カラカラ、帝国を巡幸する
アラマンニ族征伐
213年、カラカラは父セウェルス帝が唯一手を着けていなかった北方戦線へと出発した。
高地ゲルマニア(ゲルマニア・スペリオール)に隣接するゲルマン部族の一つ、アラマンニ族の攻撃が激しくなったからである。
ライン川とドナウ川が上流で交わるこの地域は、北方防衛戦の弱点でもあった。
213年秋、カラカラはゲルマン人に局地的な勝利は治めたものの、敵の本拠地までは落とせず、早々に切り上げることを決断した。
カラカラは和解金を払い、アラマンニ族を退かせたようである。
兵士たちへの対応
ところでカラカラに対する兵士の評価はどのようなものだったのだろうか。
カラカラは、兵士たちに大変人気があったようだ。
彼は、普通一兵卒がこなす人が嫌がる仕事をすすんでこなした。
例えば、塹壕掘り、橋を架ける作業。
また、行軍には馬に乗らずに徒歩で移動し、風呂に入らず、食事も質素で自分で麦を引き(当時麦を引くのは思った以上に骨が折れる作業)、木製の食器を使うことも嫌がらなかった。
また自分を「戦友」と呼ばせ、親近感を抱かせたりもした。
私の予想だが、カラカラの兵士たちに対する態度は、アレクサンドロスかぶれの一環だったと考える。
しかしいくらかぶれていても、自分から汚れ仕事を買って出られるほど、人間は強くないものだ。
兵士たちに見る態度は、カラカラが父セウェルスの教えを守っていた証拠だろう。
一方でカラカラは学問を軽視したといわれている。
これは学問の軽視より、学問を修める人の態度が若い皇帝にとって鼻についた結果、彼の言動に表れたのではないかと思う。
アレクサンドリアでの大虐殺
このように兵士たちに親近感をいだかせ、また給料をアップすることで軍から人気を獲得したカラカラ。
では命令一つで動かせるようになった軍を使って、カラカラは何をしたのか。
アラマンニ族との戦いの後、2年にわたり東地中海各地を巡幸したカラカラは、215年の冬をエジプトのアレキサンドリアで過ごすことにした。
アレキサンドリアは、かのアレクサンドロスが建設した都市であり、崇拝者カラカラにとって特別な地だったのだ。
しかしカラカラには、もう一つ目的があった。
それは弟ゲタ殺しを正当化するカラカラを揶揄した風刺詩が、アレクサンドリアで流行していたことへの報復である。
カラカラにとって弟ゲタの存在は忌むべきものであり、弟の暗殺は今なお消えない心の後ろ暗い部分だった。
その弟殺しの正当化をからかうなど、カラカラには許せる行為ではなかったのだ。
カラカラは、アレクサンドリアの市民たちに最大限の敬意を表し、公式訪問の意を伝えることで、まずは警戒心を解いた。
アレクサンドリアの有力者たちも、ローマ皇帝に対して盛大な歓迎を催すことに決める。
そして酒宴が宴もたけなわになろうかという頃、カラカラは目立たぬよう合図をおくった。
すると兵士たちが宴会に乱入し、次々と有力者たちに剣を刺したのである。
この宴会が進行している間に軍隊は街に侵入し、住民たちに外出禁止令を出した。
そして兵士たちが道路と屋根を占拠すると、アレクサンドリアの有力者2万人を虐殺し、財産を略奪したのである。
また別の史書には、密集隊形の再現という名目で若者たちを一箇所に集めた後、無防備な彼らを軍隊に包囲殲滅させてから、住人の虐殺に及んだという。
アレクサンドリアの住人にどれほどの犠牲が出たのか、どのように殺されたのか、今となっては分からない。
しかしカラカラの弟への憎しみが相当強かったことと、有力者たちの財産を目当てとして行った行為だろうと私は思う。
なぜならカラカラはこの虐殺の後、兵士たち1人あたり25,000セステルティウスものボーナスを与えているからだ。
カラカラは、弟殺しを正当化した風刺に対する報復と、豊かなアレクサンドリアの富の没収という一仕事を終え、パルティア遠征へと向かったのだった。
カラカラの最期
パルティア遠征
216年春、カラカラは属州シリアのアンティオキアに戻ると、パルティア遠征の準備を始める。
ローマの東隣にある大国パルティアでは、王位をめぐる兄弟同士の争いが起こっており、カラカラはその対処に当たる必要があった。
そこでまずカラカラは外交的手段で解決を図ることに決める。
対立する一方の王の娘(つまり王女)に結婚を申し込んで同盟関係を結び、なおかつ内部分裂を利用して親ローマを形成するつもりだった。
しかしこの作戦は、求婚を拒否されたことであえなく破綻。
そこでカラカラは強硬手段に出る。
彼は求婚拒否を口実にパルティア領内に侵攻し、ティグリス川付近まで一気に軍を進めたのだった。
排便中の暗殺
戦争を始めたことで、パルティアからの反撃が予想されたカラカラは、東方の国境付近にとどまらざるをえなくなった。
しかし首都を離れて3年が経過し、さらにこのまま不在の状態が続くと、帝位を狙うものが現れる危険がある。
そこで疑り深いカラカラは、首都を任せていた部下に命じ、預言者に自分の未来を占わせた。
すると、カラカラと共に遠征中の近衛隊長官マクリヌスが、帝位を狙っているという結果が出た。
直ちにこの知らせが皇帝のもとに送られる。
しかしこの手紙がカラカラの目に止まることはなかった。
なぜなら彼は戦車競技に熱中していて、マクリヌス当人に届いた手紙(とそれ以外の束)に目を通すよう命じていたからだ。
この手紙をみたマクリヌスは、目を疑った。
とともに、この手紙の内容がカラカラの知るところとなれば、必ず自分は陰謀者として処刑されるだろう。
マクリヌスの腹は決まった。
やることは一つ、皇帝の暗殺である。
マクリヌスは、自分と同様に恨みを抱く近衛隊の百人隊長を仲間に引き入れ、好機が訪れるのを待つ。
217年春、ついにその時がやってきた。
ユーフラテス川上流のカルラエ(現トルコ東南部のハッラーン)に遠征中、皇帝が郊外の神殿まで参拝に出かけると言い出したのである。
カルラエは、かつて第一回三頭政治の一角クラッススがパルティア軍に大敗した場所であり、カラカラの参拝は戦死者たちに祈りを捧げる意味もあったのだ。
参拝後、カラカラは野営地へと戻る途中、不意に便意をもよおした。
さすがに皇帝の排泄を護衛が見守るわけにはいかなかったので、離れたところで待機する。
そこに例の百人隊長が忍び寄り、排泄中の皇帝の背後から、剣を突き刺したのである。
この一撃でカラカラは絶命した。
享年29歳。
217年4月8日の出来事だった。
今回のまとめ
ローマ皇帝カラカラについて、もう一度おさらいをしてみよう。
- 父はアフリカ出身初の皇帝となる、セプティミウス・セウェルス
- 一歳違いの弟ゲタとの仲が悪く、カラカラが暗殺するまで兄弟喧嘩が絶えなかった
- 兵士を厚遇し、また兵士たちと辛苦をともにすることで、軍隊から人気があった
- 皇帝を揶揄する風刺を許すことができない、心の狭い一面も持っていた
カラカラ以前にも暴君と呼ばれる皇帝は存在したが、カラカラほど反抗しない(できない)一般市民を虐殺した皇帝も珍しい。
歴代の皇帝たちが目をつむってきたことでも、弟やコンプレックスに言及されると反応せずにはいられないほど、心に暗く大きなものが刻まれていたのだろう。