カラカラ、財政再建に乗り出す
銀貨改悪
当然兵士たちの給料アップは、帝国の支出急増を生んだ。
ではカラカラはこの支出を何で補ったのだろうか。
彼はまず、イチャモンとも取られかねないゲタの連座処刑で、処刑者の財産を没収した。
しかしこれだけでは足りなかったのか、さらなる方策にでた。
それが銀貨に含まれる銀の含有量をさげ、貨幣を増やす銀貨改悪である。
この時代、兵士たちに支払う給料はデナリウス銀貨で行っていた。
銀貨の造幣量が増えれば、兵士たちに払う給料も増やすことができたのだ。
また、カラカラは新貨幣も導入した。
大きさはデナリウス銀貨の1.5倍だが、価値は倍の2デナリウスとなる「アントニヌス銀貨」を発行。
これも銀の含有量を減らして、その分貨幣を増やす方法と言えるだろう。
だが、貨幣の流通量を闇雲に増やせばどうなるか。
ご存知の通り、物の価値が急激に上がるインフレが起こる。
100年前のネルウァ帝時代から、ローマ帝国は慢性的にインフレが起こっていたのだが、セウェルス、ついでカラカラの時代に銀貨の改悪が進んだせいで、一気にインフレが加速したのだった。
アントニヌス勅令
さらにカラカラの財政再建政策はつづく。
税制改革もその一つ。
カラカラは、5%だった奴隷解放税や相続税を、倍の10%に変更したのである。
奴隷解放税については、古代ローマの奴隷 ―高度な専門知識を持つものも存在した、社会の基盤を支える労働力―の古代ローマの奴隷の解放にも記載しているので、そちらをご参考いただくといいだろう。
ただし、これらの税はローマ市民権を持ったものだけに課される税金だった。
そこでカラカラは、税収の増加を図るため、(多少の例外を除く)帝国に住むすべての自由民(奴隷や外国人ではない人)にローマ市民権を与える、「アントニヌス勅令」を発した。
ただしアントニヌス勅令の「税金取り立て説」は、同時代人史家のカッシウス・ディオが解釈したものである。
私はこの解釈に2つの疑問がある。
- 相続税や奴隷解放税を払うことができるのは一部の富裕層だけであり、帝国全体の自由民に市民権を与えて効果はあったのか
- 属州民にはもともと「十分の一税」という税金を課されていたのに、その財源がなくなると、かえって税収が減るのではないか
事実、アントニヌス勅令後も思ったように税収が増えなかった、とディオは伝えている。
カラカラが「アントニヌス勅令」を出した理由を、私はこう見ている。
ローマは長い歴史の中で、ローマ市民権を少しずつ開放してきた。
- 前88年の同盟市戦争後の全イタリアへの開放
- 属州の有力者への付与
- 補助軍兵士たちの退役による報酬
この長い歴史の中で、属州民たちも(都市に住む人々は)いわばローマと同じような生活をし、ローマ市民たちとさほど変わらなくなってきたのではないだろうか、と。
属州という垣根が、いわば有名無実化した結果、カラカラがアントニヌス勅令を発したのではないだろうか。
いずれにしても、カラカラのアントニヌス勅令は、「人道的な問題」からの発令でなかったことは確かである。
カラカラ、ローマでやりたい放題
カラカラ浴場建設
財政的に苦しかったにも関わらず、カラカラはローマ市民に対して娯楽を提供することを忘れない。
その代表的なものが、212年に始まった浴場の建設である。
先帝セウェルス帝の頃から計画されていたようだが、彼はこの浴場建設で後世に名を残したかったと言われている。
カラカラ浴場は、当時皇帝の本名をとってアントニヌス浴場と呼ばれていた。
収容人数1,600を誇る規模の大きさは、当時の浴場では最大級のものだ。
まさに総合レジャー施設と呼べるにふさわしく、3つの浴室に加えてサウナ室、体育館、談話室、さらにラテン語とギリシア語に分けられた2つの図書館まで完備していた。
しかしカラカラは、翌年213年に首都を離れ、二度とローマに戻らなかったので、216年に完成しても自分の建設した浴場を1度も目にすることはなかったのである。
アレクサンドロスへのあこがれ
カラカラは、マケドニアの英雄アレクサンドロス大王にあこがれていた。
アレクサンドロス大王へのあこがれ自体は、ローマ人としても、皇帝としても珍しいことではない。
共和政時代の英雄たちも、歴代の皇帝たちもアレクサンドロスを自認したり、彼にあやかろうとすることはあった。
しかしカラカラは、あこがれを通り越して崇拝するレベルだったのである。
父セウェルスが軍事的成功を治めた有能な皇帝であるカラカラの境遇が、同じく有能な父を持つアレクサンドロスへのシンパシーを抱かせたのだろう。
カラカラは自分を、大王の生まれ変わりだとまで言っている。
また、カラカラは大王が持っていた武器や杯などを収集し、彼に関するあらゆる書物を読破。
帝国各地に、自分に似せたアレクサンドロスの胸像や立像を建立した。
さらにカラカラのマニアックな凝りようは、軍隊にまで及んだ。
彼はマケドニア人を16,000人も集め、アレクサンドロス存命当時の密集陣形ファランクスえを編成し、さらに5メートルにもなる長槍や当時の武装をさせたのである。
そしてもう一つ、カラカラの大王マニアは人事にすら影響があった。
カラカラは、アンティゴヌスという乗馬のうまい将校を、議員に抜擢した。
なぜならアンティゴヌスの父の名はフィリッポスで、アレクサンドロスの父と同じ名であり、大王死後のマケドニア王がアンティゴノスと同名だったからである。
ちなみにアンティゴヌスはカラカラ死後も、失脚することなくモエシア属州総督にまで登りつめた。
カラカラの抜擢がなくても、アンティゴヌスは優秀な人材だったのだろう。
戦車競走での虐殺
兵士への恩賞と給料増額で帝国の懐が寂しくなっていたにも関わらず、カラカラの浪費癖は相変わらずだったようだ。
その浪費で特に著しかったのは、
- 野獣狩り
- 戦車競技
の2つだった。
母のユリア・ドムナがカラカラに忠告しても
(剣を指して)これがある限り困らない
と、うそぶいていたという。
カラカラの指した剣は、有罪判決により有力者を処分することで財産を没収することを意味していた。
さて、カラカラが入れ込んだ戦車競技で一つの事件が発生する。
213年、彼が応援する青チームの騎手に対して、競技観戦中に誹謗する声が上がったである。
カラカラは、悪口を言ったものを処刑するよう兵士たちに命じた。
しかし大観衆の中で、声をあげたものを特定することなどできるはずがない。
そこで兵士たちは、誰彼かまわず手当たりしだいに観客を手にかけた。
罪なき人への大虐殺。
カラカラは騎手への誹謗を自分への侮辱と捉えたのだ。
現代でも、自分の好きな作品を批判され、それを自分が否定されたと思いこむ人がいるではないか。
カラカラは、それをこの戦車競技で行ったのだろう。
しかし権力者である以上、大勢の人を巻き込まずにはいられなかったのである。