ユリウス・カエサルⅧ ―「市民諸君」、タプススの戦い、凱旋式、ムンダの戦い―

ローマの礎を築いた男 ユリウス・カエサル

エジプト、オリエントの問題を片付け、東方の基盤を手に入れたカエサル。
残る勢力は、北アフリカにいるポンペイウスと元老院派の残党である。

その頃首都ローマでは、カエサルの代理に指名され、統治を任されたアントニウスが失策を重ねていた。

カエサルは残党への対処の前に、ローマへと帰還する。

カエサル、元老院派と決着をつける

2度めの独裁官就任

ローマへと帰還したカエサルは、エジプトとオリエントの制覇によって熱狂したローマ市民集会から、5年もの任期を与えられた独裁官に任命された。
だがカエサルは、市民の熱狂に迎えられることと、独裁官任命のためだけにローマへと戻ってきたのではなかった。
本国の政治を任せていたアントニウスから、問題を抱えているとの報告が舞い込んだからである。

その問題とは、次の2つ。

  1. 第十軍団のストライキ
  2. 借金帳消し法による経済問題

1. 第十軍団のストライキ

「カエサルの第十軍団」といえば、泣く子も黙るカエサルの子飼い中の子飼いの軍団である。
かれらはガリア戦争初年度からカエサルのもとでともに戦ってきたベテラン兵たちだった。
その彼らが城壁外のマルス広場で騒ぎ立て、アントニウス(の派遣した使者)が一時支給金の約束を持っていっても取り合ってもくれなかったのだ。

カエサルは、第十軍団に要求を聞いた。
彼らは退役、と答える。
だが真の目的が退役ではなかった。
カエサルが次の目標に掲げる北アフリカ遠征で、自分たちの力が必要なのを知っていたため、困ったカエサルが一時支給金なり給料値上げをすることを期待したのである。

ここでカエサルは「退役を許す」と答える。
ベテラン兵にとって、この答えは意外な回答だった。
彼らは少なからずショックを与えられたのに、次の言葉はさらに追い打ちをかけることになった。


「市民諸君、諸君の給料もその他の報酬も、すべては約束どおり支払う。ただしそれは、わたしが、わたしに従(つ)いてきてくれる他の兵士たちとともに戦闘を終え、凱旋式までともに祝い終わった後で果す。諸君はその間、どことなりと安全な場所で待っていればよい」


ローマ人の物語5 ユリウス・カエサル ルビコン以後 | 塩野七生著

カエサルは、兵士たちに呼びかける時、親しみを込めて「戦友諸君(コンミリーテス)」と呼びかけていた。
それを、「市民諸君(クイリーテス)」と一般市民のように呼びかけられたのである。
まるで今までともに戦ってきたことなど、なかったかのように。

今まで気勢を上げていた軍団が静まり返った。
ばかりでなく、兵の中には泣き出すものまでいた。
彼らは口々に叫んだ。

兵士にもどしてくれ
カエサルのもとで戦わせてくれ

カエサルは、それには応えなかった。
そして彼らは、北アフリカの集結地であるシチリア島のマルサラに、行軍命令すら出ていない中で、他の軍団の後をトボトボと継いていくしかなかった。

以上が有名な第十軍団ストライキ事件の顛末である。
が、カエサルのことだ。
表はこのようなエピソードを残して、裏では彼らを労い、一時金などもあげたことだろう。

しかし第九軍団の時といい、ストライキに対する対応は、カエサルの国防に対する考えが、色濃く反映されている。
それは国防費の増大を防ぐ、ということだ。
カエサルは、次世代の国家ローマに対するあり方の青写真を、頭の中に描いていた人物である。
多額の国防費は、ローマの国家財政を破綻しかねないことも、わかっていたのだろう。
カエサルは、兵士に押し切られる形での給料のベースアップは、ぜひとも避けなければならない事案だったのである。

2. 借金帳消し法による経済問題

アントニウスが抱えていたもう一つの問題が、借金帳消し法の処遇だった。
これは、カエサル派の若手元老院議員たちが、民衆の人気取りのために提出した法案だ。

しかし日本の徳政令にみられるように、借金を分けもなく帳消しにすると、商人たちが次から金を貸さないため、経済活動が冷え切ってしまうのだ。
さすがにこの法案が危険だと察知したアントニウスは、カエサル帰還まで法の凍結をしたのである。
アントニウスにしてみれば、年の近い元老院議員に対して、気を使う思いだったのだろう。

だが、この凍結は悪手である。
なぜなら法の存在を知ったものが、成立するかもしれない借金帳消し法を前に、借りた人間に対して借金を返すだろうか。

カエサルはこの問題に対して、次の手をうつ。

  • 期間限定の家賃支払免除。ただし家賃の上限つき
  • 期間限定の利息支払い免除。期間を過ぎても、利息の上限は設定する

要するに、細かいことを置いておけば、

  • 払えない生活困窮者には待ってやってほしい
  • 借金は返そう、でも暴利は貪らないように

ということである。

これにより、ようやくローマの経済活動が再開されたのであった。


以上の問題を解決し、ポンペイウスについた人間の処遇も「自由」と決定したあとで、カエサルは北アフリカに行くと決める。
北アフリカでは、カエサルに弓を引く元老院派が、まだ残っていた。

タプススの戦い

タプススの戦い
タプススの戦い
Andrea Palladio

ストライキ事件を起こした第十軍団などのベテラン勢には、あとからアフリカに渡るよう指示を送り、カエサルは、準備のできた軍団だけを引き連れ、北アフリカに渡った。
北アフリカの上陸地点は、元老院派が立てこもるウティカに近い場所ではなく、200km程度離れた南に決める。
シチリアから最も近い場所に上陸しなかった理由は2つ。

  1. ウティカには最短距離ではあるが、元老院派と同盟を組む隣国ヌミディアにも近く、援軍に来ることも容易なため
  2. ウティカに近いと敵の補給路が万全で、敵地にいるカエサルが不利になるため

(1)は以前北アフリカに派遣した、クリオの犯した失敗を教訓としていた。
(2)はドゥラキウム攻防戦のときに、敵の補給基地近くで戦うことの不利を学んだからである。

今回も元老院派の兵力は、カエサルのそれよりも圧倒的に多かった。

元老院派軍

歩兵 35,000
騎兵 9,000

ヌミディア軍

歩兵 25,000
騎兵 6,000
戦象 120頭

カエサル軍

歩兵 30,000
騎兵 3,200
軽装歩兵 2,150

数で劣り、敵地で戦うカエサルの基本戦略はこうだ。

  • 元老院派軍をウティカから引き剥がし、会戦方式の決戦に持っていく
  • ヌミディア軍を足止めし、簡単に合流させず、各個撃破を狙う

ヌミディア軍対策には、ヌミディアのさらに西隣にいるマウリタニア王国と、サハラ砂漠の民を使い、ヌミディアへの牽制とした。
そして元老院派に対しては、カエサルが上陸した地点に近い、旧ポンペイウスの守る町を攻撃する構えを見せたのである。

とはいってもカエサルは最初少数の兵しか従えなかったので、ラビエヌス率いる先発騎兵に手痛い打撃を被った。
だが、ベテラン兵たちとの合流なったあとは、戦場に選んだ地であるタプススへと進軍した。

メテルス・スキピオ率いる元老院派軍と、マウリタニア、サハラの民対策を部下に任せた王率いるヌミディア軍もタプススに向かう。
タプスス周辺の地形は、内陸に潟があるため、沿岸沿いに細長い陸が2キロに渡って伸びていた。
カエサルは、タプススに陣をはると敵が二分して挟み込むと踏んだのである。
そして事実そのとおりになった。

カエサルは、まず標的を二分した一方のメテルス・スキピオ軍に向けた。
中央に騎兵を配置するという定石から外れた陣形をしくと、勢い余った第十軍団の突出もありながら、敵中央突破が成功し、左右から包囲して一気に決着をつけたのである。
そしてカエサルは間髪入れず、南に陣営をおくヌミディア軍を攻撃しにいくが、すでにヌミディア王は逃げたあとだった。

結局この戦いでヌミディア王は、逃げ込もうとした町に城門を閉ざされて、ポンペイウス配下の将と自決。
また、メテルス・スキピオ以下、ほとんどの旧ポンペイウス派の将軍たちは死んでしまい、ラビエヌス以下、ポンペイウスの遺児2人と数名のみが、ヒスパニア(スペイン)へと逃れたのである。

小カトーの最期

小カトーの自決
小カトーの自決
Creator:Louis-André-Gabriel Bouchet (French, 1759-1842) [Public domain]

一方ウティカに残っていた小カトーは、カエサルに最後まで徹底抗戦する気だった。
しかしウティカの住人が協力を拒否。

進退窮まった小カトーは、まるで日本の侍のように、腹に剣を突き刺した。
一度は従者に見つかり助かったものの、縫合した傷口を開くと、腹から腸を取り出して自殺した。

カエサルはウティカに入城するとすると、残っていた小カトーの家族たち、ポンペイウスの家族たちの安全を保証した。
そしてカエサルは、ウティカ入場からわずか2日後に、ローマへと帰還する。

初の凱旋式

スペイン総督からローマへ戻ってきたときは元老院派の妨害にあい、ガリア戦争後はそれどころではなく、ポンペイウスが死んだあとも行き着く暇がなかったカエサルが、このローマ帰還でようやく人生はじめての凱旋式を上げることができた。
先述したとおり、ローア男子にとって凱旋式とは、人生のなかで最も大きな喜びであり、最も栄誉あることなのだ。

カエサルはこの凱旋式を、4日に分けて行った。

1日目:ガリア人に対しての戦勝
2日目:エジプト王プトレマイオス13世とアルシノエに対しての戦勝
3日目:ポントス王ファルナケス2世に対しての戦勝
4日目:ヌミディア王ユバに対しての戦勝

また、戦勝の証として、

ガリア人:ウェルキンゲトリクス
エジプト人:王女アルノシエ
ポントス人:ファルナケスの息子
ヌミディア人:ヌミディアの王子

が市中を引き回された。

戦果の報告と祭司たちが行列に続いたあと、軍関係者の登場である。
この時、カエサルとともに戦った軍団兵たちは、口々にいった。

市民たちよ、女房を隠せ。禿の女たらしのお出ましだ!

神々への戦勝報告を終えてパレードが終了すると、市民を招待しての饗宴が始まった。
このカエサルの饗宴は、ほとんどの市民が豪勢な食事を食べられたカエサルの饗宴に書いたとおり、けた違いの規模になったのであった。

凱旋式を終え、いよいよカエサルの目指した国家大改造を始める時が来たのだ。
しかし、カエサルはこの改革を始める前に、ヒスパニア(スペイン)で決着をつける必要があった。

ムンダの戦い

ヒスパニア(スペイン)では、派遣していた2人の将軍がたいした成果をあげられず、逆にポンペイウスの遺児2人やラビエヌスらの勢力を広げさせる結果となってしまう。
その軍勢およそ80,000。
ここに至ってカエサルは、自らの出陣を決定し、ヒスパニアへと向かった。

カエサル軍48,000は、数で劣勢ながらも徐々に反抗勢力を追い詰める。
そしてムンダの地で、ついに両軍は激突した。

カエサルが

何度も勝利の為に戦ってきたが、ムンダでは自分の命を守る為に戦わざるを得なかった

と語るほどの激闘ではあったが、カエサル軍のベテラン第10軍団による敢闘と、同盟軍のマウリタニア騎兵による巧みな戦況判断により、次第に反抗勢力は劣勢となった。
そしてラビエヌス率いる騎兵が、カエサル軍の騎兵を牽制するために移動したことで、反抗勢力軍が退却と誤解したために総崩れとなってしまったのである。

この結果、反抗勢力のうち33,000が殺された。
ポンペイウスの長男も戦死。
次男のみ太平洋西岸の山地へと逃れることができた。

そして4年前にカエサルのもとを去ったラビエヌスもまた、ムンダの地で戦場に散ったのである。

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