アウグストゥスⅤ ―古き良きローマの復活と再生―

アウグストゥス ローマを帝政に導いた初代皇帝

昔からの慣習が比較的残っている地方都市に生まれたアウグストゥスにとって、首都ローマでの伝統を軽視する風潮や性モラルの退廃は、目に余るものだった。

このことが国家秩序の乱れにもつながると考えたアウグストゥスは、ローマの古き良き時代を再生するため、様々な対策に乗り出す。

そこで今回は、アウグストゥスが行った、ローマ伝統の復活と再生の対策について見てみよう。

文化政策

“非公式の”文化大臣マエケナス

アウグストゥスが皇帝だった時代は、比較的表現の自由が約束されていた
それはアウグストゥスが市民の言葉を制限することで、単独支配を確立しながら共和政の復活を目指すという「偽善」を自ら暴きたくなかったからである。

とはいえ偉大なる第一人者であるアウグストゥスを称える文学や詩は、当時の作家たちによって盛んに作られている。

この作家たちを手厚く保護したのが、アウグストゥスの古くからの友人であり、内乱に大きく貢献した部下のマエケナスだ。
マエケナスは、作家たちのパトロンとなり私財を投じることによって、この時代の文化活動を支えた。
現在でも芸術の援助や保護活動を「メセナ運動」といわれるが、この「メセナ」の語源はマエケナスが由来である。
「非公式」としたのは、マエケナスが公職に就かず、私人としてサポートしたからだ。

ただしマエケナスもただ単に文化活動を奨励し、保護していたわけではない。
彼の狙いは結局のところ、作家たちを保護することにより、その作家たちが共和政の擁護と、アウグストゥスの治世を肯定するという「公認」の価値観を広める、一種のプロパガンダだったのである。

アウグストゥス時代の代表的な作家たち

ではアウグストゥスの時代に活躍した、主な作家たちの顔ぶれを見てみよう。

リウィウス

北イタリア、当時ガリア・キサルピナと呼ばれていた属州(その後本国に組み込まれる)のパタウィウム(現在のパドヴァ)出身。
アウグストゥスとは、ほぼ同年齢。

リウィウスはローマ人初の専業歴史家だ。
それまで歴史といえば、政治家が引退してから書く一種の娯楽だった。
リウィウスは公職に就かず、ローマ建国から前9年までの歴史を叙述することに生涯を捧げた。

リウィウスは代表作『ローマ建国以来の歴史』の中で、共和政末期のモラル低下やローマ人の退廃的生活を指摘している。
その象徴が共和政を破壊したユリウス・カエサルであり、アントニウスだった。

逆にポンペイウスは共和政を守ろうとした正義の人であり、称賛している。
ポンペイウスをあまりに称えたために、アウグストゥスはリウィウスを『ポンペイウス派』と呼んだらしい。

ウェルギリウス

北イタリアのアンデスという農村(現在のヴィルジーリオ)出身だと言われている。
年齢は、アウグストゥスより少し年上。
極度の引っ込み思案だったため、友人から「生娘」を意味する「パルテニアス」とあだ名されていたらしい。

ウェルギリウスははじめ、内乱期の将軍でありアントニウス派としてアウグストゥスと争ったこともあるポッリオの庇護を受けていたが、のちにマエケナスの目に止まり、援助を受けて創作活動を行った。

彼は代表作アイエーネスで、ローマの建国伝説を描いており、これはアウグストゥスのローマ再建を重ね合わせたものだという。

ホラティウス

ホラティウス
Wikipediaより

南イタリアのウェヌシア(現ヴェノーザ)出身。
アウグストゥスよりも若干年上。
ずいぶん太っていたらしい。

フィリッピの戦いではブルトゥス・カッシウスの軍にいたが、当時のオクタウィアヌス・アントニウス連合軍に破れた。
その後恩赦されてマエケナスと知り合い、アウグストゥスに紹介されている。

ホラティウスの作品は、ウェルギリウスと並び称されるラテン語文学の最高峰とされた。
彼の詩は当初、モラルとは程遠い愛の歌(というより自由な愛し方)をうたっていたが、アウグストゥスに依頼された詩では一転してモラルの再生という主題をうたっている。

またアウグストゥスに度々帝国秘書への就任依頼を受けているにもかかわらず、ホラティウスは断ったようである。

代表作

オウィディウス

オウィディウスはアウグストゥスより一世代後の作家で、ラテン文学黄金期の終盤を飾る作家として名を残している。
出身はイタリア中部、アペニン山脈にあるスルモー(現スルモーナ)。

オウィディウスの歌は恋愛(それも性愛)をもとにした詩などを、数多く残している。
また代表作「変身物語」は、全15巻にもなる長編で、神話を題材としたものだ。

オウィディウスは、アウグストゥスの娘であるユリアと交友があったが、ユリアの姦通罪によって流刑にされると、後8年、彼もトミス(現ルーマニアのコンスタンツァ)へと追放された。
彼の流刑理由は国家機密とされたが、おそらくユリアに関わるものだといわれている。

オウィディウスは流刑にされた地でも作品を作り続け、「悲しみの歌」や「国会からの手紙」などの作品を残した。

アウグストゥスは、彼らの作品を通じて

  • 共和政復活の主張と共和政擁護派との和解
  • 共和政末期の国家破壊者の否定と古き良きローマの懐古
  • モラルの規範づくり

を期待したのである。

だが、文学作品だけでは人間の行動を規律するには弱すぎる。
そのためアウグストゥスは、モラルの低下を法律によって取り締まることにしたのである。

風紀の取り締まり

ローマへの富の流入により、社会の上層にいた人々の間では、

  • 離婚率の上昇
  • 性的モラルの低下
  • 出産率の低下

が、共和政末期から問題となっていた。

そこでアウグストゥスはモラルの向上を促すために、前18年、新たな法を成立させる。
それが「ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法」である。

ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法

ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法は、一言で言えば女性の不倫を取り締まる法律だ。
「女性」に限定するあたり、実にローマらしい法律と言える。

家父長権の強いローマでは以前から 、不倫を侵した妻を夫は(建前では)殺してもよいという強い権限があった。
しかし普通は命を奪うことはなく、夫は妻との離婚を選ぶ。
離婚の結果、妻は結婚時に持参した財産(嫁資)のすべて、または一部を失った。

アウグストゥスは、このような慣習では生ぬるいと思ったのだろう。
新しい法は、次のようなものだった。

  • 不倫の被害にあった夫は、ただちに妻と離婚し、特別裁判所に訴える義務がある
  • 不倫の罪を認められれば、妻の追放と相手の男の財産を半分没収する
  • さらに現行犯で捕まえた場合、夫は相手の男を殺すことができる
  • 妻だった女性は、将来自由民に生まれた市民と結婚することを禁じられる

アウグストゥスの既婚女性の理想像は、良き妻として夫を支え、さらに子をたくさん産み育むという、絵に書いた良妻賢母型の人である。
そしてローマの古き良き理想の女性像を体現した女性が、姉のオクタウィアだった。

アウグストゥスの描いたとおり、この新法は効果を上げることができたのだろうか。
実はこの法律は2つの点で、効果が薄かった。

離婚をしなければ訴えることはできない(しなくてもよい)

夫は妻と離婚の意思がなければ、訴えられなかったし、訴える必要もなかった。
この頃のローマでは上流階級の間での妻の不倫は日常茶飯事だ。
そのいい例が、既婚女性との不倫で浮名を流した、アウグストゥスの養父カエサルである。

また夫が不倫を知っても行動を起こさない場合、罪に問われることもあったが、それは次の2点に限られた。

  • 夫が妻と男を捕まえた場合(現行犯)
  • 夫が妻に売春を斡旋していた場合

ようするに、夫が妻と離婚の意志がなければ、この法律では効き目がなかったのだ。

アウグストゥス自身の行動

ルールを守らせるには、自らルールを守る必要がある。
アウグストゥスにはその資格があったのだろうか。

アウグストゥスは最後の妻リウィアと生涯寄り添ったことで、一人の女性のみ愛したというイメージがあるが、彼は女性に対して誠実な男では決してない

アウグストゥスがアントニウスと争っていたころ、クレオパトラとの関係を非難されたアントニウスが返した手紙には、次のように書かれていた。

(前略)そういうお前こそどうなのだ?お前はリウィアだけと寝ているのか?この手紙を読む頃に、お前はテルトゥッラやテレンティッラ、ルフィッラ、サルウィア、ティティセニアなどの女たちみんなと寝ていないとでもいうならいいが。(後略)

アウグストゥス ローマ帝国のはじまり
第13章 まやかし戦争――前三三年―前三一年より

非難合戦の一幕なので、どこまで真実かはわからない。
おそらく男性同士の猥談にでてきた内容を、アントニウスが書きなぐったのだろう。
だが誇張だとしても、いくらかの真実は含まれていると思われる。

だいたいリウィアとの結婚も、既婚女性の強奪という、いわば不倫の果てに幸せを掴んだ結果なのだ(それも妊娠している女性を奪うという強引さ)。


さらにこの法律にはもう一つのおまけがついてくる。
それは法律の施行者アウグストゥス当人の娘であるユリアが、前2年、姦通罪で追放されたのである。
不倫のお相手はアントニウスの息子、イウッルスだった。

※ただしこれは宮廷内の派閥争いの結果という側面もあったといわれている。

ユリアの一件を詳しく知りたい方は、アウグストゥスⅧ ―後継者と帝政の維持―を参考にしてもらうといいだろう。

上流階級の少子化対策

アウグストゥスの「古き良き」ローマの再生は、欠如した道徳観の見直しとともに、子を育み家を存続させることである。

この時期のローマは平和を享受できたおかげで、緩やかに人口が上昇していた。
ただし上流階級では出生率の低下が問題となっていた。
おそらく現代日本、さらにいえばある程度の富があり、娯楽があふれる先進国に起きている現象が、古代ローマの富裕層にも起きたのだろう。

これを解決するために作られた法律が、「ユリウス正式婚姻法」である。

ユリウス正式婚姻法

ユリウス正式婚姻法は、一言であらわすなら出産の奨励法だ。
アウグストゥスは、結婚をしないものや子のいない(作らない)夫婦には罰則をあたえ、逆に子どものいる父親には優遇措置を取ることで、出生率問題を解決しようとした。

具体的には次の通り。

  • 独身者や子のいない夫婦は、遺言に基づく相続権を制限(結婚していても、「子どもがいない=未婚者」とみなされていた)
  • 離婚した女性や未亡人は、夫をなくしたあと一定の期間内に再婚することを期待
  • 子どもを一人持つ父親は、規定年齢より1歳早く公職に立候補できる
  • 子どもを3人以上(イタリアは4人、属州は5人)もつものは、特定の法的措置の免除

この法律は、後9年に「パピウス・ポッパエウス法」として見直された。
例えば、子どもがいなくても既婚者であれば相続は未婚者とみなされない、や、離婚や未亡人の再婚期間をそれぞれ2年、18ヶ月へと猶予されるなど、である。

ではこの法律は上流階級の出生率を解決できたのだろうか。
この問いには、残念ながら答えられない。
しかし後年なんどもこの法律が見直されたことから、不人気でかつ抜け道があったことを示している。

またパピウス・ポッパエウス法を導入した後9年の執政官、パピウスとポッパエウスの両名がともに非婚者だったことも、当時の上流階級の実情をよく現している。

信仰の再生

古代ローマの人々は、現代人よりはるかに信心深かった。
共和政末期から続いた内乱でローマが混乱に陥ったのは、人々が神への敬虔さを失い、ないがしろにしたからだと信じていた。

アウグストゥスは、ローマ古来の神々への信仰心を回復、復活させるために、様々なことを行った。

神殿の建設

アウグストゥスⅣ ―首都ローマの再開発―でも見たとおり、アウグストゥスは首都ローマに様々な神殿を建設している。

  • アポロン神殿
  • ユピテル・トナンス神殿
  • マルス・ウルトル(復讐者マルス)神殿

など。
みずからの業績録の中でアウグストゥスは、82もの神殿を再生したと誇っている。
その中のいくつかは前時代のものも含んでいると思うが、かなりの数を建設、修復したのは確かだろう。

祭り・行事

またアウグストゥスは、古くから行われている宗教行事を、現代風にアレンジした。
それが「世紀の大祭(ルディ・サエクラレス)」と呼ばれる祭りである。

世紀の大祭(ルディ・サエクラレス)

元々は「タレントゥム祭」と呼ばれる夜の祭で、地下世界の神ディスとプロセルピナを称えるために開かれていた。
また、誰しもが一生に一度しか参加できないよう、100年に1度だけ3日連続で開催された。

アウグストゥスは前17年、この暗い雰囲気が漂う祭りを「世紀の大祭」へと改名し、祭りの内容も変更した。
主な変更点は次の通り。

開催される時期 :夏
開催される間隔:110年に1度
称える神: ユピテル、ユノー、アポロン、ディアナ
主なイベント: 
・ローマ市に住む全市民にたいまつや硫黄、アスファルトを配り、大勢の参加を呼びかける
・ユピテル・ユノー・アポロン・ディアナを称える日中の祭典

ちなみにこの祭りには、少年少女が讃歌を歌う儀式があったが、この詩はホラティウスによって作られた。

つまりアウグストゥスは、時代の終焉を象徴する祭りを、未来へと向けられた祈りの祭りへと変貌させたのだった。

宗教儀式の復活・再建など

前13年、国家再建三人委員会(第二回三頭政治)の一人であるレピドゥスが亡くなると、アウグストゥスはレピドゥスから最高神祇官の職を引き継ぎ、さらにいくつかのことを行った。

  • 神官の数を増加
  • 土地の兄弟団(フラトレス・アウルアレス)の復活:土地の兄弟団とは作物の実りを促す春の祭典を運営する団体のこと
  • 四つ辻の守護神(ラレス・コンピタレス)への年に二回の献花

また属州には女神としてのローマと、アウグストゥスを合同で信仰することを奨励している。

なぜ宗教に関連する数々ことをアウグストゥスは行ったのか。
それはローマ帝国が人種や同じ言語、同じ先祖を持つ集まりとして「国」を意識しているのではないからだ。

そのためにアウグストゥスは、ローマを守護する神々と、神へと近づいたアウグストゥスを信奉することで、ローマ帝国にすむ共同体としての意識をより大きくもたせる必要があったのだ。

つまり宗教を巧みに利用することで、アウグストゥスはローマ帝国の人々を、自分と国家ローマに心の部分でしっかりと結びつけようとしたのである。

本記事の参考図書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA