古代ローマの剣闘士。
あなたも映画などで一度は剣闘士が戦っている姿を見たことがあるのではないだろうか。
20年近く前にはなるが、古代ローマの剣闘士を描いた映画グラディエーター も公開された。
また近年では2014年の映画ポンペイ の主人公が剣闘士なのも記憶に新しい。
しかし映画はハリウッド的誇張があるため、古代ローマで活躍した剣闘士とは少し違うのだ。
では古代ローマの剣闘士とは、どのような人たちだったのだろうか。
また、古代ローマ帝国を表す表現としてよく使われる『パンとサーカス』。
そのサーカスである剣闘士同士の戦い、剣闘士競技会とはどのようなものだったのだろうか。
この記事では剣闘士について次のことを書いている。
- 剣闘士の起源と歴史
- 剣闘士に関わる人達
- 剣闘士になるまでの流れ
- 剣闘士競技会の様子
あなたが知る剣闘士に、少しでも新しい発見があれば幸いだ。
剣闘士の起源と歴史
剣闘士っていつ、どこから始まったの?
剣闘士は紀元前4世紀の初めごろ、イタリア南部の風習から始まった
他の地域や時代には類を見ない剣闘士。
では古代ローマの剣闘士は、いつ、どこで始まったのだろうか。
剣闘士の起源には、大きく2つの説がある。
- エトルリア人起源説
- カンパニア地方起源説
ローマが都市国家だった頃、ローマの北方に住んでいた人々。
エトルリアは土木技術など、当時のローマよりも文明がはるかに進んだ地域だった。
イタリア南部の地方。
オスキ人や、ローマと戦ったサムニウム人などが住んでいた。
現在ではエトルリア人起源説よりも、カンパニア地方紀元説の方が有力だ。
理由は3つ。
- 前1世紀には他の地域よりカンパニア地方で剣闘士興行が盛んだったこと
- 円形闘技場の建設が他の地域よりも早かったこと
- 初期の剣闘士の武装がサムニウム人由来だったこと
エトルリア人はおそらく南に進出してきた時に、この風習を取り入れたと思われる。
剣闘士はなんのために戦ったの?
故人のために生贄の血が必要だと考えられていたので、葬儀の儀式として戦った
では剣闘士はなんのために戦ったのだろうか。
古代では、死者の魂を安らげるために行う生贄の風習は、各地で見られた。
剣闘士もこうした生贄の一種だと考えられている。
ただし古代ローマでは、戦争捕虜を剣闘士として養成し使ったため、
- ローマ人の同胞を犠牲にする必要がない
- 戦争によって殺された犠牲者の復習心を満たすことができる
という一石二鳥のメリットがあった。
古代ローマ最古の剣闘士競技は?
ローマで行われた最古の剣闘士競技は前264年のブルトゥス・ペラの葬儀
2人の息子が牛の広場で3つの闘技を開催した
古代ローマで行われた、もっとも古い闘技会はいつだろうか。
歴史書によれば前264年、父をを弔うために二人の息子がお金を出し合って、牛の広場で剣闘士競技を行ったという。
ローマは隣国のカルタゴと戦争をしている最中だった。
ローマの中央を流れるティベリス川沿いにあった家畜市場。
おそらく息子たちは裕福だったに違いない。
この頃はまだ、死者の魂を慰める儀式の要素が大きかった。
追悼のための剣闘士競技が票集めの見世物として徐々に広まる
しかし剣闘士競技は時が経つにつれ、規模が大きくなっていく。
前216年 マルクス・アエミリウス・レピドゥスのために、3人の息子が三日間にわたって22組の剣闘士競技を開催
前174年 ティトゥス・フラミニウスが父の追悼会で、74人の剣闘士による三日間の剣闘士競技を開催
この頃になると、ローマ市内に木造の円形闘技場が建設され、多くの市民が剣闘士による闘技会を観戦するようになった。
さらに前105年、ローマで初の国家による剣闘士競技が開催される。
ここに至ると、もはや故人を弔うだめではなく、市民への娯楽として提供されている感がいなめない。
剣闘士競技は票集めの道具として、政治に利用されていくのである。
剣闘士による大規模な反乱
剣闘士競技が大規模化した理由は2つある。
- ローマの領土拡大戦争で、大量の戦争捕虜の確保が可能になった
- 巨額の資産を持つ富裕層が増えた
しかし剣闘士として身を落とす戦争捕虜も黙ってはいない。
前73年にカプアの養成所から脱出したスパルタクスが剣闘士仲間と共に反乱を起こした。
これが第三次奴隷戦争、いわゆるスパルタクスの乱である。
スパルタクスの乱についてはスパルタクス―第三次奴隷戦争と呼ばれる反乱を指揮し、故郷を目指した剣闘士―を読んでいただければありがたい。
この大きく膨れ上がった反乱も、最終的には鎮圧されてしまった。
スパルタクスの乱以降、剣闘士や奴隷の反乱は起きていない。
剣闘士競技の帝国管轄へ
スパルタクスの乱以降も、票集めや市民への人気とりの道具として、剣闘士競技はますます隆盛を極めた。
さらにローマが帝政に入ると、剣闘士競技の開催や剣闘士の養成も国家が管理することになった。
また、5万人の観客を収容することができる『フラウィウス円形闘技場』、いわゆるコロッセオが完成し、ローマ市民への見世物として剣闘士競技は行われるのである。
剣闘士に関わる人達
競技を行う剣闘士の供給には、現代のサッカークラブのような『剣闘士団』の存在があった。
そして剣闘士に関わる人たちも様々な人が存在したのである。
具体的にどんな人たちが関わったのか、見ていこう。
興行師(ラニスタ)
剣闘士団を率いるのが興行師(ラニスタ)だ。
興行師は現代のサッカークラブのオーナーのような存在で、次のような事を行った。
- 新人剣闘士の徴募
- 剣闘士の育成
- 剣闘士の売買
- 剣闘士競技の主催者との契約交渉
また興行師は通常、無事に引退できた元剣闘士がなることが多かった。
理由は2つ。
- 剣闘士を徴募する際、素材の善し悪しがわかる
- 興行師は訓練士を兼ねることも多かったので、剣闘士の経験が生きる
興行師は社会的地位としては低く、娼婦を経営するものと同様卑しい身分とされていた。
しかし経営がうまく行けば莫大なお金も手に入るため、興行師のなり手には事欠かなかっただろう。
ちなみに79年にヴェスヴィオ火山で埋まった町ポンペイには、『興行王』と呼ばれたニギディウスという人物がいた。
彼についてはポンペイの興行王、ニギディウスで詳しく書いているので興味のある方は読んでいただけると嬉しい。
訓練士(ドクトル)・教練士(マギステル)
剣闘士に技術的なことを教えていたのが、訓練し(ドクトル)や教練士(マギステル)と呼ばれる人たちだ。
度々サッカーの例えで恐縮だが、おそらく監督やコーチの役割をしていたのだろう。
訓練士や教練師は、訓練生に対して単なる殺人の方法だけを教えていたのではない。
いかに見栄え良く戦うかの方法を教えていたはずだ。
繰り出した剣戟を華麗にかわし、反撃する。
相次ぐ攻防の連続。技と技とのぶつかり合い。
観客が息を呑むスリリングな戦いを見せれば、たとえ負けたとしても除名処分で生き残ることができる。
訓練士や教練師は、そのための方法を剣闘士たちの身体に徹底的に叩き込んだ。
また剣闘士には様々なタイプがあったので、剣闘士のタイプ別に訓練できる専門の訓練士が存在したという。
医師
実際の剣闘士競技で負傷した剣闘士はもちろん、訓練中の怪我にも対応するため、剣闘師団にはお抱えの医師がいた。
マルクス・アウレリウスの侍従医として有名な医学者ガレノスも、剣闘士付き医師として4年間過ごしたことがあるらしい。
彼らのおかげで命拾いをした剣闘士も数多くいたことだろう。
マッサージ師
剣闘士とは、いわば現代のアスリートである。
さらに日々の過酷な訓練や、剣闘士競技での命のやり取りでの緊張状態は極限にまで達する。
それをほぐしていたのが専属のマッサージ師だった。
彼らは疲れをほぐして怪我を最小限に抑えるよう、気を配っていただろう。
その他の関係者
上記の他にも、次のような人たちが剣闘士団の中にいた。
- 剣闘団の経営状態を把握する会計係
- 剣闘士が身につける武器や防具を製作する武具職人
- 戦争捕虜や奴隷からなった剣闘士が、逃げ出したり反抗しないように見張る看守
このように、様々な人が剣闘士の育成や契約、興行のセッティングに関わっている。
まさに現在のサッカークラブのような、大規模な興行集団だった。
剣闘士になるまでの流れ
剣闘士候補の徴募
剣闘士を育ててデビューさせるには、まず素材となる人間を集める必要がある。
その方法は、次の3つによって行った。
- 戦争捕虜を使う
- 奴隷商人から買う
- 志願する自由民を参加させる
1. 戦争捕虜を使う
ローマが戦争に勝つと、戦利品として大量の戦争捕虜が手に入った。
これらのなかで、とくに剣闘士の素質がありそうなものを興行師たちは調達したはずだ。
2. 奴隷商人から買う
戦争捕虜が奴隷商人に売られた場合はもちろん、日頃から反抗的な態度を取る奴隷や素行が悪い奴隷も剣闘士として調達された。
興行師は奴隷市場に出向き、品定めをしたことだろう。
3. 志願する自由民を参加させる
剣闘士の社会的身分は、最下層に近かった。
そのため、普通であれば自由民が好んで選ぶ職業ではない。
しかし彼らの中にも成功した剣闘士のスター性にあこがれて、志願するものもいたのである。
なんとその中に、最上位身分である元老院階級出身の女性がいたというから驚きだ。
また戦争捕虜や奴隷を商人から買う場合、素質によって5つのランキングがあった。
- 凡庸なる群れ
- 未熟者
- 上級者
- 最上級者
- 淡麗者
なかでも顔立ちの整った『淡麗者』は人気があり、花形闘士となる可能性が高かったらしい。
いつの時代も※ただしイケメンに限るという補足は変わらないのだ。
剣闘士の訓練
徴募された剣闘士候補生や新人剣闘士は、日々厳しい訓練を行っていたという。
では剣闘士はどのような訓練をおこなっていたのだろう。
剣闘士の訓練には、決して鋭利な刃物は使用しなかった。
理由は2つ。
- 訓練中に過って相手を殺してしまわないため
- 戦争捕虜や奴隷などに反抗心や逃亡心を抱かせないため
特に2番目の理由はとても大きかった。
その証拠として、自由民から志願したものは、ある程度自由に武器を持つことが許されていた。
自由民以外の剣闘士は、主に先の丸まった木製の剣を使って行われていた。
新人候補生は体力強化のために、高さ2mの木の杭に身体をぶつけ、上半身を鍛えたという。
まるで相撲かラグビーのタックルのようだ。
対戦相手の急所を把握するために、藁人形が使われることもあった。
訓練士や教練士によって、身体の部位に対する細かな指導があったに違いない。
さらに訓練生たちは、筋力強化と健康維持のために医師の助言に従った食事を食べる、いわゆる栄養管理をしていたという。
剣闘士たちは、しばしば大麦男(ホルデアーリウス)と呼ばれていた。
これは、大麦が奴隷の食事という意味だけではなく、大麦が動脈を死亡で保護し大出血を防ぐ理由から、好んで食事に出されていたからだった。
境遇の過酷さから、訓練中に自殺した剣闘士もいる。
あるゲルマン人剣闘士は、訓練中に休憩するといってその場を立ち去った。
そして看守の目の届かないところで、トイレの洗浄用スポンジを口に無理やり押し込み窒息死した記録がある。
彼は将来に絶望して自殺したと考えられている。
ちなみにローマ時代のトイレ事情は古代ローマのトイレ事情 ―下水が通る公衆用便所と個人住居の排泄について―に詳しく書いているので、よければ一読いただきたい。
剣闘士の種類
剣闘士候補の訓練が進むに連れ、おそらく適正なタイプに分類されていったのではないかと思う。
古代ローマの剣闘士には、様々なタイプがあった。
ここでは現在確認されているすべての剣闘士タイプを紹介しよう。
マケドニアの北方にいたトラキア兵士風の武装をした剣闘士。
湾曲した刀、シーカ刀を持ち、ローマ軍の伝統的な盾、スクートゥムを簡略化した小ぶりの盾を使用した。
またカブトの頭頂にはグリュプスという飾りがついている。
スパルタクスの乱で有名な剣闘士、スパルタクスもトラキア闘士である。
ガリア兵士をまねて武装した剣闘士。
資料がなく、どのような風貌かはわからない。
サムニウム闘士と同じく初期型の剣闘士であり、戦争捕虜としてローマに連れてこられ、死者を弔うために戦わされたと思われる。
マケドニアの北方にいたトラキア兵士風の武装をした剣闘士。
湾曲した刀、シーカ刀を持ち、ローマ軍の伝統的な盾、スクートゥムを簡略化した小ぶりの盾を使用した。
またカブトの頭頂にはグリュプスという飾りがついている。
スパルタクスの乱で有名な剣闘士、スパルタクスもトラキア闘士である。
魚の背びれのような形をした飾りを持つ兜をかぶった剣闘士。
彼らの名前は、ギリシャ語の海水魚(モルミュロス)に由来する。
その他、帝国の盾スクートゥム風の大きな盾と歩兵が使用する短めの直刀、グラディウスで武装した。
トラキア闘士まではローマの戦争相手を模倣したものに対して、魚兜闘士は見栄えを重視する、いわゆる「見せる」剣闘士になった。
ちなみに彼らはサムニウム闘士を変形させたものとも考えられている。
魚兜闘士をさらに変形させた剣闘士。
魚のヒレ状のトサカがある兜には小さなのぞき穴が2つあるだけで、耳にも極小の穴しかない。
装飾もなくつるつるで、まさに魚の頭のような形をしている。
また、魚兜闘士と同じく大きな盾とグラディウスで武装した。
片手に鉛の重しをつけた網を持つ、一風変わった剣闘士。
網闘士は網で敵の体をムチのように叩いたり、敵の足をすくったりした。
そして好機と見れば、網を投げて敵を絡め取り、彼らの主要武器である三叉の槍で突き刺す。
ただし、敵がかいくぐった網を引っ張られても体勢を崩されないよう、革帯に差してある短剣で網を切り離して逃げたという。
また、網闘士の特徴的な防具に青銅製の肩当て(ガレルス)がある。
網を持つ手の上腕に肩紐でくぐりつけておき、そちら側を対戦相手に向けることで防御力を上げていた。
さらに彼らは他の剣闘士と違い、兜をかぶらなかったので、顔立ちの良いもの(つまりイケメン)がなることが多かった。
トラキア闘士とよく似た装備で戦う剣闘士。
名前は古代ギリシャの重装歩兵から由来。
トラキア闘士との違いは、円形の盾と槍で戦うところだろう。
また、円形の盾の裏側は腕が通せるので、盾の裏で長めの短剣を持つことができた。
トラキア闘士や重装闘士よりも若干軽装の剣闘士。
角が丸まった長方形の盾を持ち、武器はグラディウスで戦う。
さらに上半身を守る長方形や三日月の胸当てをつけていた。
また、トラキア闘士や重装闘士のように左右にすね当てをするのではなく、左脚のみに装着していた。
反射弓という射程の長い弓を用いて戦った剣闘士。
射手闘士が用いた弓の射程距離は200メートルもあり、闘技場の端から端まで届く距離だった。
観客席には何らかの危険防止対策がされていたと思われるが、スリルを味わいたい一部観客のために、なにもしなかったのかもしれない。
馬に乗って戦う剣闘士。
通常騎士闘士どうしで対戦する。
騎士のように馬上で槍をかまえ、接近したときに矛先を交えた。
しかし決着がつかないと馬上から降りて、剣に持ち替えて戦ったらしい。
騎馬闘士の試合は、たいていその日の取り組みの初めにプログラムされていた。
おそらく演出的に盛り上げる狙いがあったと思われる。
ブリタンニア式ケルト戦車(エッセディウム)に乗って戦った剣闘士。
残念ながら、戦車がどういったものかはよくわかっていない。
騎馬闘士と同じく戦車闘士も同じタイプどうしで対戦した。
しばらく戦車で駆け抜けた後、お互い戦車から降りて戦った。
また、野獣を相手にすることもあったという。
なお、戦車闘士のなかに女性闘士がいたらしいが、この闘士が男性と戦ったかどうかは不明だ。
戦車闘士の戦いは、プログラムのラストを飾ったという。
本格的な剣闘士競技の対戦前、あるいは休憩中に行われる、前座用の闘士。
木製の剣を使って戦い、殴打から身を守るために、クッションで身体をぐるぐる巻きにしていた。
投げ縄を使う闘士。
網闘士の変種であり、パロディーでもあった。
縄闘士も前座として本戦の剣闘士競技を盛り上げる役らしく、戦う姿から笑いを誘っていたようだ。
猛獣と槍で戦うことを専門とする剣闘士。
野獣狩りは剣闘士競技の午前の部で、剣闘士どうしの競技前に行われる前座だった。
そのため、野獣闘士は剣闘士の訓練についていけなかった落ちこぼれが多かった。
のぞき穴のない兜をかぶって戦う剣闘士。
目隠闘士は盲目状態で騎馬に乗り、闇雲に武器を振り回して戦っていた。
この状態でまともに決着がつくはずがなかったので、休憩中の余興に催されたイベントだったと考えられている。
2つの剣、あるいは短剣を両手に持って戦う剣闘士。
重装備をしていた剣闘士。
詳しいことはわかっておらず、ローマの反乱時に戦った記述が残っているのみ。
単に性別で分けているだけなので、彼女たちも上記のような剣闘士のタイプに別れていたと思われる。
ちなみに男性の剣闘士と戦ったかどうかは不明。
女性闘士は乳房に巻き布をし、また後には湿った革で作った腹帯を装備した。
なお、兜はかぶらずに、髪を結い上げて試合をしていたと思われる石碑もある。
剣闘士の階級
剣闘士の階級訓練所や剣闘師団のなかでも、経験や戦績によって、階級のようなものがあった。
階級は下から順番に
- 新参者(チロ)
- 準師範級(パルス・セクンドゥス)
- 師範級(パルス・プリムス)
となる。
この階級ごとに待遇は決まっていた。
例えば新参者なら訓練所の中でも劣悪な住環境が与えられたが、戦績を重ねれば改善されていく。
師範級ともなると、逆に興行師に対して望み通りの住環境を要求することもできたのである。
ただし、自由民からの志願剣闘士については、この限りではない。
剣闘士は称賛に値する試合をすると、ときとして木製の剣を主催者から授けられることがあった。
これは
決して怒りに任せて剣を振るう必要がない
ことを意味し、奴隷の場合は自由の身として生きてもいいことを意味していた。
また、スター剣闘士ともなると、観客から賞金が与えられることもある。
大きな闘技場では何万人規模の観客がいたため、剣闘士は莫大な賞金を手に入れることができただろう。
引退後の進路は次のとおりだ。
- 興行師や訓練士となり、後進を育てる
- 再び現役の剣闘士として観客の前で戦う
- 剣闘士とは関わりのない世界で暮らす
この中で、特に驚きなのはもう一度剣闘士としての生活を選ぶことだろう。
剣闘士は危険な反面、スポットライトを浴びる事ができるスリリングな生活として、麻薬的な魅力があったのかもしれない。
剣闘士競技会の様子
では実際に剣闘士たちがする競技会の様子はどのようなものだったのだろうか。
剣闘士競技会の告知
剣闘士競技会の開催が決まると、主催者は当日までに競技会を告知する広告を作った。
なにしろ剣闘士競技は彼らの名を売る政治活動であり、票集めの手段なのである。
その証拠に、ポンペイでは公共物の壁に剣闘士興行の広告が残されている。
またローマ帝国の東方では、試合の対戦カードが書かれた詳しい取り組み表が配布されていた。
競技会前日の晩餐会
競技会前日、対戦する剣闘士たちには贅沢な晩餐会が催された。
この晩餐会も主催者の人気取りに一役買っていたのである。
実はこの晩餐会の様子を一般の市民は見物することができたのだ。
剣闘士たちにとって、文字通り最後の晩餐となるかもしれないこの催しに、彼らがどのような様子なのか興味があったのだろう。
剣闘士競技会の一日
早朝 ―競技会が始まるまで―
競技会が開かれる闘技場には、告知の効果もあり、早朝から人がごった返していた。
闘技場前には様々な市が立ち、剣闘士にちなんだグッズを売っていたりした。
例えば彼らの姿を描いた陶器やガラス製品、ランプなどが並び、
お土産に
と商人がお客を誘っている。
観客が闘技場に入ると、あらかじめ配られた切符(テッセラ)を確認した案内人(ロカーリウス)が、彼らを切符に刻まれた指定の座席まで案内してくれた。
切符は骨か粘土でできていたらしい。
ちなみにコロッセオでは社会身分によって座席が決まっていた。
最前列:皇帝や高級公職者などの貴賓席
一階席:元老院階級
二階席:騎士階級
三階席:比較的富裕な市民
最上階:女性や下層民
ただし、女性については実際のところ上流階級でも最上階で観戦していたかは疑わしい。
コロッセオについてはコロッセオ ―エレベーターや天幕まであった、ローマ一の構造を誇る円形闘技場―でも詳しく解説しているので、あなたに興味があればご覧いただくといいだろう。
開会前 ―闘技場でのパレード―
観客が席につくと、進行係の触れ役(プラエコ)が登場し、プログラムのアナウンスをされる。
サッカーで言えば、スタジアムDJが本日の見所などを紹介する感じだろうか。
さらにこの競技会の関係者全員のパレードがはじまり、主催者の顔みせの後、剣闘士の補佐役に続き、最後に剣闘士たちが行進して入場した。
ただ、この一連の流れは主催者の名前を売るイベントだったため、観客にとっては相当つまらなかったらしい。
当時退屈なことを
円形競技場のパレードのように
と表現していたほどであった。
午前の部 ―野獣狩り―
主催者の自己満足パレードに続いて、いよいよ本番が始まる。
まず午前中の出し物は帝国各地から集められた野獣狩りである。
野獣狩りは次の順番で行われた。
- 野獣同士の対戦
- 人間による獣の狩猟(一部曲芸含む)
- 野獣 VS 野獣闘士の対戦
1. 野獣同士の対戦
たとえばクマと雄牛など、比較的大型の獣どうしの対戦カードが組まれた。
2.人間による獣の狩猟(一部曲芸含む)
闘技場での狩猟の見物。
鹿などを槍で刺したり弓で射たりする。
また、騎乗していた馬から雄牛の角に捕まって飛び乗ったりした。
3.野獣 VS 野獣闘士の対戦
いよいよ野獣闘士の登場である。
野獣闘士は槍で戦うことが多かったが、剣を持つこともあった。
野獣闘士の対戦カードはライオン、トラ、ヒョウ、クマなど、いわゆる猛獣と呼ばれる大型の肉食獣である。
彼らは野獣と1対1であれば負けることは少なかったようだ。
しかし複数の野獣を相手にすると、命がけで戦わなければならなかった。
また、野獣との対戦は剣闘士ではなく重犯罪者などと組まれる場合もあった
こちらは競技会というより公開処刑に近く、対戦に引き出された人間はろくに武器も持たせてもらえなかったという。
午後の部 ―剣闘士の対戦―
午後からは競技会の本番である剣闘士たちの戦いが始まる。
対戦カードはランダムに決まる、ということはない。
理由は2つ。
- 剣闘士タイプの相性である程度の組み合わせが決まっていた
- できるだけ白熱した試合になるよう、同レベルの剣闘士を戦わせた
1. 剣闘士タイプの相性である程度の組み合わせが決まっていた
剣闘士のタイプによっては、よく戦うタイプが決まっていた。
こちらにタイプ別の対戦カード表を掲載したので、確認するといいだろう。
2. できるだけ白熱した試合になるよう、同レベルの剣闘士を戦わせた
主催者によって、競技会の盛り上がりは死活問題だった。
観客が満足すると称賛を浴びるが、もし不満足な結果に終わると非難の嵐が待っていた。
ゆえに、基本的に同レベルの人間を戦わせて白熱する試合を演出したのである。
日本で例えるなら、相撲の取り組みを想像していただけるとわかりやすいのではないだろうか。
もちろん才能ある新人が熟練の剣闘士に挑むこともあり、もしいい試合をすれば盛り上がったことだろう。
(相撲なら金星を挙げると座布団が舞い上がるといった感じ)
剣闘士の対戦は次の手順で行われた。
角笛(コルヌ)が鳴り響いた後、
- トランペット
- ラッパ
- 木管(ティピア)
- 水圧オルガン
の音と共に剣闘士が登場した。
剣闘士はまず木製の剣で軽く対戦する。
彼らにとって、これはウォーミングアップの意味合いがあった。
同時にに観客にとっても盛り上がる役目を果たしていた。
ウォーミングアップが終わると、剣闘士たちは闘技場の円周に沿って散っていく。
武器が持ち込まれると、観客の前で主催者が実際の切れ味を点検する。
それは彼らが反抗することを防ぐと同時に自殺防止の役割もあった。
ただし、騒然とした会場では声がほとんど通らないので、名前や戦歴は大きな板に書き込まれて観客に提示された。
対戦する剣闘士が登場する。
このとき、二人の間にはレフリー(主審(スンマ・ルディス)・副審(セクンダ・ルディス))がいた。
審判の合図で試合開始。
今日のボクシングの審判と同じく、
- ルールの遵守
- 試合の中断
- 休憩の指示
などを行い、しっかりと戦うように仕向けたのではないかと言われている。
試合中、どちらかが降伏、あるいは死亡した時点で競技は終了。
ただし、ごくまれに両者が元気なまま引き分けで終わることもあった。
降伏した剣闘士は片手を上げて助命を乞う。
助命OKならそのまま退場、NOなら対戦者に命を奪われた。
映画でよくある助命OKの仕草について。
親指を上に向ければ『助命』、親指を下に向ければ『処刑』とはハリウッド的な映画の演出のようである。
現在は逆の意味(親指を立てれば処刑、下なら助命)と考えられているが、はっきりしたことはわかっていない。
片方の剣闘士が死亡、もしくは処刑されたら、「冥府の河の渡守り」であるカロンの仮面をかぶった死神役が、死体の額を小槌で強打し死を確認する。
死体は釣鉤をかけて引っ張る、もしくは台車で運び出された。
勝者にはシュロの小枝が与えられ、称賛に値する試合をした場合、剣闘士から解放する木製の剣(ルディス)を観客から拝受することもあった。
剣闘士の生存率
最後に剣闘士の生存率を記したい。
帝政にはいると、ローマ帝国全体で剣闘士のシステム化が進んだ。
80年にはコロッセオの完成、またドミティアヌス帝の時代に国立の剣闘士訓練所までできている。
その関係か、帝政前期は1回の競技会で約9割の剣闘士が生き残った。
しかし帝政も後期になると約半数の剣闘士が死亡している。
これは敗者がすべて死亡しているということだ。
この頃になると、政情不安に加えて剣闘士競技そのものの変質があったと考えられる。
死亡率の上がった原因はおおよそ次のような理由だろう。
- 帝国の専制化が進み、票集めの必要性がなくなった
- 票集めのスポンサーがいなくなり、剣闘士の育成に十分な費用をかけられなくなった
- 剣闘士競技のレベル低下で観客の『飽き』が進んだ
こうして剣闘士競技は次第に廃れ、404年、ローマ皇帝ホノリウスによって闘技場は閉鎖された。
今回のまとめ
剣闘士について、もう一度おさらいしよう。
- 剣闘士競技は死者を弔う儀式として行われた
- 剣闘師団は現代のサッカークラブのようなものだった
- 剣闘士には主に戦争捕虜や奴隷が使われた
- 剣闘士の訓練は厳しく、様々な人が関わった
- 剣闘士には様々なタイプが存在し、よく対戦するカードも決まっていた
- 競技会の催しにはたくさんの人があつまり、プログラムが決まっていた
- 剣闘士の対戦では勝者にシュロの小枝が与えられ、敗者は助命されることも多かった
剣闘士の生活は、常に過酷で死と隣り合わせだったことだろう。
ゆえにその魔力にとりつかれたものは引退後も再び剣闘士の世界に舞い戻ったといわれている。
民衆もまた、日々の不安やストレスから逃れるために、つかの間の現実逃避を楽しんだのではないだろうか。
現代の私達にとって、公開殺人ショーという理解できない娯楽だったとしても。
剣闘士の映像作品といえば、『グラディエーター』が有名だ。しかしそれに劣らず迫力のあるシーンが展開する作品もある。それがHBOとBBCの共同製作ドラマ『ROME』だ。
主人公の一人プッロが処刑される場に選ばれた闘技場で、気力を取り戻して剣闘士たちと戦う姿は圧巻!またこのシーンは胸アツな展開も用意されているので、ぜひシリーズを通して観てほしい。
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