アウグストゥスⅠ ―ローマ皇帝の権力確立と権威について―

アウグストゥス ローマを帝政に導いた初代皇帝

イタリアの一地方都市で生まれたガイウス少年が、大伯父カエサルの名を継いでカエサル・オクタウィアヌスとなり、ローマの頂点へと駆け上がる過程は、オクタウィアヌスⅠ ―少年時代と大伯父カエサルとの関係―からはじまる一連の記事で述べたとおりである。

この記事からは、ローマの覇者となった彼が、中断していたカエサルの事業を受け継ぎ、どのようにしてローマを統治したのかを書いていく。

ただしオクタウィアヌス時代のように年を追っていく記述では、いろんなことを同時に行った彼の事業を理解しにくいかと思う。
そこで事業をテーマごとに分け、そのテーマごとに記事を書くことにする。

まずはじめのテーマは、ローマを統治するにあたり、彼がどのようにして権力を手中に収め、帝政へと導いたのかを見ていこう。

オクタウィアヌス、すべての権限を元老院に返還する

前27年1月13日、アグリッパとともに7度目の執政官となったオクタウィアヌスは、彼の構想を実行に移すため、元老院で演説を行うことに決める。
それは、元老院議員の誰もが予想をしていない内容だった。

私は自らの職務を完全に辞し、諸君にすべての権限、すなわち、軍隊と法、さらには属州に対する権限を返すことにする。それらの属州には、諸君が私に委譲したものだけでなく、私がその後諸君のために確保したものも含まれる

アウグストゥス ローマ帝国のはじまり
第16章 権限の返還――前30年―前27年より

オクタウィアヌスの演説の中にある、「自らの職務」とはなにか。
これは、アントニウスたちとともに、オクタウィアヌスが内乱のさなかに保持していた、非常時の大権のことである。

独裁官の代わりとして用意した「国家再建三人委員会」は、法の制定や公職の人事権など、ローマの制度を超えた権限を持っていた。
これをオクタウィアヌスは「職務を完全に辞し」、いままでの体制に戻すと宣言したのである。

また、三人委員会のときに割り振られた(が、アントニウスに勝利したオクタウィアヌスがすべて手に入れていた)属州の統治領域についても、元老院(とローマ市民)に返すことを約束。
さらにイッリュリクムやダルマティアなど、彼が征服した地域についても、元老院に任せるという内容だったのだ。

つまり、オクタウィアヌスの宣言は、終身で就任した独裁官であるカエサルの体制から、アントニウスやレピドゥスらとともに築いた3人での独裁に終止符を打ち、共和政へと体制を戻すことを意味していた。

事実、彼は自ら記した業績の記録で、このようなことを書いている。

私は内乱に終止符を打ち、広範な合意に基づいて帝国に対する至高の権力を獲得すると、自分の単独支配から『ローマの元老院と人民』による支配へと移行させた

アウグストゥス ローマ帝国のはじまり
第16章 権限の返還――前30年―前27年より

しかしオクタウィアヌスは、ローマの単独支配を辞める気などまったくなかったのである。
後に説明するが、彼は共和政の回帰宣言ともいうべき演説を行ったとき、元老院から今まで守ってきた国家を見捨てないでほしいと懇願され、『しぶしぶ』いくつかの属州総督命令権を保持することを承知している。

また、ローマの政治最高責任者である執政官には、引き続きとどまり続け、国政をそのまま担当するのである。

ではなぜオクタウィアヌスは、単独でローマを支配する気があるにも関わらず、権限を返還して「共和政の回帰」を宣言したのだろうか。
理由は3つあった。

  1. 単独支配、つまり「王」になりたがっていると思われることによる暗殺の恐れ
  2. 暗殺での、ローマ再編事業の中断と、内乱時代への逆戻り
  3. 独裁に嫌気がさした元老院議員たちの政治不参加

ローマ人の王や王政嫌いは有名であり、彼らは自分たちが国政を担っていることに誇りを持っていた。
それゆえ、終身(死や引退まで)の独裁官に就任し、「王」になりたがっていると疑われたカエサルは、一部の過激な元老院議員によって暗殺されてしまったのである。

オクタウィアヌスは、養父カエサルに起きた事態が自分にも起こることを恐れていた。
もしオクタウィアヌスまで暗殺されてしまったら、もう一度実力者が争い合う内乱時代に突入するかもしれない。

また彼が政治のすべてを取り仕切ることで、元老院議員たちが自らの存在価値を疑い、国政に関心を示さなくなってしまえば、結局は広大なローマの領土を収めることができなくなるだろう。
オクタウィアヌスにとって、元老院議員たちの政治に対する経験値は必要だったのだ。


元老院での権限返還演説から3日後、オクタウィアヌスに対して元老院から新たな名前(コグノーメン)を与えられることが決まり、彼はそれを受けた。
それは尊厳者を意味する「アウグストゥス」という名前である。
オクタウィアヌスは以後、自らもアウグストゥスと名乗ることになるので、これ以降はオクタウィアヌスをアウグストゥスと表記することにする。

アウグストゥスの名前と第一人者「プリンケプス」

アウグストゥスは、おそらくローマ人の中でも1番多く呼び名を変えた人物だ。
「尊厳者」の尊称を得ることで、アウグストゥスのフルネームは次のようになった。

インペラトル・カエサル・アウグストゥス

※正確にはもう少し長い名前だが、以後の説明のため省略する

たかが名前、と思われるかもしれない。
しかしアウグストゥスは、自分の名前を変えることで、自分が何者であるかを巧みに演出し、権威づけを行ったのである。

ローマ人にとって、権威は重要な意味を持つ。
経験や知識などが優れている人物、つまり万人が認める「権威」ある人は、ローマ人にとって畏怖すべき対象であり、同時に尊敬される人だった。
そして一旦その人が大きな権威を持っていると認めると、ローマ人たちは彼を指導者として受け入れ、従ったのだ

ではアウグストゥスのフルネームには、どのような意味があったのだろうか。
ここでは名前を分解して、一つひとつ見ていこう。

最高司令官「インペラトル」

インペラトルとは、元老院より絶対的な命令権を与えられた者を意味する肩書きである。
その権限は法律の裁定はもとより、軍を指揮する権限、他国との外交を担う権限など、多岐にわたっていた。
なかでも軍を指揮して成功を収めることに大きな意味があり、いつしかインペラトルとは「最高司令官」を意味する言葉となった。
また、大きな武功を立てた凱旋将軍を向かえるときにも、ローマ市民は「インペラトル!」と呼びかけた。

アントニウスを破ってローマの覇者となったアウグストゥスは、前29年、インペラトルを個人名(プラエノーメン)にしてもよいという、異例の権利を得る。
アウグストゥスはインペラトルを名前に使うことで、自分が大きな武勲を立てたことを、人々にいつでも思い起こさせることができたのである。

インペラトルはローマ帝国が終焉を迎えた後も、「エンペラー」の語源として今日まで残ることになる。

後継者「カエサル」

カエサルとは、ポンペイウスを破り終身独裁官となった、あのカエサルのことである。
アウグストゥスは19歳のとき、カエサルが暗殺されたことで養子となった。
そして養子となったことで、カエサルの後継者となったことを、この名前は現しているのだ。

カエサルは民衆からとても人気が高かった。
またカエサルが抱えていたクリエンテス(被保護者、子分)たちも、アウグストゥスが新しいパトロヌス(保護者、親分)だと認識したことだろう。

カエサルもまた、皇帝を表す言葉として現代にまで残った言葉である。

尊厳者「アウグストゥス」

オクタウィアヌス、すべての権限を元老院に返還するでも説明したとおり、尊厳者を意味するアウグストゥスは、権限返還に伴って元老院より与えられた名前である。

オクタウィアヌス時代、アウグストゥスは自分が大伯父カエサルの後継者であることを誇示するため、みずからを「カエサル」と名乗っていた。
しかしローマの覇者となった今、カエサルを名乗ることは、独裁や暗殺といった負のイメージを思い起こさせる可能性がある。
そこでアウグストゥスは新しい名前を必要としたのである。

実はアウグストゥスとともに、新しい名前の候補となったものがある。
それは建国者の名前であり、ローマの名前の由来となった「ロムルス」だ。
しかしロムルスはローマ人が嫌う王であり、さらに元老院議員たちによって殺害されたという逸話も残っていた。

これは、そっくりそのままカエサルと同じ運命をたどっており、やはり独裁や王をイメージさせるため、採用されなかったらしい。

アウグストゥスもまた、8月を表す言葉として現代に息づいている。

第一人者「プリンケプス」

プリンケプスはアウグストゥスの名前には含まれていない。
しかし、アウグストゥスはしばしばプリンケプスと呼ばれることになる。
ではプリンケプスとは何か。

プリンケプスはローマの政治的指導者であり、「第一人者・第一の市民」を表す言葉である。
ローマで第一人者となることは名誉なことであり、また元老院の議場ではじめに発言できるなど、たいへん権威ある呼び名だった。

かつてはハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌスや、「マーニュス(偉大なる)」という尊称を与えられたカエサルのライバル、ポンペイウスも第一人者だったのだ。

ローマの帝政は、一般的にアウグストゥスが元老院に権限を返還し、それに伴って属州総督権を獲得したところからスタートする。
そして「アウグストゥス」の尊称を得たことで、彼は初代皇帝の座に就いたとされる。

しかしアウグストゥス自身は絶対的な権力を盾に、元老院議員たちやローマ市民を付き従わせるような政治をしたわけではない。
彼はあくまでローマの第一人者(プリンケプス)として、政治を指導するという立ち位置だったのである。

そのため、これから始まるローマの帝政は、「第一人者体制・元首政(プリンキパトゥス)」とも呼ばれている。
現代で言うなら、終身(亡くなるまで)の大統領になったと考えてもいいだろう。

第一人者アウグストゥスの権力基盤となる権限

アントニウスを倒し、ローマ一の実績と権威を得たアウグストゥス。
しかしアウグストゥスが得たのは権威だけではない。
アウグストゥスは前27年以降、段階を追って、帝国を支配する権力の基盤となる権限を獲得していくのである。

ではどのような権限を獲得したのだろうか。
今度は皇帝権力確立のために獲得した権限を見ていこう。

皇帝権力確立の第1段階

大規模な属州への総督命令権と、代理統治者の任命権

オクタウィアヌス、すべての権限を元老院に返還するで権限を返還する際、元老院の要請でいくつかの属州総督命令権を持つことになった経緯は、すでに説明したとおりだ。
では属州総督命令権とは何か。

属州総督命令権とは、正確にはプロコンスル(前執政官)命令権という。
ローマの政治最高責任職である執政官経験者(プロコンスル)が、その指導力を買われてローマ本国以外の領土、すなわち属州を統治するためにもつ命令権のことだ。

また命令権とは、最高司令官「インペラトル」で述べた「インペリウム」のことで、政治・軍事を含めた統治に必要なあらゆる権限をふくむ権限である。

アウグストゥスはこの属州命令権を、ローマ帝国を守るために必要なとても大きい属州3つ(ガリア・ヒスパニア・シリア)に限り、元老院からお願いされる形で手に入れる。
ローマを守るために配置した28個軍団のうち、20個軍団が上記3つに含まれていた。
つまりアウグストゥスは、国防上の理由という名目のもと、ローマ軍の大半を手中に収めたのだ。

しかしアウグストゥス一人では、多数の属州を治めるには手に余る。
そこでアウグストゥスの代わりとなる代理を立てて、属州を収めさせることができる、代理統治者の任命権も同時に、元老院からアウグストゥスに与えられた

このとき引き受けたアウグストゥスの管轄属州を、「皇帝管轄属州(皇帝属州)」、元老院から属州総督が派遣される属州を「元老院管轄属州(元老院属州)」と呼ぶこともある(皇帝属州は後に増加)。

ちなみに、インペリウム(命令権)の届く範囲という「インペリウム・ローマーヌム(Imperium Romanum)」が、ローマ帝国を現している。

執政官職への連続就任

また、アウグストゥスは非常時の大権を返還しても、イタリア本国を治めるために必要な執政官職を手放したわけではない。
ただし執政官は必ず同僚を伴う2人体制だったので、一人はアウグストゥス、もうひとりはアウグストゥスに比較的忠実なもの、という形式をとったのである。

アウグストゥスは前27年からさらに4年連続で執政官に就くことになる。

皇帝権力確立の第2段階

前27年から4年続いた上記体制だが、前24年から前23年に起こった2つの事件をきっかけに、大きな方向転換を迫られることになった。

一つはアウグストゥスが体調を崩して、死の寸前まで追い込まれたこと。
もう一つは属州総督プリムスの違法行為と、執政官ムレナのアウグストゥスに対する陰謀である。

護民官職権(トリブニキア・ポテスタス)

前23年7月、アウグストゥスは回復を期に執政官を退くことに決める。
なぜなら、執政官に就くことで、日常業務とローマの儀式に追われて忙しくなりすぎるからだ。
もともと健康面に不安を抱えるアウグストゥスにとって、働きすぎは何よりも死を呼び寄せる結果となる。

そこで執政官に就く代わりに思いついた方法は、護民官と同等の権限を手に入れることである。
護民官とは、平民の権利を守るために作られた公職で、軍事的な権限以外は執政官レベルの政治的権限があった。

だが、平民を守る公職には平民階級でないと職に就くことはできない。
もちろんアウグストゥスは貴族なので、護民官にはなれなかった。
そこでアウグストゥスはアクロバティックな方法をとる。
なんと彼は護民官の職権のみを自分の権限として使えるようにしたのである。

これにより、煩わしい執政官業務を行うことなく、政治的な権限を手に入れることができたのだ。

上級属州総督命令権(インペリウム・プロコンスラレ・マイウス)

もう一つ手に入れた権限が、元老院が管轄する属州であっても介入できる、上級属州総督命令権である。

きっかけは、元老院属州であるマケドニアの総督プリムスが、隣国のトラキア王国に許可もなく戦争に入ったことによる。
属州総督が、自分の属州の外に軍隊を移動させるのは違法行為であり、プリムスはこの法に抵触したのだ。

さらに同僚の執政官ムレナこれを擁護したことで話がさらにややこしくなった。
ムレナの主張では、アウグストゥスにはプリムスを裁く権利がない、というのである。
結局プリムスは有罪となり、擁護したムレナもあらぬ罪を被せられて処刑されている。

この事件で、元老院属州の総督を裁く法的根拠がないことを痛感したアウグストゥスは、自分の管轄する属州以外でも介入できる権利を手に入れた。
これでアウグストゥスは、イタリア本国以外の帝国領土すべてを統括できるようになったのである。

皇帝権力確立の第3段階

護民官職権と上級属州総督命令権を手に入れたことで、公職につかなくてもアウグストゥスはローマ帝国のほぼすべてを自分の支配下に収める権力を手にした。
しかし彼にはあと一つ、手に入れなければならないものが残っていた。
それがイタリア本国での軍隊を指揮する事ができる権限だった。

執政官命令権

アウグストゥスは、自らの警護とイタリア本国の治安維持のため、近衛兵(コホルテス・プラエトリアエ)を創設していた。
だが上級属州総督命令権では、イタリア本国の軍隊を指揮する権限がない。
では誰にあるのか。
実はイタリア本国の軍指揮権(正確には命令権)は執政官にあった。

そこで護民官職権と同じく、執政官に就任しなくてもその権限を行使できるよう、前19年、執政官命令権を獲得したのである。

これにより、イタリア本国と属州すべての政治的、軍事的な権限がすべてカバーできるようになり、アウグストゥスの権力、つまり皇帝権力が確立したのであった。

アウグストゥスが獲得した、その他の権限と地位

第一人者アウグストゥスの権力基盤となる権限で説明した権限により、政治的軍事的に支配を確立したアウグストゥスだが、その他にも彼が得た権限がある。
それが監察官職権(ケンソリア・ポテスタス)と最高神祇官(ポンティフェクス・マクシムス)だ。

監察官職権

監察官(ケンソル)とは共和政時代の公職で、時代によって差異はあるものの、執政官経験者が就くことのできる名誉職だ。

その役割は、おおむね次の2つ。

  1. ローマ市民および元老院の風紀を取り締まり、行動を監視する
  2. ローマ市民の人口がどれぐらいいるか調べる

(1)は、主に元老院議員としてふさわしいかどうかを判断し、問題があれば議員をやめさせることができる権限。
また(2)は、兵員の動員人数と税金が、どれほど見込めるのかを調査するための権限で、ようするに戸口調査の責任者である。

前28年、アウグストゥスは執政官に就任していたため、後の護民官職権と同じく、監察官についても職権のみ自分の権限に加えた。
監察官職権を得たことにより、当時1000人以上にも増えていた元老院議員を整理し、

1000人→800人→600人

と段階的に減らしていったのである。

最高神祇官

最高神祇官姿のアウグストゥス
最高神祇官姿のアウグストゥス

最高神祇官とは、ローマ宗教界最高の責任者である。
宗教といっても、当時のローマはキリスト教ではなく多神教世界だったため、ローマ法王のようなことをしていたわけではない。

とはいえ古代は現代よりも、はるかに神との距離が近く、迷信や吉兆の占いも信じられていたため、神々を祀る神殿を立てたり、神へのお祈りを兼ねたお祝いやお祭りも多かった。

それらのことを取り仕切ったのが祭祀たちであり、その最高責任者が最高神祇官なのだ。
政治的な権限はなかったものの、最高神祇官の権威はとても大きかったことだろう。
ユリウス・カエサルも最高神祇官への選挙に臨むにあたり、相当な覚悟で家を出たという。

前13年、最高神祇官の職にあった元三頭政治の一人、レピドゥスが亡くなった。
これを受け、アウグウトゥスはレピドゥスの後を継ぐ。
最高神祇官になったことで、アウグストゥスは宗教的な権威をも身につけることになった。

アウグストゥスの権威を侵した者たち

アウグストゥスはミスに対しては寛容だったが、裏切りや彼の権威を脅かすものに対する処断は厳しかった。
ここではアウグストゥスの権威を脅かした者たちと、その末路を見ていこう。

エジプト長官ガッルスの場合

ガッルスはアウグウトゥスの友人であり有能な人物だったが、彼の身分は騎士階級であり、元老院議員のような出世は見込めなかった。
しかしアウグストゥスが征服したエジプトは、皇帝の直接支配する特別な土地であり、元老院議員の立ち入りを禁じられていたのである。
そこでガッルスはその能力を買われ、初代のエジプト長官となった。

だがガッルスは、エジプト長官という職に就いたことに慢心し、

  • アウグストゥスに対する不用意な発言
  • 自分の像を建設
  • ピラミッドの上に自分の業績を刻みつける

などの行いで、エジプト長官を解任されてしまったという。
だが本当は別の理由からだった。

ガッルスはエジプト長官となったあと、エジプト調査ためか、軍を率いてエジプトの南へと遠征を行った。
この遠征でガッルスは、エジプトの新たなファラオとなったアウグストゥス(エジプトではファラオこそ支配者だったため)よりも遠くにきたと、みんなに言ってしまったのだ。

これはアウグストゥスこそローマ一の功績者であり、もっとも偉大な成果を挙げたもの、という評価をおびやかしてしまう内容だった。
そのためガッルスは、友人であるにも関わらず、職を解かれてしまったのである。
前27年、ガッルスはこの事を恥じ、自ら命を断ってしまった。

マケドニア属州総督クラッススの場合

ガッルスと並んでもう一つアウグストゥスの権威を脅かした例が、前28年当時のマケドニア属州総督クラッスス。

クラッススはかの大富豪であり、第一回三頭政治の一角であるリキニウス・クラッススの同名の孫である。
クラッススは隣国トラキアと戦って勝利を収め、凱旋式の挙行を要求した。
それだけならなんの問題にもならなかったのだが、クラッススはこのときもう一つ、「至高の武勲(スポリア・オピマ)」も要求したのだ。

「至高の武勲」とは、戦場で敵の司令官と一騎打ちをして討ち果たし、その鎧を剥ぎ取った将軍だけに与えられる名誉であり、建国王ロムルス以来、たった二人しか達成したものはいなかった。

アウグストゥスは、クラッススの凱旋式こそ許可したものの、もう一つの要求である「至高の武勲」は拒否した。
なぜならこのような武勲はアウグストゥスの権威を犯すだけでなく、下手をすれば軍への求心力すら下げかねないものだったからである。

またクラッススは有力貴族であり、彼の威信が高まり軍団兵に対する個人への忠誠が高まれば、再び内乱を繰り返す可能性もあったのだ。

クラッススは凱旋式のあと、表舞台からは完全に姿を消すことになる。

パトロヌスとしてのアウグストゥス

最後に法的な権限とは別にある、彼個人の力の源泉クリエンテラ関係を見ておこう。

古代ローマでは、公の関係の他に「パトロヌス」と「クリエンテス」というプライベートな関係を結んでいた。
「パトロヌス」とは親分のことで子分である「クリエンテス」に対して、金銭の援助や食の確保、さらには弁護も請け負うというような法的な保護も行った。
それに対して「クリエンテス」は「パトロヌス」の要請により、選挙活動の応援や軍務、必要な資金の提供をしたのである。

アウグストゥスは、カエサルの養子となったときに、カエサルのクリエンテスをも受け継ぐことができた。
またライバルであるアントニウスのクリエンテスも加えられたのである。
また征服した国ともこの関係を結んだことで、「パトロヌス」アウグストゥスを頂点としたクリエンテラ関係が結ばれることになった。

アウグストゥスの執政官連続就任や、指名したものへ公職を配慮する行いも、クリエンテスたちのおかげなのである。

つまりアウグストゥスの権力の基盤は、

  • 執政官命令権と護民官職権によるイタリア本土の軍の指揮権と政治的権限
  • 属州総督命令権による軍の掌握
  • 私的関係のクリエンテスたちによる支持

により成り立っていたと言えるだろう。

ただしアウグストゥスは、新たに創設した役職に就任したわけではなく、あくまで既存の公職に就任、あるいは公職の職権を活用したにすぎない。
アウグストゥスが記した「神君アウグストゥスの業績録」の中で彼は言う。

私は権威の点で万人に勝ったが、権限の上では同僚を凌ぐことはなかった

ローマ五賢帝 「輝ける世紀」の虚像と実像より

職権を集めたことで集約した権力はあくまで見せず、権威によってローマを導こうとしたアウグストゥス。
ローマ皇帝の権力は所詮、元老院によって譲り受け、民衆の支持によって支えられた砂上の楼閣でしかないことを、よくわかっていたに違いない。

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