ネロに迫る終幕の影
ローマ大火
終幕の序章は、首都ローマで起きた大火災だった。64年7月1日夜半、キルクス・マクシムス(戦車競技場)の南東から火の手が上がった。
人工過密のローマ市は、ただでさえ建物が密集している。なおかつその建物は木造のものが多い。またこの季節は南東風のシロッコが強く吹く。これだけ条件が揃えば、ローマ市街全域に火の手が広まるのも無理はなかった。
火災は9日間続き、首都は焼け落ちてしまったのである。ローマ市は14区に分かれていたが、被害のなかった区はわずか4区のみ。3区は完全に焼失し、あとの7区も全焼や半焼の建物が数多くあった。
このときネロは一体何をしていたのか。
火災発生当時、ネロはローマの南にある街アンティウムの別荘にいた。しかしローマ火災の報を聞くや、直ちにローマ市へと急行したのだ。
彼はローマに戻り次第、皇帝の私邸に戻らずすぐに陣頭指揮を取る。放水による消火活動もままならなかったこの時代、建物の延焼を防ぐにはわざと倒壊させるしかない。そこでネロは消防隊に、延焼が予想される先の建物を壊せと命令した。
また一時的な避難所として、公共の建物を開放する。いまなら学校の体育館に市民会館などの大きな建物を避難所に指定するようなことをしてみせた。また被災者の救援策に、穀物を安く支給する。ローマ市の下流にある港町オスティアから運ばれてくる救援物資を積んだ船には、オスティアへと向かうときには瓦礫が積み込まれ、埋め立ての材料として使われた。
またネロは復興にも力を入れる。ローマ市を立て直すために、火災に強い町づくりとして次のようなことを行った。
- 建物の高さは18メートルまで:アウグストゥス帝にも21メートルの高さ規制はあったが、ネロはさらに1階層分下げた
- 共有壁の禁止:いわゆる「長屋づくり」は火災の被害を広げるため、建物間に一定の間隔を設けさせた
- 中庭と屋根付き柱廊の設置:中庭はもちろん火災延焼防止の空間づくりだが、屋根は高いところへの消火活動に役立った
的確な復興政策を次々と打ち出すネロには、あの手厳しい歴史家タキトゥスですら、称賛を惜しんでいない。
大都市ローマの再建には莫大な費用がかかる。ネロはこの再建費用を、通貨価値の切り下げによって賄おうと考えた。
- アウレウス金貨:純金で造られた金貨の重さを7.9g→7.2gに変更
- デナリウス銀貨:貨幣の重さを3.8g→3.3gに変更。また銀の含有量を、99.5%→93.5%に切り下げ
ただしこれらは経済成長の続くローマ帝国にとって、必要な措置とも言えた。なぜなら鉱山から採掘できる金属量の増加に比べ、経済成長の伸び幅のほうが大きく上回っていたからだ。
ネロの通貨改革は87年ぶりだった。しかしこれ以後150年間に渡り、この通貨の重量と含有比率は守られていくのである。
ところがネロがせっかく火災対策に尽力したにも関わらず、ある噂が市民の間に流れ出す。それは次のような内容だった。
ネロは火災が最高潮のときに、マエケナス庭園の塔から燃えさかる町並みを眺め、『炎が美しい』と陶酔し、竪琴を弾きながら昔の出来事になぞらえて、舞台衣装で『トロイヤの陥落』を歌っていた
噂の出どころは不明だし、ネロがそのようなことを実際に行っていたのかもわからない。しかし噂が信じられる原因は2つあった。
一つは火災現場で延焼防止するための建物の引き倒し。このことは、ネロが町に火をつけて回る放火説につながった可能性もある。
そしてもう一つが、焼失地域に重なるように、黄金宮殿『ドムス・アウレア』を建設したことだった。
黄金宮殿『ドムス・アウレア』の建設
黄金宮殿の建設と言っても、ただ単に巨大な建造物を建てることではない。ネロの建設計画とは、次の項目で成り立っていた。
- ローマにある7つの丘のうち、パラティヌス、カエリウス、エスクィリヌスの3つの丘にまたがる広大な敷地に、樹木の生い茂る大庭園を作る
- その中央に人工湖を掘らせる。湖の水は庭園内のクラウディア水道によって供給される
- 人工湖の北側に推定で東西300メートル、南北100メートルほどの宮殿を建てる
- 庭園の西入口には、ネロの巨大なブロンズ像(コロッスス)を設置する
この項目のうち(3)に当たるものが黄金宮殿『ドムス・アウレア』のこと。上記から、ネロはローマ市の最も地価の高いところに、ちょっとした自然公園を建設するつもりだったのがわかるだろう。日本で例えるなら、京都御苑(御所)がわかりやすいかもしれない。
ちなみに(2)の人工湖は、後にウェスパシアヌス帝がコロッセオの基礎として利用した。また(4)の巨像はコロッセオの名前の由来になったという説がある。
ドムス・アウレアの話に戻そう。おそらく大庭園とドムス・アウレアの建設計画はすでにできており、一部の建物は建設が始まっていたのである。そこにローマ大火が起こってしまった。本来なら恐ろしく金のかかる庭園の建設など後回しにして、街の復興や被災者への支援を先に行い、ある程度落ち着いてから建設を再開すべきだったのだ。
ところがネロはドムス・アウレアと一連の計画を、街の復興と同時に行ってしまったのである。折しも周辺諸都市からの義援金は集まりつつあった。この義援金を、ネロが私物化したと市民に誤解されても仕方なかった。
またネロはドムス・アウレアを建てることで
これでやっと人間らしく住めるようになった
と発言したらしいが、人工過密気味のローマに自然公園を作ることで一息つける空間ができ、「(市民が)人間らしい生活を送れる」と言いたかったのではないだろうか。
いずれにしてもネロはこの宮殿建設で、市民から強い反発を受けることになる。それはネロ自身、肌で感じていたに違いない。そこで彼は、自分への反発の身代わりとなる生贄を用意したのである。その生贄とは、キリスト教徒だった。
キリスト教迫害
ネロは放火の犯人として、当時ユダヤ教から派生して間もないキリスト教徒たちを、放火の疑いアリとして次々と捕らえた。犯人として捕まったキリスト教徒たちには、残忍な刑が実行された。
- 獣の毛皮を被せられ、犬に噛み裂かれる野獣刑
- 十字架にかけられる火あぶりの刑
ネロの迫害で犠牲なった一人に、初代ローマ教皇と言われるペトロもいた。彼が迫害を逃れてアッピア街道を歩いているとき、イエス・キリストの姿を見かけ、
クォ・ヴァディス(主よ、どこへ行かれるのですか?)
と問いかけた逸話は有名だ。
ではなぜネロは、キリスト教徒たちを標的にしたのだろう。
まず一点目。彼らキリスト教徒たちは一神教ゆえに、ローマの神事に参加することを拒否した。宗教行事に参加しない彼らは、ローマ社会では変人集団とみなされていた。
次に2点目。当時それなりの人数がいたユダヤ社会からは、先祖の教えを捨てた恥知らずと考えられていた。
これらの人々から、キリスト教徒たちは理解不能であり、何をしているのかわからない→裏で悪事に手を染めているに違いない、と思われていたのである。
ネロにとってキリスト教徒たちは、犯人に仕立て上げるのに都合のいい人々だったのだ。
ピソの陰謀
65年、貴族からネロの統治に待ったをかける事件が起こった。それが『ピソの陰謀』と呼ばれるネロ暗殺計画だ。元老院議員カルプルニウス・ピソを中心として広まり、近衛隊長官2人のうち1人が加わったと言われている。
容姿端麗で、由緒正しい家の出身ながら、気さくで民衆にも人気が高い人物
暗殺決行日は4月19日。豊穣の神ケレスに捧げる祭りの最終日にあたる。この日は戦車競技が開かれる予定で、娯楽好きのネロが観戦することは確実だった。その時を狙って次のような計画が立てられた。
- 共謀者の一人が請願するふりをして、皇帝を突き倒して抑え込む
- 共謀者スカエウィヌスが最初の一撃をネロに放った後、全員で皇帝を突き刺す
ところが計画は事前に発覚してしまったのである。なぜか。
共謀者の一人、スカエウィヌスは皇帝への神罰としたかったのか、前日に神殿から剣を盗み出した。その夜遺書をしたためて剣を研ぎ、包帯と血止め薬を用意するよう解放奴隷に命じたのである。しかしこの行動を不審に思った解放奴隷が、報奨金目当てに当局へ通報してしまい、事件が明るみに出たのだ。
陰謀に加わっていた人々は次の通り。
- 元老院議員:16名
- 騎士階級:7名
- 近衛隊関係者:8名
これに他の5名が加わった、計36名が加担していた。
共謀者の検挙に活躍したのが、ブッルスの後に就任した近衛隊長官ティゲリヌスと、マルクス・コッケイウス・ネルウァ。後に五賢帝の最初の人物となる、あのネルウァだ。
ピソの陰謀に加担したとしてセネカも処刑された。彼は腕や足首や膝の血管を切っても、老齢のため血の出が悪くて死にきれない。激痛の中毒薬を飲んでもダメ。サウナに入り、蒸気の中でようやく息を引き取ったという。
元老院は陰謀鎮圧を神に感謝し、4月を「ネロ月」と呼ぶことを決議した。しかしこの事件で、ネロと元老院の溝は大きく開いてしまったのである。
ポッパエアの死
65年夏、ネロの最愛ともいえる妻、ポッパエア・サビナが死んだ。彼女は2度めの妊娠中だったのだが、ネロが戦車競技にでかけ、帰りが遅くなったことで口論となり、カッとなったネロに腹を蹴られて母子ともに命を落としたと言われている。ただしこれには諸説あるため、本当にネロが妻を殺したかどうかは疑わしい。
ここで少しネロの性事情について補足しておこう。ネロには同性愛趣味があり、アグリッピナの死後ネロは自分の欲望に忠実になったという。
彼にはスポルスやドリュフォルス(史書によってはピュタゴラス)なる同性の恋人たちがおり、彼らの陰部を野獣の姿で襲ったり、逆に自分を襲わせたりした。また去勢した恋人を花嫁に迎えたり、逆にネロが女役として嫁いだりと倒錯した性の遊びを堪能したようだ。
ちなみにスポルスを嫁に迎えたのは、顔立ちがポッパエアに似ていたからだという。彼女を懐かしんでいるのかと思いきや、その割にはポッパエアの死後にすぐ3番めの妻スタティリア・メッサリナを迎えているので、ネロの心情を測るのは難しい。妻との結婚は、単に世継ぎを産ませるためだけのものだったのかもしれないが。
名将コルブロの死
そして66年、またもネロの暗殺計画が発覚した。今度は軍のエリート将校たち。しかしこちらはすぐに陰謀がばれて逮捕、死刑にされ事なきを得る。しかしこの中にコルブロの娘婿、ウィニシアヌスがいたのである。
芸術の武者修行に、ギリシアへで書いたとおり、ネロは66年、ギリシアの祭典に出場するため旅に出たところだった。しかしこの陰謀はネロに大きな影を落としていたようだ。
彼はコルブロと、ゲルマニアを統治する2人の兄弟を旅先のギリシアへ呼び出した。ねぎらいの言葉を綴った書簡で、いかにも彼らをもてなそうとするかのように。しかしギリシアに赴いたコルブロたちを待っていたのは、自死を命じるネロからの使者だった。
こうしてパルティア問題を解決した最大の功労者コルブロと彼の兄弟たちは、67年、ネロに異を唱えることなく命に従い自殺した。ちょうどシリアでユダヤ教徒の反乱が起こっていたが、ネロはウェスパシアヌスに全権を与え、鎮圧を命じた。
兵から絶大な人気を誇るコルブロへの理不尽な命令は、ネロに対する軍の信頼を完全に失墜させてしまった。この段階でネロは元老院への権威のみならず、軍からの支持も失ったことになる。それは彼が自分で軍を率いず、将軍たちに軍事を任せていた結果でもあったのである。
ネロの最期
各地で反乱の火の手が上がる
ギリシアから帰ってしばらくたった68年3月、ガリアで反乱が起きた。首謀者はガリア・ルグドゥネンシス総督のウィンデクス。彼は自ら皇帝を名乗ることはなく、『人類救済』のスローガンを掲げ、各地に皇帝打倒の激を飛ばした。
このときネロは、なんと水オルガンの宣伝を行っていたのである。
どうやら帝国の防衛ラインより後方にあるガリアでは、まともな軍を持っていないと高を括っていたらしい。ところが反乱軍は、10万に達する勢いだった。
さて68年4月には、この激に呼応したヒスパニア・タラコネンシス総督スルピキウス・ガルバが、軍によって皇帝と呼びかけられた。しかしガルバ自身は皇帝の称号を拒否。代わりに『元老院とローマ人民の代表』と自称する。さらにルシタニア総督オト、つまり今は亡きポッパエア・サビナの元夫がガルバ支持を表明した。
ここに至って、ネロはようやく事態の危うさを把握した。彼は元老院にガルバを『国家の敵』と宣言させ、反逆者として討伐の対象とする。ところが今度はアフリカの軍団司令官クロディウスが、ローマへの輸送船を送らない、という揺さぶりをかけてきた。
アフリカは、ローマの食料を支える有数の穀倉地帯だったのだ。そのアフリカから穀物が供給されなければ、ローマ市の穀物相場は高騰し、民衆は苦しむことになる。
アレクサンドリアからの船
しかしここでアレクサンドリアからの船が到着した。エジプトもローマ有数の穀倉地帯であり、アレクサンドリアの港からの積荷が穀物であれば、ローマ市民は救われるのである。ところが誰もが穀物だと信じて疑わなかった積荷は、宮廷の格闘場を整備するための砂だったのだ。
この事件はネロにとって、不幸な事故とも言えなくはない。
アレキサンドリアから出港する船がローマに着くまでタイムラグがあるので、出港当時なら問題なかったはずである。ところがローマへ荷物を運んでいる最中に状況が一変してしまった。ローマ市が穀物に困窮することを、誰が予想できただろうか。
しかし民衆は、そんな事情など察してくれない。ネロは元老院や軍隊に続き、民衆からの人気も急落してしまった。
一方ガリアでは68年5月、ウェルギリウス・ルフス率いる高地ゲルマニア軍がガリア反乱軍を打ち破る。10万を超すとはいえ、烏合の衆でしかなかった反乱軍では、ローマ正規軍に勝ち目はなかった。
しかし反乱軍を破った兵たちは、ネロへの忠誠などないに等しい。彼らは将軍ルフスを皇帝に推挙したのである。ただしルフスは皇帝になることを辞退している。
エジプト逃亡計画
またガリアの反乱を鎮圧している間、ガルバの配下たちがローマへ潜入し、ネロの数少ない支持者をガルバ側に寝返らせることに成功した。それでもネロがこの時点で反乱に対し断固とした態度を見せていれば、この後の状況も変わっていただろう。
だがネロは我が身の安全を図るため、ローマ近郊のオスティア港からエジプトへと逃れる計画を立てたのだ。この逃亡計画を知った近衛隊長官ティゲリヌスは姿をくらまし、元老院は一気にガルバ支持へと流れていく。
ネロは解放奴隷をオスティアに派遣し、一眠りすることにした。しかし起きたとき宮廷中はもぬけの殻。誰かいないか宮廷を歩き回ったあとベッドルームへ戻ってみると、ベッドカバーや薬箱すら持ち去られていた。
ネロの死
結局エジプトに逃亡することができなかったネロは、隠れ家を求めて北東6kmにある郊外の別荘を目指した。付き従った人間は、「花嫁」スポルスを含めたわずか4人程度。
隠れ家に到着し、奥の部屋に隠れていたところに、ローマ市から使者が到着した。彼はいう。ネロが元老院から公敵宣言をされ処刑されるだろうこと。そして現在ネロを捕縛するための兵たちが、この家に向かっていることを。
捕縛されると、市中を引き回され辱めを受けた後に、残忍な方法で処刑されることは目に見えていた。しかしネロは死の恐怖から自殺する覚悟がつかない。お付きのものに自分を殺してくれ、と頼んでも逃げられる始末。
そうこうするうちに、派遣された騎兵の足音が迫ってきたことに気づいた。ここにきてようやくネロは覚悟を決め、自分の首に剣を突き刺す。
この世からなんと偉大な芸術家が消えていくことか!
と言葉を残したと伝えられているようだが、実際はただ静かに事切れたのかもしれない。
68年6月9日、ネロ死す。30歳の若さだった。死後、ネロの遺体は埋葬のため父方のドミティウス家の墓に運ばれた。ネロは死後も民衆から非常に人気があり、彼の墓には何年もの間、春と夏に花が供えらていたという。
また東方ではネロの死後、3人も『偽ネロ』が登場する。一人は翌69年に竪琴を弾く瓜二つの人物が現れ、パルティアと戦争を始めそうになった。西暦80年、今度はティトゥス帝の治世にも一人。そして90年、ネロを名乗る3人目の偽物が現れた。この人物は東方で大規模な反乱を引き起こしたのだった。
ネロを題材にした作品
アニメ
セスタス -The Roman Fighter-
技来静也氏原作の『拳闘暗黒伝セスタス』『拳奴死闘伝セスタス』をTVアニメ化した作品。
古代ローマの格闘奴隷「拳奴」として戦うこととなった主人公セスタスが、自由を手に入れることを夢見てライバルたちを倒していくストーリー。果たしてセスタスは奴隷の身から脱出することができるのか?強敵たちを倒した先には何が待っているのか?
この『セスタス』では、ちょうどネロが即位した直後からストーリーが始まっている。ローマ帝国の歴史と皇帝が主人公の運命にどのように関わっていくのかも、『セスタス』の見どころの一つだろう。
2,021年4月14日からフジテレビ系列で放映が開始されているので、興味があるなら今からでも視聴するのは遅くない。アニメ『セスタス -The Roman Fighter-』の情報は、下の公式サイトから見ていただくといいだろう。
なお見逃したあなたには、フジオンデマンド(FOD)でも視聴することができる。プレミアム会員になれば見放題なので、自分の都合がいい時間に何回でも楽しめるだろう。会員価格は月額936円(税込)。ただしサービスが合わないと思えばいつでも解約できるので、とりあえず登録してサービス内容を確かめてみるのもアリだろう。
今なら初回限定に限り、2週間見放題サービスが無料というおまけ付き。ただし決済方法によっては適用されないので、注意が必要だ。
\ 2週間無料トライアルキャンペーン!! /
紹介している作品は、2021年4月時点の情報です。現在は配信終了している場合もありますので、詳細はFODプレミアム公式HP にてご確認ください。
ちなみに原作の第一巻はこちら。
マンガ
我が名はネロ(上・下) 安彦良和
ネロを暴君ではなく、悩める一人の人間として描いた作品。
もうひとりの主人公を剣闘士とし、さらに登場人物にキリスト教徒を出すことで、当時のキリスト教の状況を浮き彫りにするのを狙っていたと思う。
作者はこの作品の前に『イエス(全4巻) 』を描いているので、その流れでこの作品を構想したのではないだろうか。
プリニウス ヤマザキマリ・とり・みき共著
『博物誌』を記した大プリニウスを描いた物語。
プリニウスが生きた同時代人として皇帝ネロも登場するが、この作品でも暴君というよりは一人の悩める青年皇帝として描かれている。
当時のローマの雰囲気を味わいたい人に、特におすすめしたい。