ティトゥス・ラビエヌス。
高校で古代ローマ史を学んだとしても、おそらくラビエヌスの名は教科書に出ることはない。
なぜなら、ラビエヌスは改革の断行者でも政治的な重要事項を果たした人ではないからだ。
しかしラビエヌスは確実に歴史を動かしたローマ人の一人と言うことができる。
それはなぜか。
ラビエヌスはカエサルの盟友であり、カエサルがもっとも信頼した部下として、ガリア戦役を共に戦った人物なのだ。
だがラビエヌスはガリアでの戦いを終えたあと、カエサルとたもとを分かつことになる。
ではなぜ盟友と固い信頼関係で結ばれていたラビエヌスが、友のもとを去る決断をしたのか。
その後、ラビエヌスはどのような生涯を送ることになったのか。
古代ローマの中でも1、2を争う不器用な彼の生涯を、今回は書くことにしよう。
ラビエヌスが生まれた地方はポンペイウス一門の支配地域だった
ラビエヌスは紀元前100年、ピケヌム近郊のキングルム(現アスコリ・ピチェーノ県、チンゴリ )で生まれた。
エクィテス(騎士階級)だったので、名門貴族の出ではない。
この地域一帯は、後に第一次三頭政治を行った一人グナエウス・ポンペイウス・マグヌスが属するポンペイウス一門の支配地域(パトロヌス)であり、ラビエヌスはポンペイウス一門のクリエンテスであった。
古代ローマにおいて、パトロヌスとクリエンテスとは、簡単に言えば親分(パトロヌス)と子分(クリエンテス)の関係を指す。
パトロヌスがクリエンテスに対して、様々な場面でお金やコネを使って支援する代わりに、クリエンテスはパトロヌスに奉仕をする、という関係。
日本で言えば、鎌倉武士の『御恩と奉公』の関係を私的に結ぶ形を想像すると、ある程度わかりやすいだろう。
ラビエヌスはパトロヌスであるポンペイウス一門のコネで、軍隊内での地位を上げることができた。
そして前78年、プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス(以後ウァティア)の元で、ウァティアの派遣先キリキアに随行することになる。
そこで運命的な出会いが待っていた。
ラビエヌス、カエサルと出会う
ウァティアの目的はキリキアとパンフィリア沿岸を支配していた海賊の討伐だった。
そこには若き日のカエサルも参加していたのだ。
ラビエヌスとカエサルは、おそらくこの任務で出会い、親睦を深めたものと推測される。
前78年から前75年まで3年間、ラビエヌスはウァティアとともにクレタ島、北アフリカのキュレネ、ギリシア、ピシディア、パンフィリア、さらにカッパドキアで戦った。
カエサルがウァティアの遠征にどれほどの期間参加したかはわからない。
だが、遠征中にラビエヌスとカエサルが戦友として互いを認めあっていたとしても不思議ではないだろう。
ラビエヌス、護民官になる
紀元前75年からラビエヌスがどのような経歴をたどったかははっきりしない。
おそらくローマ各地で軍の職務についていたか、ローマで何らかの公職に勤しんでいたのかもしれない。
ラビエヌスが再び政治の表舞台に登場するのは、紀元前63年の護民官就任である。
古代ローマにはパトリキ(貴族)とプレプス(平民)という身分が存在した。
共和政初期にパトリキが公職を独占してしまい権力が集中、それに不満を抱くプレプスが彼らを守る公職として創設したのが護民官(トゥリブヌス・プレビス)である。
護民官は身体への危害を禁止する身体への不可侵権のほか、執政官などの上級公職や元老院の決議に対して無効にできる拒否権が与えられていた。
カエサルとの共謀、ガイウス・ラビリウスの告発
ラビエヌスは護民官就任後、ガイウス・ラビリウス(以後ラビリウス)を告発している。
この告発は、カエサルと組んで仕掛けたものだった。
ラビリウスは、紀元前100年に、当時護民官だったルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌス(とその一派)を殺害した。
護民官には身体の不可侵権があるので、護民官の任期中に危害を加えることは、完全に違法行為となる。
さらにラビエヌスには、殺害されたサトゥルニヌス一派の中に、彼の叔父がいた。
だから、ラビエヌスには十分にラビリウスを告発する理由がある。
と、ここまでの筋書きはおそらくカエサル主導のものだろう。
何しろサトゥルニヌス殺害事件はすでに37年も前のこと。
さらにラビリウスは高齢だったので、どこまで彼を本気で断罪するつもりだったかは疑わしい。
事実、この裁判はうやむやのまま決着がつかずに終わっている。
カエサルの真の目的は、ラビエヌスを”だし”に使い、サトゥルニヌスに出された元老院最終勧告(セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム)に対して
おかしい
と物申すための告発だった。
助言をあたえるための諮問機関に過ぎない元老院が、命令に近いかたちで人を裁くなど、あってはならないと非難したのだ。
改革に乗り出して挫折したかのグラックス兄弟のひとりであるガイウス・グラックスも、この元老院最終勧告で命を落としている。
そしてカエサルもまた、元老院最終勧告と対峙することになる。
ラビエヌス、カエサルのレガトゥス(総督代理)としてガリアへ
カエサルは紀元後58年、前年に努めていたコンスル(執政官)経験者(プロコンスル)として、ガリア属州の総督となる。
総督就任を期に、カエサルはアルプスを越え、ガリア攻略に乗り出した。
いわゆるガリア戦争である。
ラビエヌスはカエサルの総督代理(レガトゥス)として、共にガリアへと赴くことになった。
ラビエヌスの他にも、カエサルと共にガリアに随行した主な将官は次のとおり。
- デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス
- マルクス・アントニウス
- プブリウス・クラッスス
- クィントゥス・ティトゥリウス・サビヌス
- ルキウス・アウルンクレイウス・コッタ
- クィントゥス・トゥッリウス・キケロ
- ガイウス・トレボニウス
カエサル軍メンバーの中でも軍務経験や実力が頭一つ抜けていたラビエヌスは、彼らの筆頭副官であり、カエサル不在時の総司令官だった。
カエサルにとってラビエヌスは、右腕というより半身といっても過言ではないだろう。
それは、次のことでも明らかだ。
- ガリア戦争中カエサルが行ったゲルマニア(リンク)やブリタンニア(リンク)遠征の際、後背地を守るのは、必ずラビエヌスが任されていること
- 政治活動のためカエサルがガリアを離れている間、カリアに駐屯するローマ軍をラビエヌスに一任していること
ラビエヌスがいたからこそカエサルは安心してローマに戻ることができたし、また後ろを気にすることなく未踏の地に踏み込むことが許されたはずだ。
それ以外にもラビエヌスはガリア戦争で重要な戦果を上げている。
サビス川の戦い(ガリア戦争2年目)
第9、10軍団を率いてアトレバテス族を撃破。
また苦戦するカエサルの軍に加勢し、ネルウィイ族を後背から攻撃し、勝利に貢献。
トレウェリ族との戦い(ガリア戦争5年目)
トレウェリ族に威嚇、挑発されたが、ラビエヌスは待機を指示。
敵が『ローマ軍は攻撃しない』と油断させたところで本拠地を急襲、敵将インドゥティオマルスを討ち取って勝利。
また、トレウェリ族がゲルマニアの援軍を加えて再びローマ軍を攻撃するも、ローマ軍は伏兵によって挟み撃ちに成功する。
アドゥアトゥカの戦いで大打撃を受けていたローマ軍にとって、この勝利は壊滅の危機を脱する機会になった。
ルテティア(現在のパリ)でのパリシイ族との戦い(ガリア戦争7年目)
カエサル軍本体と別れたラビエヌスはアゲディンクム(現在のサンス)に守備兵を残し、軍を3つに分けてセクアナ川を渡りルテティア攻略に向かう。
ガリア側が3つに別れたローマ軍の状態を好機とみて攻撃に向かうが、実はラビエヌスの計略で、再び軍を一つに戻したラビエヌスによって、パリシィ族は包囲殲滅され壊滅した。
アレシア包囲戦(ガリア戦争7年目)
ガリアとの最終決戦。
アレシアを包囲して兵糧攻めにする。
敵将ウェルキンゲトリクスは包囲を突破するため弱点である北西部の攻撃を支持、猛攻にあったローマ軍は崩れそうになるが、ラビエヌスによって戦線を立て直すことに成功する。
その後カエサルの巧みな指示により外側からの包囲解放軍は撤退し、ウェルキンゲトリクスはカエサルの前に降伏した。
ガリア戦争はこうして幕を閉じた。
ラビエヌス、たった一人でルビコン川を渡る
カエサルがガリアを平定したことで、軍事上の権限が大きくなったカエサルを警戒した元老院は、次第にポンペイウスに接近し、カエサルの失脚を図ろうとした。
クラッススは隣国パルティアとの戦いで戦死し、またポンペイウスの妻であったカエサルの娘ユリアも亡くなっていたことで、カエサルとポンペイウスとの間に隙間風が吹いていたのだ。
元老院は軍隊の解散とローマへの召還を要請したが、カエサルは拒否。
紀元前49年1月、元老院最終勧告がついにカエサルへ発令された。
さらにポンペイウス一門のクリエンテスだったラビエヌスに対しても、カエサルの元を去るよう伝えられる。
カエサルは、ラビエヌスだけには自分がこれから何をするつもりなのか、ありのまま話したはずだ。
このまま元老院主導の共和政を続けては、やがてローマが崩壊しかねないこと。
そのために、ローマを作り変える必要があること。
たとえポンペイウスであっても元老院側につくのなら、対決し倒すつもりであること。
ラビエヌスは悩んだに違いない。
先祖代々お世話になったポンペイウスさん一族のグナエウス様をお守りするか、それとも友であるカエサルと同じ道を歩むか――。
結局ラビエヌスは、カエサルの元を離れ、彼だけのルビコン川を渡ることを決断する。
そこにはかつてガリアでラビエヌスが率いていたガリア騎兵やゲルマン騎兵の姿はなく、たった一人でのルビコン渡河だった。
このとき渡ったルビコン側がどんな河だったかは、ルビコン川 ―わずか1mの川幅を渡ることをカエサルが躊躇した意味とは―で詳しく書いているので、参考にしてほしい。
カエサルはラビエヌスがひとりで自分の元を去ったことを知り、置いたままだった彼の荷物を届けさせたという。
またここまで二人三脚で歩んできたカエサルについては、ユリウス・カエサルとは ―ローマ帝国の礎を築いた男―にまとめている。
ラビエヌス、ファルサルスでカエサルと対峙する
ラビエヌスはカエサルと別れたあと、元老院側と合流した。
この時元老院側の喜びようは尋常ではなく、お祭り騒ぎだったらしい。
また、実践から遠ざかっていたポンペイウスにとっても、頼りになる部下を得たことだろう。
ラビエヌスはポンペイウスに従い、イタリア半島を脱出してポンペイウスの勢力基盤であるギリシアへと上陸した。
時を同じしてカエサルもイタリア半島を制圧。
さらにローマ領土に広がるポンペイウスの勢力を次々に撃破してギリシアへと向かう。
カエサルはギリシアでポンペイウスに一度は破れたものの、体制を立て直し、再びポンペイウスと対峙した。
決戦の地はギリシア北部のファルサルス。
ラビエヌスはポンペイウスから全騎兵隊を任されるほど信頼されていた。
その騎兵でカエサル軍を混乱させる計画だったのだろう。
しかしカエサルは投槍兵を使い、ラビエヌス率いる騎兵を完全に足止めすることに成功し、その間に経験の少ないポンペイウス本体を攻撃して壊滅させた。
ファルサルスの戦いは、こうしてカエサルに軍配があがったのである。
アフリカ、そしてヒスパニアへ
戦いに破れたラビエヌスはポンペイウスと別れてケルキラへと逃れたが、ポンペイウスが亡命先のエジプトで殺害されたことを知ると、属州アフリカへと渡った。
カエサルはエジプト、そして東部属州を平定すると、北アフリカで再びラビエヌスと対峙する。
ラビエヌスは奮闘してカエサル軍に大打撃を与えたが、カエサルは軍を立て直し、タプソスの会戦で交戦する元老院を撃破。
戦いに破れたラビエヌスは、ポンペイウスの遺児2人を伴ってヒスパニアへと逃れることになった。
ラビエヌスの最期
なおも攻撃の手を緩めないカエサルは、元老院派を掃討するため、ヒスパニアのムンダへと攻め込む。
ラビエヌスの奮闘もあり、当初はカエサル軍と互角に戦いとなった。
だがポンペイウスの遺児の一人である小ポンペイウスへ攻撃を仕掛けられたため、ラビエヌス元の戦場を離れて支援に駆けつけようとする。
しかしポンペイウス軍はこれをラビエヌスの退却と誤解して混乱、総崩れとなり、結局この混乱の中でラビエヌスは戦死した。
ラビエヌスの死に際し、カエサルの言葉は伝えられていない。
今回のまとめ
ラビエヌスについて、もう一度おさらいしよう。
- ラビエヌスはポンペイウス一門のクリエンテスだった
- ラビエヌスは若き日にカエサルと出会い、親睦を深めた
- ラビエヌスは護民官時代、カエサルと共謀して告発したことがある
- ラビエヌスはガリア戦争で指揮官の能力をいかんなく発揮した
- ラビエヌスはカエサルとたもとを分かち、ポンペイウスの味方についた
- ラビエヌスはカエサルとの決戦に敗れ、各地を転戦してヒスパニアのムンダで戦死した
ラビエヌスはルビコン渡河の以前、カエサルの考えに賛同できたかどうかはわからない。
しかしいずれにせよ彼は恩のあるポンペイウスを裏切ることはできなかったのだろう。
信義に熱い男、それがローマ有数の不器用なラビエヌスだった。