「賽は投げられた!」をはじめ、数々の有名な言葉、いわゆる「名言」を残したカエサル。
ところが、
- カエサルが言った(あるいは書いた)ものが何に載っているか
- カエサルがどのような文脈で言った(書いた)のか
が意外と知られていない。
そこでこの記事では、カエサルが残した(とされる)10の名言をピックアップし、
- カエサル自身が書き残したのか、他の人が伝えたのか
- カエサルが残した言葉の背景には、どのような出来事があったのか
を書いていく。
カエサルの名言のなかに、新たな側面を見つける手助けとなれば幸いだ。
カエサル自身が書き残した名言
カエサルが残した著作で現存するものは、次の2つしかないと言われている。
ひとつはアルプスを越えた、現在のフランスとドイツにまたがる地域の征服戦争を当事者本人(つまりカエサル)が描く『ガリア戦記』。
もう一つはガリア征服後に元老院(ポンペイウス)と対立し、ルビコン川を渡ってイタリアに攻め込んでからポンペイウスとの対決や死までを描いた『内乱記』。
カエサル自身の「生の言葉」は、この2つの著作にしかないと言っても過言ではないだろう。
まずは彼の著作物の中から、カエサルの名言をピックアップしてみよう。
全ガリアは三つの部分に分かれる
ガリア全体は、三つの部分に分れていて、……(後略)
ガリア戦記 第1巻 1年目の戦争(紀元前58年)
ガリア戦記の有名な冒頭部分。ラテン語では次のようになる。
Gallia est omnis divisa in partes tres.
この文を見て、あなたも「唐突だな」と思われたのではないだろうか。少なくとも私は唐突だと感じた。『内乱記』でも(というか内乱記は特に)、カエサルの著述は唐突に始まっている。
おそらく彼の著作はプロパガンダ、いわゆる世論操作とともに元老院(ローマの政治機関。カエサルも所属していた)に対する報告書の意味合いもあったので、読者に対する余計な文は必要なかったのだろう。
ただしカエサルに恋する作家の塩野七生氏は、著作『ローマ人の物語 ユリウス・カエサル上 ルビコン以前 』で、この冒頭を「やられた!(つまり最高の名文)」と評している。
さて件の言葉はこの一文で終わっているわけではなく、以下の文に続いている。講談社学術文庫版のガリア戦記 から、続きの文を引用してみよう。
(前略)……その一つにはベルガエ人が住み、もう一つにはアクィタニ人が住み、三つめには、その土地の人の言葉でケルタエ人とよばれ、われわれローマ人の言葉でガリア人とよばれる民族が住んでいる。
ガリア戦記 第1巻 1年目の戦争(紀元前58年)
太宰治の『走れメロス』冒頭「メロスは激怒した。」や、夏目漱石の『吾輩は猫である』冒頭「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」と同じく、名著の冒頭には名文があるものだ。
ほとんどの人間は、自分が信じたいと望むことを喜んで信じるものである
人間の本質を突いたこの言葉も『ガリア戦記』の一節だ。ラテン語では次のようになる。
Fere libenter homines id quod volunt credunt.
意味は「人は噂の虜になりやすい」ということだ。それも自分に都合がいい(信じたいと思うこと)なら、なおさらである。
では、どのようなシーンでこの言葉は使われているのだろうか。
これはガリア戦争3年目、副官サビヌスがウネッリ族討伐に向かったときのこと。サビヌスは慎重な作戦を取ったことから、自分が「腰抜け」と評されていることを知り、逆にそれを利用して一計を案じる。
この時サビヌスは敵に、「ローマ軍が撤退する」との噂を流すのだが、その中でなぜ敵が騙されたのかを説明する文として登場している。同じく講談社学術文庫版のガリア戦記 から、件の訳文を引用してみよう。
願わしいものなら喜んで本当と思いこむ人間の一般的な傾向。
ガリア戦記 第3巻 3年目の戦争(紀元前56年)
随分と違った訳が適用され、驚かれたのではないだろうか。
ちなみに度々の出典で申し訳ないが、塩野七生氏著作『ローマ人の物語』で彼女は次のように訳している。
多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない
「超訳」としかいいようのないこの言葉を批判する人もいるだろう。しかし私は素直に「さすが小説家」と唸ってしまった。今でも大好きな一文として、私の記憶に刻まれている。
世の中には苦痛を辛抱強く耐え抜く者より、進んでわれとわが身を殺す人のほうが見つかりやすい
この言葉も『ガリア戦記』の一節から。ラテン語では次のようになる。
Qui se ultro morti offerant facilius reperiuntur quam qui dolorem patienter ferant.
意味はこの言葉の逆、つまり「焦って身を滅ぼす人が多いので、(私たちは)忍耐強く耐え忍ぼう」ということだ。
ガリア戦争7年目、ガリア人の総決起でローマに反旗を翻した戦争終盤での出来事。城邑アレシアに立てこもり、カエサルの包囲で食糧が欠乏してきたガリア軍は、降伏か総攻撃に出るべきだとの意見が大半をしめていた。
そこにガリアの有力貴族クリトグナトゥスが、今に来る援軍を待つべきだと演説した時の言葉として登場する。
(前略)わずかな期間の欠乏にも耐えられないというのは、諸君らの意志が薄弱なためで、べつに勇気があるためではない。世の中には苦痛を辛抱強く耐え抜く者より、進んでわれとわが身を殺す人のほうが見つかりやすい。
ガリア戦記 第7巻 7年目の戦争(紀元前52年)
この演説のあと、ガリア軍はローマ軍の4倍にもなる援軍が到着することになる。
お気づきの方もいると思うが、実はこの言葉はカエサルが言った言葉ではなく、当時カエサルの敵だったものの言葉を(伝え聞いて)カエサルが文章に起こしたのである。
敵の言葉でも、人間の普遍的な心情としてカエサルの名言にしてしまうあたり、カエサルの文章家としての能力の高さやスゴみを感じることができるだろう。
なおガリア総決起については、ユリウス・カエサルⅤ ―ガリア属州総督就任からルビコン川を渡るまで―でも取り上げているので、気になる方はご覧いただくといいだろう。
運には絶大な力があり、とくに戦争ではわずかのはずみで局面の大きな変化を引き起こす
カエサルの「生の言葉」として、最後にこちらの名言を紹介しよう。ラテン語では次のようになる。
Sed fortuna, quae plurimum potest cum in reliquis rebus tum praecipue in bello, parvis momentis magnas rerum commutationes efficit; ut tum accidit.
意味はそのままで、「天運は人智の及ばないところで、影響を与える」ということ。それが戦争ならなおさらだ。
この言葉は内乱記の3巻、ポンペイウスとの直接対決の舞台となったデュッラキウムでの戦いで、カエサルがポンペイウスに敗れたシーンを伝える言葉だ。
(前略)運には絶大な力があり、それは他のことでもそうだが、とくに戦争ではわずかのはずみで局面の大きな変化を引き起こす。
内乱記 第3巻 第66-70章 カエサル軍の大敗北
ポンペイウスの軍をひとまず撃退し、さらに攻勢をしかけようとしたカエサル。しかし敵陣だと思っていた防壁が実は間違いで、それを乗り越えるための時間を使ってしまったために、ポンペイウスに攻撃をする時間を与えてしまった。
これは運が悪かったとしか言いようがないのだが、結局時を逸したカエサルは撤退に追い込まれる事になったのである。
【追加】すべてが首尾よく運ばない場合は、力を振り絞って運を支えなければならない
10選と言いながら、名言を一つ追加することをお許し願いたい。
この名言は私が選んだものではなく、ウッチェロ@studio_uccello氏によって教えてもらった一節だ。
ラテン語では次のようになる。
Si non omnia caderent secunda, fortunam esse industria sublevandam.
意味は、「逆境のときこそ力を振り絞れ」ということ。
デュッラキウムでの敗戦後、カエサルが作戦を変更するため撤退をする時、兵士たちを鼓舞するために行った演説の一節である。
怖気づくな、起きたことは悔やむなと言いつつ、カエサルは今までの戦いは運が味方をしていたと兵士たちに訴える。だが運が向かなくなった時、自分たちがどうするか。それが大事なのだと説いたのがこの言葉だ。
(前略)要するに、どれほど幸運だったかを思い起こさなければならない。諸君は敵艦隊のただ中を抜け、港ばかりか海岸も敵が埋め尽くしているのに、海を渡ってきたのだから。だが、すべてが首尾よく運ばない場合は、力を振り絞って運を支えなければならない。(後略)
内乱記 第3巻 第71-74章 カエサル軍の痛憤、ポンペイウス軍の歓喜
前出の「運には絶大な力があり……」と合わせ、まさに西洋版の「人事を尽くして天命を待つ」である。カエサルはこの演説で兵士を鼓舞したあと、決戦の地ファルサルスへと向かったのだ。
ちなみにカエサルとポンペイウスの対決は、双方の立場から記事にしているので、そちらも参考にしていただければと思う。
カエサル以外の人物によって伝えられた名言
カエサルの「生の言葉」は、カエサル自身が書き残した名言でも記述したとおり彼の著作『ガリア戦記』と『内乱記』の中にしかない。
しかし上記著作以外のカエサルの名言は、違う人の著作物によって伝えられたものなのだ。どちらかいうと今から紹介する言葉のほうが、より有名なものが多い。
それではカエサル以外の人が伝えた、カエサルの名言たちを紹介しよう。
カエサルの妻たる者は、疑われることさえもあってはならない
まずはこの言葉。意味は「(政治家である)私(カエサル)の妻は(原因が本人以外のことであっても)疑われるようなことをしてはならない」ということ。政治家なら自分以外の親しいものも清廉であるべきだ、とでもいおうか。
女人禁制のボナ・デア祭の最中、カエサルの妻ポンペイアが女装した若者クロディウスに襲われたが、未遂のうちにクロディウスは捕まってしまったときのこと。
カエサルは未遂にもかかわらず、妻ポンペイアとの離婚を決意する。周囲の人から何もなかったのになぜ離婚するのかと尋ねられたところ、次のの言葉を口にしたと言われている。
私の妻たるものは嫌疑を受ける女であってはならないから。
プルターク英雄伝9 カエサル
散々浮名を流したカエサルが何をおっしゃいますか、と現代なら女性から猛反発を食らいそうな場面。古代ローマとは価値観が違う、といえばそれまでなのだが……。
ちなみにこのカエサルのエピソードは、ユリウス・カエサルⅢ ―ラビリウス弾劾からヒスパニア属州総督就任まで―でも詳しく書いているので、お読みいただくといいだろう。
いかなる悪しき先例も、最初は正当なる措置として始まっている
次はサルスティウスによって書かれたこの言葉。ラテン語では次のようになる。
Omnia mala exempla ex rebus bonis orta sunt
意味は「どんなに悪い慣例でも、良い行いと信じられて始められた」ということ。
ローマで「カテリーナの陰謀」と呼ばれる国家転覆事件が起こったときのこと。陰謀に加担しているとして逮捕された人々の処分をどうするか、元老院で議論されたときに発言したカエサルの言葉の中にある一節だ。
すべての悪しき前例も良いことから生じてきた。
ユグルタ戦争 カティリーナの陰謀 第51章
多くの人が陰謀者を処刑すべきだと意見する中、カエサルだけが処刑に反対した。疑わしきを罰するべきではない、と。元老院の処置は悪しき先例になりうるのだと言外にカエサルは主張しているのである。
結局陰謀者は処刑されることになったのだが、カエサルのこの信念は後々の行動規範となるのである。
ちなみにカテリーナに陰謀については、ユリウス・カエサルⅢ ―ラビリウス弾劾からヒスパニア属州総督就任まで―にも記述しているので、ご覧いただくといいだろう。
ローマで二番になるより、村で一番になりたいものだ
次はプルタルコスの英雄伝にある、カエサルの章に書かれたこの言葉。
意味は「どんなに大きな舞台でも2番目として記憶に残らないなら、小さなところで1番になるほうがマシだ」ということ。
プロプラエトル(法務官格)の属州総督としてスペインに派遣されたときのこと。アルプスを越えてある村を訪れた時、この村にも争いがあるのかと部下に尋ねられ、カエサルはこう返したと伝えられている。
自分はローマ人の間で第二位を占めるよりも、ここの人々の間で第一位を占めたい。
プルターク英雄伝9 カエサル
いかにも1番志向のカエサルらしい答えだが、実はローマを出発するまえに借金取りから返済をせまられ、家から出られなかった。そこで最大の負債者クラッススに助けてもらい、ほうほうの体でようやくスペインへと出発することができたのである。
それを考えると、それほど格好のいい場面でもないのだ。
賽は投げられた
カエサルを知らなくても、この言葉は聞いたことがあるだろう。ラテン語では次のようになる。
Alea iacta est.
意味は「すでに始まったことなのだから、くよくよ考えずに行動せよ」ということ。
カエサルがルビコン川を前にして、従う兵士たちに自分の決意を語るときに出た言葉だとされている。ルビコン川を渡るとはどういう意味があったのか、一体どのような決意が必要だったか詳しく知りたい方は、ルビコン川 ―わずか1mの川幅を渡ることをカエサルが躊躇した意味とは―やユリウス・カエサルⅤ ―ガリア属州総督就任からルビコン川を渡るまで―でご覧いただければと思う。
ところがカエサル自身は、このような言葉を言ったと内乱記に書いていない。記述されているのはただ、
- 自分の軍団に演説したこと
- アリミヌムに進発したこと
の2つである。では一体誰がこの言葉を伝えたのか。
おそらくはじめに伝えたのは、プルタルコスの英雄伝(対比列伝)だろう。プルタルコスはカエサル伝やポンペイウス伝で、カエサルがギリシア語で「賽は投げてしまおう(Ἀνερρίφθω κύβος)」と言い放ったと記述している。
さらにこのプルタルコスの記述は、カエサルと同時代に生き、カエサルとともにルビコン川を渡ったガイウス・アシニウス・ポッリオの言葉から拝借したようである。現在残ってはいないものの、ポッリオも同時代を記録した著作を残していたのだ。
この言葉を、ローマ皇帝伝 の著者スエトニウスはラテン語に直した。彼はカエサルがルビコン川を渡るときに、次のように言ったと記述している。
さあ進もう。神々と示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた
ローマ皇帝伝 第1巻 カエサル
では「賽は投げられた」はカエサルの創作だったのだろうか。カエサルが双六ゲーム(バックギャモンの原型)を好んでプレイしていたのは、古代ローマのボードゲーム ―カエサルや皇帝も興じた遊び―にも記載したとおりだ。
ただしカエサルの「賽が投げられた」は、ギリシア喜劇作家メナンドロスの作品から借用していたようである。カエサルはギリシア喜劇にも精通する教養人だったのだ。
来た、見た、勝った
たった3語で綴られたこの言葉を、あなたもどこかで見たことはあるだろう。マルボロというタバコ箱のパッケージデザインにも使われていたラテン語の一文は次のとおりだ。
Veni, vidi, vici.
意味は「(自分の能力で)簡単に終わらせることができた」とでも言うところだろう。
すべての頭文字を揃え韻を踏む3語は、ラテン語を読めない私のようなものでも美しさが伝わってくる。ではこの言葉を伝えたのは誰か。
実はこれもプルタルコスによるものだ。彼は英雄伝(対比列伝)の中で、カエサルが腹心の一人マティウスに当てて書いた手紙に、この言葉を使ったと書いている。ただプルタルコスはギリシア語での紹介だった。
おそらくラテン語として紹介したのはスエトニウスだろう。ただしスエトニウスの場合は、カエサルがおこなったポントス戦勝の凱旋式のプラカードにこの言葉を刻んだと紹介している。
ポントスの凱旋式には、行列の中の化粧担架にのせて三つの単語 veni, vidi, vici(来たり、見たり、勝ちたり)を書いた立て札を、自分の前に運ばせた。これは他の場合と違って、戦果を現したのではなく、迅速に戦いを終えたことを強調したものである。
ローマ皇帝伝 第1巻 カエサル
いずれにしても、簡潔さを好むカエサルの文章として、これほどふさわしいものもないだろう。ちなみにこの言葉を生んだゼラの戦いについては、ユリウス・カエサルⅦ ―クレオパトラとの出会いから「来た、見た、勝った」まで―をご一読いたただければ幸いだ。
ブルータス、お前もか?
カエサルの名言の最後は、やはりこの言葉で締めくくろう。
カエサルがマルクス・ブルトゥスらによって暗殺された時、凶刃に倒れる前にカエサルが言ったとされる「ブルータス(ブルトゥス)、お前もか?」。ラテン語では次の通り。
Et tu, Brute?
意味、というより用途は「面倒をみてかわいがっていたものから裏切られる」ことを暗に示したいときに使われる。日本なら「飼い犬に手を噛まれる」という言葉が近いだろうか。
この言葉自体はシェイクスピアの劇作『ジュリアス・シーザー 』で使われたものであり、シェイクスピアが広めたと言っても過言ではない。ではカエサルの最後の言葉は、まるっきりの創作なのだろうか。
度々登場するギリシア歴史家プルタルコスは、カエサルが死ぬ直前トガで顔を隠した(引き上げた)としている。またスエトニウスもローマ皇帝伝 で、カエサルは「最初の一撃にただ一度、呻いただけで、後は一声も発しなかった」としている。
ただしスエトニウスはその後に続けて、次のように書いている。
もっともある伝えによると、襲ってきたマルクス・ブルトゥスに「お前もか、倅(せがれ)よ」と言ったという。
ローマ皇帝伝 第1巻 カエサル
ちなみに「お前もか、倅よ」の部分はギリシア語で「καὶ σὺ τέκνον(カイ・スュ・テクノン)」と記述されており、ギリシア語が堪能だったカエサルらしいとも言えなくはない。
ただしカエサルには息子がいなかったので、彼の最後の言葉を巡って議論が続いているらしい。
- 息子のようにかわいがっていたブルトゥスに対する揶揄
- ギリシア語の一節からの引用
などだ。
いずれにせよ人間が今際の際に言葉を発することができるか私には疑問だが、これもカエサルの人物像がなせる技なのだろう。
ちなみにカエサルの死については、ユリウス・カエサルⅨ ―ローマ帝国への道から終身独裁官就任、暗殺まで―にも書いているので、よければご一読いただきたい。
私が自由にした人々が再び私に剣を向けることになるとしても、そのようなことには心をわずらわせたくない。何ものにもまして私が自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている。
ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後(中)
カエサルの寛容を表す言葉として、塩野七生氏の著作『ローマ人の物語』に紹介されているものだ。
この言葉は塩野七生氏の創作ではなく、キケロの書簡集のなかに収められてるカエサルとのやり取りとして掲載されている。
ときは前49年3月15日。カエサルがポンペイウス軍をブルンディシウムで包囲している最中に、キケロ宛に返信したとされる。
キケロー書簡集(岩波文庫、高橋宏幸編) に掲載されているその部分を下記引用してみよう。
私が希釈した者たちが再び私に戦争を仕掛けるために国外に出たと伝えられていることについては、別に気にはしていません。私が自分自身の性格に忠実であり、彼らもまた彼ら自身の性格に忠実であること以上に私が望むことはないからです。
キケロー書簡集 A一八五(九・一六)49年3月26日、フォルミアエ
原文ではおそらくキケロによるプロパガンダを期待して、彼への返信文を書いている可能性は大いにあるだろう。
しかし塩野七生マジックというべきか。ブルンディシウムの状況を説明した文を、カエサルの寛容として一般化する技術はさすがとしか言いようがない。それが誤解を与えてしまうかはともかく。
今回のまとめ
それではカエサルの名言について、おさらいしよう。
- カエサルの名言には、本人が直接言葉を残しているものと他の人によって伝えられているものがある
- カエサルの直接の言葉は『ガリア戦記』と『内乱記』の2つの著作物からしかない
- カエサルの言葉として伝わっている有名な言葉は、プルタルコスやスエトニウスなどの古代の歴史家によるものである
カエサルの名言と呼ばれる言葉も、その背景や言葉を使った前後関係がわかると、また違った印象を受けたことだと思う。
どうしてカエサルはこれらの言葉を使ったのか。そのことを考えながら2,000年以上も昔に思いを馳せるのも、また一興ではないだろうか。
カエサルの8年にも及ぶガリア戦争を、本人が記録した貴重な資料。しかしその文章は単なる記録にとどまらず、古代からラテン語の名文として名を馳せる。
簡潔かつ明快な文章は非常に小気味よく読めるので、敬遠されているかたもぜひ読んでいただきたい本だ。
ガリア征服を終えたカエサルは、元老院との妥協の道を探っていた。だが元老院側につくポンペイウスとの交渉も決裂し、カエサルはルビコン川を前に決意する。果たして元老院やポンペイウスとの対決の結末とは?
カエサルのルビコン渡河から、ポンペイウスとの決戦や死までを描く、カエサル本人によるローマ内乱の記録。絶望的な状況でも諦めないカエサルの逆転劇は、手に汗握るものがあるだろう。
古代ローマ時代に生きた、ギリシアの歴史家プルタルコスの手による人物の記録書。カエサルの他にもポンペイウスやアントニウス、さらにカエサル暗殺の首謀者ブルトゥスまで掲載されている。
こちらはスエトニウスによるローマ皇帝たちの記録。正確にはカエサルは皇帝ではないのだが、独裁者として皇帝のような立場にいたため(そして彼の後継者が皇帝となるため)、カエサルの伝記から始まっている。
どちらかというとゴシップ記事のようなエピソード満載なので、面白い逸話集を読みたい方におすすめの本である。
カルタゴ滅亡から30年。滅亡の直接の原因となったヌミディアの王マシニッサの孫ユグルタが、ローマを相手に政略の限りを尽くして立ち向かう。はたしてローマはユグルタとの戦いにどう対処したのか。
ほか、カエサルの加担も噂された国家転覆の陰謀、カテリーナの陰謀についても収録されている。
小説家塩野七生氏による、「恋する歴史書(名もなき司書官命名)」ローマ人の物語カエサル伝。文庫版9巻では、カエサルがいよいよガリア戦争に出発し戦う様子が描かれる。
こちらも小説家塩野七生氏による、「恋する歴史書(名もなき司書官命名)」ローマ人の物語カエサル伝。文庫版10巻では、ガリア戦争最大のクライマックス、ウェルチンジェトリクスとの死闘とアレシアの攻防を描く。果たしてカエサルは30万を超す敵に、どう立ち向かうのか。
塩野七生さん引用のカエサル名言の出自チェックをしているときにこのサイトを見つけました。とてもわかりやすく簡潔にまとめられていてとても助かりました。ありがとうございます。 それにしても『恋する歴史書』とは言い得て妙ですね。
銀河を離れさま、コメントありがとうございます!
わかりやすいとのお言葉をいただき、とても嬉しいです。
『恋する歴史書』は私の完全な造語で、塩野先生のお耳にはいったら「私は冷静だ」と怒られるかもしれません(笑)。が、銀河を離れさまのように、納得いただけることがわかって、ちょっと安心しました(^^
これからも当サイトをよろしくお願いします。