身分闘争が収束し、共和政の完成とイタリア半島統一を成し遂げたローマ。
ギリシアにその人ありと言われたピュロスを退けたことで、無名だったローマの名が地中海諸国に知れ渡る。
さらにイタリア半島の隣にあるシチリア島で起こった争いで助けを求められたローマは、しぶしぶながらも介入することを決定する。
これが北アフリカに本拠を置く海洋国家カルタゴとの120年にも及ぶ長い戦いの始まりであり、ローマがイタリア以外の土地で戦争をする本格的な幕開けとなった。
■共和政ローマ後期の年表
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年 | 事柄 |
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前264年 | 第1次ポエニ戦争開始(~前241年) |
前218年 | 第2次ポエニ戦争開始(~前218年) |
前215年 | 第1次マケドニア戦争開始(~前205年) |
前214年 | ローマ軍によるシラクサ包囲(~前212年) |
前200年 | 第2次マケドニア戦争開始(~前197年) |
前171年 | 第3次マケドニア戦争開始(~前168年) アンティゴノス朝マケドニア滅亡 |
前149年 | 第4次マケドニア戦争開始(~前148年) マケドニア、ローマの属州に |
前149年 | 第3次ポエニ戦争開始(~前146年) カルタゴ滅亡 |
第一次ポエニ戦争(前264年~前241年)
シチリア島の内紛で、シチリア島北東端の町メッシーナからの援軍要請を受けたローマはこれを受諾した。
しかしシチリア島には、地中海を挟んで北アフリカにあるカルタゴの勢力がもともとあったのだ。
この内紛が次第にローマ、カルタゴ両国の戦争へと発展していく。
そして第一次ポエニ戦争が始まった。
海洋民族フェニキアの作った植民都市を起源に持つ、商業中心の国。
本拠地は北アフリカのカルタゴ(現在のチュニス)。
当時は西地中海全域を支配する海洋国家で、強力な海軍と傭兵隊をもっていた。
ラテン語で『フェニキア人』を意味する。
カルタゴがフェニキア系の国家だったので、カルタゴとの戦争を『ポエニ戦争』とよんだ。
第一次ポエニ戦争前半
シチリア攻略へ
ローマはメッシーナを攻撃したシラクサ、さらに援軍に駆けつけたカルタゴ軍を退けると、シチリア領有に乗り出した。
そしてカルタゴ影響下にあるアグリゲントゥムの攻略にも成功する。
しかしカルタゴには海軍があり、これらのおかげでシチリアへ物資や兵力の供給ができるため、ローマはカルタゴに対して海戦を挑むことを決断した。
海戦での勝利
しかしローマ軍はこれまでイタリア半島で戦っていたため、軍船を持っていなかった。
さらに海戦の経験も不足していたため、ローマ軍は軍船に独自の道具を編み出した。
それがコウルスである。
コウルスとは可動式の橋を船の先端に備えた装置で、接舷したあとコウルスを降ろして相手の軍船に兵士たちを乗り込ませ、接近戦に持ち込むものだ。
当初は不格好なために当初はカルタゴ海軍に笑われていた。
しかしいざ戦闘となると、コウルスが威力を発揮し、ローマはカルタゴ軍に海戦で勝利を重ねていったのである。
カルタゴ本国へ上陸
ローマ軍は海戦の勝利で勢いづき、カルタゴ本国のある北イタリアに上陸。
カルタゴとの戦いに次々と勝利し、ついにカルタゴへ講和条件を突きつけるまでになった。
だがカルタゴはこの条件が厳しすぎるために講和を拒否。
そしてローマ軍を退けるため、カルタゴはスパルタ人傭兵のクサンティッポスを雇うことにしたのだ。
第一次ポエニ戦争後半
カルタゴ、陸戦でローマ軍に勝利する
クサンティッポスを雇ったカルタゴは、ローマに陸戦で勝利した。
これにより大打撃を受けたローマはカルタゴ本国から引き上げることにする。
しかしさらなる不運がローマを襲った。
ローマ海軍が引き上げ途中で嵐に出会い、軍船を兵士のほとんどを失ってしまったのである。
ハミルカル・バルカ、シチリア全域をほぼ制圧する
カルタゴはこれを好機とみて、将軍ハミルカル・バルカ(ハンニバルの父)をシチリアに派遣。
ハミルカルはシチリア全土を支配下においた。
そして勝利がカルタゴに傾きかけていた時、突如カルタゴは海軍解散を宣言する。
国内で戦争反対派の大貴族ハンノが実権を握ったためである。
ローマ軍、再び海戦で勝利、戦争を終結させる
カルタゴ海軍解散で時間を稼いだローマは、海軍を再編成してカルタゴに戦いを挑み、大勝利を得た。
これによりカルタゴは海軍と船員を失い、戦いを継続することができなくなったのである。
またシチリアを手中に収めたハミルカルも、制海権を奪われてはどうしようもなく、降伏せざるを得なかった。
第一次ポエニ戦役の結果
カルタゴはシチリアの領有権を失った。
さらに国内の混乱でローマにサルディニア島、コルシカ島を奪われてしまい、西地中海の制海権もなくなったのだ。
一方ローマは本格的に海軍を創設。
これ以降、イタリア半島以外の領土獲得に大きな一歩を踏み出すこととなった。
第二次ポエニ戦争(前218年~前201年)
第一次ポエニ戦争によって支配領域が縮小したカルタゴは、新たな領土を獲得するため、イベリア半島内陸部まで手をのばすことにした。
その任についたのが、ハミルカル・バルカである。
そしてハミルカル・バルカの後を引き継いだのが、長男のハンニバル・バルカ。
機が熟すのを待っていたハンニバルは、ローマ打倒に向けて本拠地カルタゴ・ノヴァを出発。
途中のローマと同盟関係にあったサグントゥムを陥落させて本格的にローマと戦うことを宣言した。
二十数年の休戦を経て、ここに第二次ポエニ戦争の火蓋が切って落とされたのだ。
ハンニバルの快進撃
常識破りアルプス超え
ローマもハンニバルの動きを察知して兵を準備し、ハンニバルの進撃路になるであろうイタリア西部や南部に配置する。
しかしハンニバルはローマの予想を見事に裏切り、冬のアルプスを越えて侵入するという、常識はずれの行動をやってのけた。
慌てたローマはすぐさま兵をイタリアの北部に派遣するが、ハンニバルに2度も撃破されてしまう。
この結果、ローマに敵対していた北イタリアのガリア人たちがハンニバルに味方し、冬のアルプス越えで失った兵力を補うことに成功したのだった。
ハンニバルの戦略
敵の本拠地に乗り込んだハンニバルはローマに対し、どのように戦いを挑むつもりだったのだろうか。
ハンニバルが狙ったのは、次のようなものだった。
・会戦でローマに完勝する
・それによりローマからイタリア諸都市を離反させ、同盟を解体、ローマを孤立させる
そしてローマが新たに編成した軍も大打撃を与えると、正規ローマ兵の捕虜には厳しくする一方で、同盟軍には丁重な態度をとり、離反のメッセージを託したという。
だが同盟諸都市は、そう簡単には離反しなかった。
そこでハンニバルは、南イタリアへと進軍し、次の会戦で完全な勝利を目指すことになった。
カンナエの戦い
ローマはハンニバルに対する相次ぐ敗北で、正面から戦うことを避け、持久戦の展開を主張したクィントゥス・ファビウス・マクシムスを独裁官に選出。
しかしイタリア諸都市を略奪して回るハンニバルに対し、次第にハンニバルとの決戦を望む声が大きくなった。
そこで元老院は、ファビウスの任期切れと同時に80,000の兵を用意して、ハンニバルとの決戦に挑む。
決戦の地は南イタリアのカンナエ。
だが、ハンニバルとの戦いに挑んだローマ軍は、完膚なきまでに叩きのめされてしまった。
この戦いで、兵60,000万が死亡し、10、000が捕虜になる。
さらに執政官の一人と約80人の元老院議員が死亡するという、前代未聞の損害を出したのだ。
この結果を受けて東方の雄マケドニアがローマに対して宣戦を布告し、さらにシチリアのシラクサが同盟を破棄する。
またイタリア国内ではカプアが離反。
ただしカプア以外の同盟諸都市は離反せず、ハンニバルの思惑は大きく外れる事となった。
ローマの反撃
持久戦法への切り替え
カンナエの敗戦にこりたローマ軍は、以後ファビウスを執政官としてハンニバルとまともに戦うことを避け、徐々に消耗させる持久戦へと切り替えた。
また、もうひとりの執政官マルケルスには、シラクサの攻略を指示し、マルケルスも見事に応えた。
さらにマケドニアに対しては少ないながらも兵を派遣し、マケドニア艦隊をイタリアに近づけなかったため、ハンニバルは敵の本拠地で孤立することとなった。
ハンニバルの本拠地ヒスパニア攻略
ハンニバルがイタリア半島に釘付けとなっている間隙を狙い、ローマはハンニバルの本拠地、ヒスパニアの攻略を決める。
この任にあたったのがプブリウス・コルネリウス・スキピオ、後のスキピオ・アフリカヌスだった。
スキピオは父と叔父の死を受けてヒスパニア攻略に名乗りを上げると、劣勢だった軍を立て直して次々と戦いに勝利した。
そしてついにヒスパニアの首都、カルタゴ・ノヴァを陥落させて、ヒスパニアの平定に成功したのだった。
この結果、マケドニアはローマと講和し、ハンニバルの孤立をますます加速させる結果になった。
カルタゴ本土上陸
ローマに戻ったスキピオは、カルタゴとの決着を付けるため、カルタゴ本土へ兵を派遣することを主張した。
元老院は黙認する形でスキピオをシチリアに派遣する。
スキピオはシチリアで兵を集めると、カルタゴへの上陸を果たした。
そして彼はカルタゴで次々と勝利をおさめる。
慌てたカルタゴ政府は、ハンニバルを本土へと呼び寄せた。
ハンニバルはついにイタリア半島を離れることになる。
そしてスキピオとハンニバルはザマで相まみえた。
結果、スキピオは無敵を誇ったハンニバルを、ハンニバルの戦術で破ってみせる。
こうして別名『ハンニバル戦争』と呼ばれる第二次ポエニ戦争が終結した。
第二次ポエニ戦争の結果
この戦争の結果、カルタゴは北アフリカのごく一部の領土を残して、ほとんどを失うことになった。
一方ローマは西地中海をほぼ手中に収め、支配領域を大幅に拡大することになる。
滅亡の危機にあいながら最強の敵を倒したローマは、第二次ポエニ戦争以降、急速に領土を拡大していくのだった。
マケドニア・ギリシア征服、第三次ポエニ戦争(前200年~前146年)
第二次ポエニ戦争の結果、西地中海をほぼ手中に収めたローマは、イタリア半島以東の征服戦争にも乗り出した。
東の大国マケドニアとは、合計3回にもわたる戦争を行い、結果滅ぼすこととなる。
さらにマケドニア南部のアカイア同盟とも戦争状態に突入、同盟の解体と属州化で領土に加えた。
そしてほとんどの領土を失っていたカルタゴを、些細な条約反故で攻め込み、完全に滅亡させたのだった。
ポエニ戦争を終えた結果
共和政の完成と継続的な兵力の確保で強靭な体力を手にいれ、見事に最強の敵カルタゴを倒すことができたローマ。
しかしカルタゴを倒し、領土を拡大した結果、ローマの中で貧富の差が拡大してしまう。
相次ぐ遠征と大量の奴隷を手に入れたことで、一部の富裕層が大土地所有者となり、安価な労働力である奴隷を使ってますます富を蓄えて行く。
変わってこれまでの屋台骨であった自作農の平民たちが没落した。
こうして長らく共和政ローマを支えていた元老院主導体制が、次第に行き詰まりを見せるようになっていくのだった。