ドミティアヌスと娯楽
ドミティアヌスは、市民へ娯楽の提供を熱心に行った皇帝でもあった。
それは彼自身が娯楽好きという面もあると思われる。
ではドミティアヌスはどのような娯楽を提供したのだろう。
戦車競走への熱狂
ドミティアヌスは大の戦車競走ファンだった。
戦車競走はローマの娯楽の一つで、「パンとサーカス」の言葉で有名なサーカスとは、戦車競走のキクルスのことを指す。
ドミティアヌスの治世下で、戦車競走は頻繁に行われた。
戦車競走のチームは、赤・白・青・緑の色で表される。
ちなみに彼の贔屓にするチームは緑だったらしい。
また、ドミティアヌスは戦車競走好きが高じて、もう2つのチーム(紫、黄金)を加えた。
ただしこの2チームは後に消滅したようだが。
古代ローマの戦車競争の様子は、ハリウッド映画の大作『ベン・ハー 』で詳しく描写されているので、興味のある方はご覧いただくといいだろう。
ただし『ベン・ハー』で描かれている戦車競走には、虚構が混じっている。
もしあなたが戦車競走の実像について知りたければ、古代ローマの戦車競走 ―興奮と熱狂に包まれた、昔のF1レース―をご参考いただければ幸いだ。
剣闘士競技の新趣向
ローマで人気のあった大衆娯楽の一つが剣闘士競技である。
歴代の皇帝たちも、ローマ市民の人気を得るために剣闘士競技を開催したが、ドミティアヌスも例にもれず市民たちを喜ばせた。
のみならす、彼は剣闘士競技に新しい趣向を凝らす。
まずは剣闘士競技のナイター試合。
また、女性剣闘士を戦わせることや、小人(おそらく身体障害で成長不良の人々)剣闘士同士を戦わせたりしたという。
その他、次のような娯楽も提供している。
- 歩兵と騎兵の模擬戦争
- 模擬海戦(ナウマキア)
- 女性の徒競走
- 芸術コンテスト大会である『カピトリウム祭 』
など。
ドミティアヌスが提供する娯楽に対し、市民たちは感謝の意味を込めて自発的に『ドミヌス(主人)』と呼び、ドミティアヌスも悪く思っていなかったのか、呼ぶに任せていたらしい。
実はドミティアヌス以前から皇帝たちに『ドミヌス』という呼び名を使用していたようだが、歴代の皇帝たちは「市民たちの第一人者」、つまり自分と市民は同じだという建前を保つため、この呼び名を禁止していた。
とはいえ、のちのトラヤヌス帝に対しても使われているので、ドミヌス自体は皇帝の尊称として定着していったようである。
ただし、ドミティアヌスは公文書に自分のことを「ドミヌス・エト・デウス(主君にして神)」と表記させたらしい。
皇帝は死んでから神となることはあっても、生前は人として生きている。
それを公然と「神」と言ってのけたのだから、人々から反発を招いても不思議ではないだろう。
ドミティアヌス、猜疑心を募らせる
高地ゲルマニアの反乱
89年の年明け早々、高地ゲルマニアでこの地を治めていた総督の反乱が起こった。
彼が実際何を思って反乱を指導したのかは分からない。
私は88年までに行ったドミティアヌスの対外、特にゲルマン人やダキア人に対する弱気の対応が起因しているのではないかと思うが、真相は藪の中だ。
この反乱自体は隣の低地ゲルマニアなどから派遣された軍団によって、あっけなく壊滅した。
しかし戦争費用の捻出で見たように、兵士の給料をアップし、補助兵の市民権獲得対象を拡大するなど、軍への待遇を改善したドミティアヌスにとって、強烈な手のひら返しをされた思いだったろう。
古代ローマ時代の伝記作家スエトニウスによると、この事件以降、ドミティアヌスの態度が変わったと書いている。
大逆罪で次々と告発
ドミティアヌスは、高地ゲルマニアの反乱が恐怖政治の契機だと言わんばかりに、有力者たちを大逆罪で次々と処刑する。
ある元老院議員は、かつてローマの敵だったカルタゴの将軍ハンニバルとマゴという名前を名付けたため、愛国心を疑われて処刑された。
またある議員は、ネロの友人であり、のちに反乱を起こして皇帝となったオトの誕生日を祝ったというだけで処刑された。
オトはたまたま彼の父方の伯父だっただけなのに、である。
さらに93年、恐怖政治の象徴として皇帝の汚名を著しく高めた裁判がある。
近衛兵たちに議場を取り巻かせて威嚇し、元老院議員4名と女性3名に死刑、もしくは追放刑を下したものだ。
彼らの罪名は何か。
それはネロ帝やウェスパシアヌス帝の時代に、体制批判で断罪された人物への賞賛をしたという理由での、またしても大逆罪だった。
しかしこのような行為は皇帝と元老院議員たちとの溝を深め、ドミティアヌスをますます孤独へと追い立てることになるのである。
スエトニウスによると、彼はこう嘆いていたという。
皇帝の境遇は哀れなもの。陰謀を発見しても、殺されなければ、信じてもらえない
さらにドミティアヌスの恐怖政治を象徴する逸話に、「黒い饗宴」のエピソードがある。
饗宴とはローマの富裕層たちが催した豪華な食事会のこと。
饗宴についての詳しいことは、ケーナでの晩餐について―ローマの上流階級は本当に自堕落な食生活だったのか―に譲るので、興味のある方はご覧いただければと思う。
ドミティアヌスは壁や天井、床や家具調度、さらに食事用のベッドまでも黒で塗った部屋に、夜、議員と騎士身分の有力者を招待した。
照明といえば墓場に吊るすランプ。
招待された客は席順が決められており、席札は自分の名が刻まれた墓石。
この饗宴では、頭から爪先まで真っ黒に塗られた裸の少年たちが給士を務めており、彼らが運んでくる料理は葬儀用の供物だった。
もちろん料理も食器も、全て真っ黒。
装飾だけでも怖気がする気味の悪さなのに、招待客に話すドミティアヌスの話題は、すべて“死”や“虐殺”をテーマとしたものばかり。
これを何時間にも渡って聞かされるのだから、招待された方はたまったものではなかった。
ようやく『黒い饗宴』がお開きになって、客たちがほっと胸をなでおろしたのもつかの間、今度は彼らが一人ずつ(妻帯はもちろん禁止されていたので)、自分ではなく皇帝の用意した奴隷に運ばせる輿に乗って帰宅させられる。
おそらくこの輿は、どこか分からぬところへ連れて行かれ、行方知れずにした上で殺されると誰もが覚悟したが、無事に帰宅することができた。
しかし話は続く。
彼らは安堵感と開放感を味わったその時、皇帝の使者が来訪したのである。
今度こそ死を宣告される覚悟を決めた彼らだが、使者は銀色に塗りなおさた自分の名が刻まれた墓石と、最高級の食材が盛り付けされた料理を届けにきただけだった。
『黒い饗宴』のエピソードのように、ドミティアヌスは天国と地獄を何度も味あわせ、それを見て楽しむという冗談が好きだった。
また、処刑を決めたものに対し、はじめは優しく接してから有頂天にさせた後、死刑を宣告して奈落の底へと突き落としいたという。
ドミティアヌスの、この屈折した行動は、周りのものからすれば迷惑以外の何物でもなかった。
ドミティアヌスの最期
ドミティアヌスが関わったとされるローマの建造物は、ローマ帝国愚帝物語 によると、53件にもおよぶという。
その中に、パラティヌス丘に立つ皇帝の住居、ドムス・フラウィアやドムス・アウグスターナがある。
彼が皇帝の住居を宮殿にふさわしい豪華な広さと外観へと変貌させたのである。
その理由は、ドミティアヌスの時代にはすでに皇帝付きの官僚たちや、侍従の規模が大きくなっていたことが挙げられるだろう。
この宮殿内で、ドミティアヌスの暗殺計画が練られ、実行に移された。
ただし、ドミティアヌスは猜疑心が強いため、常に警戒しており、簡単にことを成功させることはできない。
ドミティアヌスの散歩コースには、柱廊の壁に鏡状の大理石を使用し、暗殺者の接近がすぐにわかるようになっていたという。
また占星術師による占いの結果、ドミティアヌスは午前中に死ぬと予言されたため、彼はその時間を特に警戒していた。
ではドミティアヌスの暗殺はいかに行われたのか。
答えは、帝室付きの使用人が暗殺者として選ばれたのだ。
彼ら廷臣は、皇帝と常にともに過ごすので、近づくチャンスが十分にあったのである。
また、ドミティアヌスは帝室付きの解放奴隷を直前に死に追いやり、宮廷内からも孤立していたのだった。
こうして選ばれたのは、ドミティアヌスの姪ドミティラの家令(執事)であるステファヌス。
彼は怪我を装って左手に包帯を巻き、その中に短剣を忍ばせた。
そして密告と偽ってまんまとドミティアヌスの寝室に招き入れられると、隠し持った短剣を抜き放ってドミティアヌスの陰部に突き刺したのだ。
それでもドミティアヌスは応戦の構えを見せ、少年奴隷に枕元の剣を取るよう命じたが、すでに刀身は鞘から抜き取られていた。
さらになだれ込んできた侍従らに、計7ヶ所の傷を負わされたドミティアヌスは、ついに絶命した。
96年9月18日のことだった。
享年44歳。
晩年の恐怖政治に肝を冷やしていた元老院議員たちは、ただちにドミティアヌスをダムナティオ・メモリアエ(記憶の断罪刑)とし、公の記録から抹消した。
その結果、同時代の歴史家タキトゥスやプリニウスの酷評のみが伝わり、彼は暴君としての側面しか記録に残らない結果となってしまったのであった。
今回のまとめ
それではドミティアヌスについて、もう一度おさらいしよう。
- フラウィウス朝3代目皇帝だが、父や兄のような軍事的功績はなかった
- 風紀が乱れきったローマでのモラルの対応や大逆罪など、法を厳しく適用した
- ただし自分のことになると、法の適用基準が甘くなり、他人にはダブルスタンダードに映った
- 貨幣改悪や市民権の付与拡大までした軍に、反乱を起こされてしまった
- 大逆罪や自らの趣向で議員や有力者を震え上がらせたが、暗殺に踏み切ったのは恨みを募らせた宮廷の人間だった
ドミティアヌスは、偉大な父や名君の名声高い兄を越えようと、皇帝稼業に真面目に取り組んだ人間だったが、あまりにも真面目に取り組みすぎたため、融通が効かず、元老院や宮廷内の人間から反発を招いてしまった。
しかし同時にドミティアヌスは、リメス・ゲルマニクスの建設など、ローマ帝国に必要な事業に一定の成果ものこしているのだ。
のちの皇帝、トラヤヌスはドミティアヌスをこう評したという。
ドミティアヌスは最悪の君主だったが、良き友人に恵まれた
彼は結局、初代アウグストゥスの創設した「市民の第一人者」、つまりおなじ市民でありながら、トップに君臨し権力を行使するという高度な「偽善」を実践しきれず、破滅を招いたのではないだろうか。
古代ローマライブラリーの記事、
とても楽しく読ませていただきました。
古代ローマの新しい一面が
発見でき、大変面白かったです。
※ ドミティアヌス ―ローマ法を尊重しすぎた生真面目な暴君―の記事で、
伯父サビヌスの計らいで危機一髪の命拾いをするの章で[残念なことに、この事件で兄サビヌスは]、と書かれていましたが
叔父ザビヌスと書いた方が良いのでは・・・
フェリクスさま
当サイト、古代ローマライブラリーの記事をお読みいただき
ありがとうございます!
また、「面白い」とおっしゃっていただけて、
嬉しい限りです・・・!
これからも記事を更新していく予定なので、
また遊びに来てくださいね。
>叔父ザビヌスと書いた方が良いのでは・・・
当該部分を読み返してみましたが、
確かに「誰から見た〇〇」の関係性が、
かえってわかりにくいですね・・・
貴重なご意見ありがとうございます!
これからもお気づきの事があれば、
コメントお待ちしております。
こちらこそありがとうございます。
また、新しい記事を楽しみにしております。
※ところで、フェリクスには古代ローマ
では(英語でいえばラッキー)という意味が
あるそうです(笑)
ー[奴隷のしつけ方、第I章、奴隷の買い方]
より
フェリクスさま
>※ところで、フェリクスには古代ローマ
では(英語でいえばラッキー)という意味が
あるそうです(笑)
たしか共和制末期の政治家スッラも
名前に「フェリクス(felix)」とついていますよね。
そういえば漫画「プリニウス」の
登場人物の一人にも、。
「フェリクス」という名前の人がいたような・・・。
コメントありがとうございました!
ー名もなき司書官さま
こんにちは、フェリクスです。
前回の返信で 〉そういえば漫画
「プリニウス」の登場人物の一人にも、「フェリクス」という名前の人がいたような・・・ とご指摘(笑)
がありましたが、その通りです(笑)。
名もなき司書官さまも「プリニウス」を読んでらしている(?)と思い
この名前を付けてみました。
ところで、私フェリクスがこの
サイトを始めて拝見したのは
古代ローマの奴隷 ―高度な専門知識を持つものも存在した、社会の基盤を支える労働力―でした。この記事で古代ローマへの興味が大変かき立てられました。(続)
ー長文失礼いたします
フェリクスです。
前回の投稿の通り、名もなき司書官さまの
記事ー古代ローマを楽しく知るために、おすすめする本ーで紹介されていた
ー奴隷のしつけ方ーを購入するに至りました。(&続編の古代ローマ貴族9つの習慣も購入しました)
その本の中から興味深いと感じた箇所が
あり今回報告させていただきます。
ー奴隷のしつけ方ー第X章でクラウディウス帝の側近である解放奴隷のパッラスが
皇帝の為に法案を考えただけで高額の
報償金と法務官の肩書を元老院から提示
されたとあり、(結局報償金は辞退しましたが)それだけではなく、なんとパッラスは
およそ3億セステルティウスの資産を持ち、弟のフェリクス(私とは別人の笑)は
ユダヤ属州総督になり傍若無人の振る舞いをした、と書いてありました。
それだけでも凄いのですが、私が一番驚いたのはパッラスの資産額です。
ーローマ貴族の9つの習慣ーに有名人
マルクス・リキニウス・クラッススの
総資産が2億セステルティウスと書かれていましたが、パッラスの資産額はあの
クラッススを超えていた事に大変驚きました。
(物価の変動などもあるでしょうが・・・)
つい、長くなりましたが、フェリクスから
名もなき司書官さまへの報告とさせて頂きます(^^)
フェリクスさま
ご返信ありがとうございます!
お名前の由来は『プリニウス』からでしたか。
かの漫画に登場するフェリクス氏も魅力あるキャラクターですよね。
普段はコミカルなのに、やるときはやる(主に格闘で)男。
でも「総督」プリニウスに振り回されるという・・・。
また、ご報告もいただき、ありがとうございました。
「奴隷のしつけ方」、
古代ローマ人が著者の体裁を取る形で書かれいて、
あの時代の考え方を感じられる本としても珍しい。
そして、そのような体裁で書ける
著者の裏打ちされた古代ローマ知識に舌を巻く本ですね。
クラウディウス帝の側近パッラスについては、
どこかの本で権勢を誇っていたことを読んだことがあったのですが、
そんなに資産があったのは初耳でした!
パッラスに追い抜かれたクラッススだけど、
彼のお金に纏わる話で度肝を抜かれるのは、
スパルタクスの乱でのことでしょうか。
六個軍団を私費(!)で編成するというトンデモを
サラリとやってのけるのが、豪胆というか、
お金の使い方をわかっているというか。
1軍団5,000人としても、
単純計算で30,000人のお給金を自腹で出すって・・・。
さらに彼らの装備
(この頃国家から支給されているけど、私費編成だから、多分自腹)
を考えると、一体いくら必要だったんだろうな、と。
ポンペイウスもスッラのもとに駆けつける時
三個軍団を同じく私費で編成しているので、
あの時代の人たちのお金の使い方は、まさに桁違いです。
・・・ずいぶん横道にそれちゃいましたが、
「奴隷のしつけ方」面白いですよね、と言いたかっただけです(笑)
「古代ローマ貴族9つの習慣」は恥ずかしながら未読ですので、
今度読んでみたいと思います。
本の紹介(?)もありがとうございました!
面白かったら、おすすめ本に付け加えさせていただきます(笑)
名もなき司書官さま
フェリクスです。
長文のコメントに、丁寧な返信を
していただき本当にありがとうございます。
前回も書きましたが、私は古代ローマと奴隷
(解放奴隷)との関係に大変興味があるので
いつか、解放奴隷の記述などを書いて
いただけると大変嬉しいです( ^ω^ )
名もなき司書官さまも書かれている様に
クラッススのお金に纏わる話は私も
度肝を抜かれました。(笑)
※クラッススはかなりアコギな不動産業で
ローマの土地の大部分を所有するように
なったと「ローマ貴族の9つの習慣」に書いてありました(( ・∇・))!!
話が逸れましたが、これからも
古代ローマライブラリーを楽しみにしております。
※ところで次回のコメントなどは
ーお問い合わせーからの方で大丈夫でしょうか?
フェリクスさま
解放奴隷については私も興味があるので、
心性も含め、いつか記事を書いてみたいですね。
お待たせすることになるかもしれませんが、
首をキリンぐらい長くしてお待ちいただけますでしょうか(笑)
コメントについては
お問い合わせで直接送っていただいても
問題ないです!
Twitterをされているようでしたら、
そちらのアカウントから
DMなど入れていただいても大丈夫です。
もちろんどこかの記事にコメントいただけるのも
嬉しいです(笑)
なんでも結構なので、お好きな方法で
お送りくださいね。