一領主に率いられた騎兵が加わっている。
これを合計すると、カルタゴ軍の兵力は、
- 歩兵:39,000
- 騎兵:4,200
- 戦象:80頭
ということになる。
一方のローマ軍は次の通り。
- 正規軍団兵とイタリア同盟歩兵:29,000
- ローマ騎兵:2,500
- ヌミディア歩兵:6,000
- ヌミディア騎兵:4,000
合計戦力は、
- 歩兵:35,000
- 騎兵:6,500
だった。
つまり、これまでのハンニバル軍対ローマ軍の戦力とは逆に、歩兵戦力ではローマ軍に上回るものの、騎兵戦力ではローマ軍が有利、という構成になっていた。とくに騎兵の質に至っては、ローマ軍が圧倒的に優れていたのである。
この兵たちを、ハンニバルとスキピオは次のように配置した。
まずハンニバル。彼は騎兵を両翼に置き、最前列に象部隊を配置するのはいつも通りだが、歩兵を3列に並べている。
- 歩兵1列目:古くからの友人マゴ(弟とは別人)が率いるリグリア・スペインの傭兵部隊
- 歩兵2列目:ハンニバルの甥、ハンノ・ボミルカル率いるリビア人、カルタゴ市民兵
- 歩兵3列目:ハンニバルが率いる、イタリアから帰還した精鋭
一方スキピオは、両翼にマシニッサとラエリウスが率いる騎兵を置き、ハスタティ、プリンキぺス、トリアリィを3列に並べるローマの伝統的布陣である。そしてその前に軽装歩兵を置く。ただし歩兵の配置には、ちょっとした工夫がされていた。
ついに戦端が開かれた。
ハンニバルはまず、最前列に配置した戦象をローマ軍に向かって突撃させる。これで混乱を引き起こしたあと、一気に歩兵戦へと持っていくつもりでいた。
しかしスキピオは、象対策をすでに立てていたのである。彼は中隊ごとの間隔を普通よりも広く空けておき、象たちの通り道をあらかじめ作っていたのだ。さらに最前列の軽装歩兵たちも中隊を組ませると、彼らを「道」の前面に配置して正面から道の存在をばれないようにし、象たちが迫ってくると左右に避けたのである。
他方、象たちと同時に戦いが始まっていた騎兵戦は、ハンニバルの予定通り「ニセ退却」をさせ、ローマ軍の騎兵を戦場から遠ざけることに成功していた。これで歩兵戦を制すれば、まだローマ軍に勝てる見込みがある。
犠牲者を出すことなく象部隊を対処されたローマ軍に対し、ハンニバルは歩兵の最前列、つまりマゴ率いる傭兵部隊を突入させた。しかし歩兵の質では圧倒的に高いローマ軍に、ジリジリと押され、2列目のリビア・カルタゴ市民兵まで迫ってきた。
ところが訓練と経験不足の2列目部隊は、命令どおり進もうとしない。裏切られたと思った傭兵部隊は、ローマ軍ではなくカルタゴ側に刃を向けるものまで現れる。迫りくるローマ軍と傭兵たちに、新兵同然の2列目は怖気づく。
本来なら、1列目と2列目の歩兵たちでローマ歩兵を疲れさせ、3列目の精鋭で一気に決着を付けるつもりだった。そのためにハンニバルは、前列2つの部隊など、すべて捨て石にする覚悟だったのである。
だが、このプランは完全に崩された。ハンニバルは傭兵部隊とリビア・カルタゴ市民兵を両サイドに避けると、早めに第三列を前面に投入した。ローマ歩兵たちも、疲労で押されていく。
ここでスキピオが動いた。傷ついた兵たちを後方へ下げるとともに、ハスタティの横に、プリンキぺスとトリアリィの兵たちを両翼へと展開したのだ。
この結果、両軍とも横1列の長い歩兵部隊ができあがった。ただし、中央以外はローマ軍が圧倒的に質で上回っている。次第にハンニバルの両翼は、傷つきたおれるものや、逃亡するものが相次いだ。そしていつしか中央に取り残された精鋭たちが、前と両脇から囲まれていたのである。
そこに、敵騎兵を敗走させたヌミディア・ローマ両騎兵が戻ってくる。つまりザマでもカンナエの戦いと同じ状態が再現されたのである。包囲されたイタリアの精鋭部隊はことごとく殺された。マゴも、ハンノ・ボミルカルも討ち取られた。
これを見たハンニバルは、数人の従者とともにハドルメトゥムへと逃れるしかなかった。
この結果、カルタゴ側2万人が犠牲となり、残りの2万は捕虜となる。こうしてザマの戦いは、スキピオの完勝に終わったのである。
第二次ポエニ戦争終戦
第二回和平交渉
ザマの戦いのあと、カルタゴ市城門に迫ったスキピオ陣営のもとに、カルタゴの全権使節がおとずれ、和平を申し出た。
このとき、スキピオが出した条件は、第一回和平交渉に提示した条件よりも、さらに厳しいものとなった。
まず、カルタゴはアフリカ領以外のすべての領土を放棄するだけでなく、マシニッサに対してヌミディア王国の旧領を譲り渡すとされた。また軍艦は20隻から10隻に、賠償金も1万タラントに増額された(ただし50年の分割払い)。象も引き渡す。カルタゴ貴族の若者も、100人を人質として送ることも加えられた。
しかし最も厳しいのは、カルタゴが今後アフリカの外で戦争をすることを禁止され、さらにアフリカでもローマの許可なしに戦争を行うことができなくなったことだ。カルタゴはもはや、独立国とはいえなくなってしまったのである。
スキピオは明言した。
拒否したら戦争を続ける、それはカルタゴ次第だ
と。
ハンニバルの演説
このころカルタゴ市では、ハドルメトゥムからようやく帰ったハンニバルが、故国の元老院に対して、スキピオの提示した条件を受け入れるよう説いていた。
だがスキピオの厳しすぎる条件に、反対するものも少なくない。あるものはハンニバルに対し、猛烈な抗議を表明した。あまりにも激しい口調に、ついにハンニバルもキレてしまい、この者を演壇から引きずりおろした。
そして静かに言った。
市民諸君よ。わたしは九歳の子供のときこの町を去り、今三十六年ぶりに帰ってきた。私自身のおかれた立場あるいは国家の状態が私に戦争の法則を教えてくれた。この法則はたしかによく知っているつもりだ。しかし都市とか広場の規則、法や慣習については、私は皆さんの御教えを乞わなければならない」
ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて Ⅴ 敗戦に逆落とし
そしてもう一度、ハンニバルは言う。
この和平は受けるより他ない
この演説で、元老院も民会も、ハンニバルの忠告を受け入れた。ローマでもスキピオの条件が承認される。前201年、カルタゴとローマの間に和平条約が結ばれ、17年ぶりに戦争は終わったのだった。
今回のまとめ
それでは第二次ポエニ戦争について、おさらいしよう。
- 第二次ポエニ戦争のきっかけは、エブロ条約の解釈とローマの同盟都市サグントゥムをハンニバルが攻撃したことだった
- ハンニバルははるばるアルプスを越えてイタリアに侵入し、ローマとの会戦にことごとく勝利するが、ローマと同盟都市の結束は固かった
- カンナエの戦い勝利後、マケドニアとシュラクサイの参戦で、全地中海規模にまで戦争が展開した
- 戦争が膠着するなか、徐々にローマが動員人数の優勢を生かして、カルタゴと同盟軍を押し返し、カプアを奪回したあとはハンニバルをイタリア南部に追い込んだ
- スキピオのスペイン制圧の結果、カルタゴの敗戦はほぼ決定的となった
- その後スキピオがアフリカに侵攻し、ハンニバルとの直接対決でローマが勝利したことにより、第二次ポエニ戦争は終結した
第二回ポエニ戦争、いわゆるハンニバル戦争ほど、個人の力で戦争の行方を左右するのに、限界があることを悟らせてくれる戦争はない。
挑んだハンニバルと、それを迎え撃ったローマの死闘は、華々しいがゆえに、残酷な現実の側面も垣間見ることができるのではないだろうか。