ヘリオガバルス(またはエラガバルス)という皇帝を、あなたはご存知だろうか。
当時でも、性の倒錯や奇妙な言動が目立ったため、伝記史家に、
もしカリグラやネロ、ウティリウスが以前に帝位に就いていなければ、(中略)私は彼(ヘリオガバルス)の伝記を文字にしなかったであろう
とまで言わしめた人物だ。
ではなぜヘリオガバルスは、ローマ皇帝としてふさわしくない(と考えられる)行動をとっていたのだろうか。
その理由には、彼の出自と皇帝就任の経緯や年齢が関係していたのである。
そこで今回は、ローマ皇帝の中でも異色の人物、ヘリオガバルスの生涯を見ていこう。
※タイトル下イメージは、「ダークヒストリー3 図説ローマ皇帝史 」より拝借しました。
皇帝ヘリオガバルス誕生!
マクリヌスの誤算
218年6月8日、皇帝マクリヌスは惨めな姿で帝国の東方を落ちのびていた。
わずか十数日前、反乱軍によって皇帝に擁立された人物はまだ15歳であり、こんな年端もいかない若造の率いる軍に自分が負けるなど、想像もしていなかったに違いない。
一体なぜマクリヌスは、このような運命をたどることになったのか。
そこには少年ヘリオガバルスを皇帝に仕立て上げるための、祖母ユリア・マエサのしたたかな作戦があったのである。
ヘリオガバルスの家系
マクリヌスの敗走から遡ること15年前の203年3月20日、ヘリオガバルスはシリアのエメサ(現ホムス)で生まれた。
ヘリオガバルスの本名は、ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス。
バッシアヌス家は、シリアの土着神ヘリオガバルスに代々仕える祭司を出す家柄だ。
ヘリオガバルスの祖母ユリア・マエサの父、つまりウァリウスからすれば曽祖父のユリウスは祭司長を務めた人物である。
ウァリウスが皇帝となってから、ヘリオガバルス(またはエラガバルス)とあだ名される由来は、この神の名前にあった。
ここでヘリオガバルス神について触れておこう。
ヘリオガバルス神は、ローマ帝国東方の太陽信仰から派生した神である。
「エル」と「バアル」という共に神の名を表す言葉を合わせて、「エル=ガバル」と呼ばれるようになった。
さて、太陽信仰はローマにもともとあり、「ソル神」が古くから崇められていた。
65年、ローマ皇帝ネロは、大陰謀を未然に防ぐことができたとして、特別に感謝を捧げているし、自分に似せたソル神の巨像を建立している(後にこの像の近くにコロッセオが建てられた)。
しかし太陽信仰は、徐々に東方由来の神へと代わっていく。
この太陽神こそ「不敗太陽神(ソル・インウィクトゥス)」。
夜、闇に屈しても朝には必ず復活し勝利する、不屈にして不敗の神というわけだ。
この神の性質から、不敗太陽神は皇帝や兵士たちに人気があった。
ただし、太陽信仰のなかでもヘリオガバルスは地元のマイナー神。
女人禁制で、兵士の心をつかんだペルシアの太陽神を奉じるミトラ教が、当時は超メジャーの神だった。
首都ローマの玄関港オスティア・アンティカにも、ミトラ神を祀る地下神殿の遺構があることで、当時の普及度合いがわかるだろう。
バッシアヌス家が脚光を浴びるようになったきっかけは、ヘリオガバルスの祖母であり、ユリア・マエサの姉ユリア・ドムナの結婚相手セプティミウス・セウェルスが皇帝になったことだ。
さらにユリア・ドムナは、息子カラカラも皇帝となったことで皇太后となり、ローマの中央政界に大きな影響を及ぼす存在となった。
一方妹のユリア・マエサも、ある元老院議員と結婚し二人の娘を生んだが、夫に先立たれたため地元のエメサに戻っていた。
皇帝一家とその親類として、輝かしい運命が約束されるかと思いきや、217年にカラカラが暗殺されたことで暗転する。
皇帝位を奪ったマクリヌスによって、ユリア・ドムナは追放を言い渡されたが、重い病を患っていた彼女は拒否し、絶食によって自ら命を絶ってしまう。
ユリア・ドムナの死により、セウェルス朝とバッシアヌス家の命運着きたかに思われたが、ユリア・マエサは諦めなかった。
なぜなら、皇帝マクリヌスの犯した失策によって、不満の声が上がっていたのである。
皇帝マクリヌスの失策
ではマクリヌスはどんな失策を犯したのだろうか。
彼には前皇帝カラカラが残した、大きなツケがあった。
それが次の2つ。
- パルティア遠征の終結
- 兵士たちの給料アップによる財政悪化の解消
この問題に、マクリヌスは対処方法を誤ってしまったのである。
パルティア遠征の終結
パルティアの王位争いに介入し、国境を侵したカラカラによって、ローマ帝国はパルティアと戦争状態になっていた。
一刻も早くこの戦争を終わりたかったマクリヌスは、一度戦ってみたものの破れたため、講和の道を選ぶことにした。
しかしマクリヌスのとった方法は、パルティアに2億セステルティウス相当(現代日本に換算すると800億円程度)の金品を贈って「終わらせてもらう」という、屈辱的な内容。
ローマ軍の兵士たちは、マクリヌスの弱腰な態度に怒りを覚えた。
兵士たちの給料アップによる財政悪化の解消
カラカラが行った兵士たちへの給料アップは、ローマ帝国の財政を大きく悪化させていた。
マクリヌスは財政再建のため、兵士たちの給料減額を行う。
一方で彼自身は、自分の身を削らず豪華な生活を続ける生活。
兵士にだけ痛みを与えるマクリヌスのやり方に、兵士たちは不満をつのらせていく。
上記に加え、首都ローマではカラカラ以来皇帝不在が続いており、それに対する怒りが高まっていた。
そこへ雷による火災と洪水が同時に発生し、ローマは大混乱に陥ったため、問題に対処できなかった皇帝として、マクリヌスはますます評判を落とすことになったのである。
ヘリオガバルス、カラカラの子になる?
セウェルス朝の復権と帝位奪回を虎視眈々と狙っていたユリア・マエサは、このチャンスを逃さなかった。
彼女は孫ウァリウスをカラカラの「正当な」後継者とするため、カラカラから見れば「母の妹の孫」でしかないウァリウスを、カラカラと間違いを犯した娘が産み落とした、カラカラの「実の息子」に仕立て上げたのだ。
もちろんこの話はユリア・マエサのでっち上げた作り話でしかなかった。
しかし不満を募らせた兵士たちにとっては、マクリヌスが皇帝を追われる口実なら何でもよかったのである。
こうして218年5月16日深夜、たまたまエメサに近い場所で駐屯していた第3ガリカ軍団の陣営に、ユリア・マエサたち首謀者は潜入。
「カラカラのご落胤」説を押し出し兵たちを扇動すると、明け方にはウァリウスが皇帝に擁立されたのである。
マクリヌスの反乱軍が誕生した瞬間だった。
歴代最年少皇帝の誕生
慌てたマクリヌスは反乱鎮圧のために軍を派遣するが、逆に戦う前からマクリヌス軍は兵士たちの裏切りにあって、指揮官が殺害される始末。
それとは対象的に、少年を擁立した反乱軍は、彼の教師である宦官(男性器を切り取り去勢した人)ガンニュスに率いられ、ますます勢力を増していく。
そして6月8日、マクリヌスは反乱軍と戦ったものの敗れてしまい、伝令の姿に変装して逃亡を図るが、結局カッパドキアで見つかり処刑されてしまう。
享年53歳。
またパルティアに逃れていた彼の息子も、パルティアから送り返されて同じく処刑された。
ついにウァリウスことヘリオガバルスは、歴代最年少皇帝としてローマ帝国単独の支配者となったのだった。
ヘリオガバルス、ローマへ向かう
新皇帝となったヘリオガバルスとその一行は、早速首都ローマへと向けて旅立った。
しかし彼らは218年の6月にマクリヌスを倒してからローマに到着するまで、1年以上も費やしている。
もちろん車も列車も、ましてや飛行機もなかった時代なので、時間がかかるのは当然だが、それにしてもシリアからローマの旅程にしては遅すぎた。
一体なぜそんなに時間がかかったのか。
マクリヌス派と側近の粛清
理由の一つは、マクリヌス派などの処分を行ったからである。
ヘリオガバルスは、敵対した総督たちの更迭や処刑を次々に実行。
また教師役でもあり、反乱軍を率いたガンニュスも処刑した。
彼はヘリオガバルス帝の影の仕立て人として、第一の功労者と言っても過言ではない。
史書には、ヘリオガバルスの皇帝にあるまじき行いを見かねて口を出し、ヘリオガバルスの怒りを買ったために殺されたとある。
もちろんこの理由も処刑の一つにはあるだろう。
しかし真の理由は別の理由だと思われる。
すなわち、「カラカラの子供」を思いついたガンニュスから、真実が漏れる可能性を危惧した皇帝の祖母ユリア・マエサや母ユリア・ソアエミアスによって、口封じのために粛清されたのだ、と。
ヘリオガバルスはまだ15歳の少年であり、独断で判断するには若すぎる。
おそらく彼女たちが裏で糸を引き、粛清したのではないか。
御神体との旅路
理由の2つ目が、皇帝のヘリオガバルス神宣伝と、御神体の移動である。
ヘリオガバルスは祖母や母によって、ヘリオガバルスの曽祖父と同じく、皇帝になる以前から祭司職に就いていた。
彼は皇帝になっても祭司職をまっとうすることにこだわるのである。
その一環として、彼がローマへの途上で立ち寄る都市ごとに、ヘリオガバルスの神殿ヘリオガバリウムを建立していく。
また地元のシリアから、ヘリオガバルス神の御神体である巨大な隕石を、はるばるローマまで運ばせていたのである。
神殿に鎮座していた巨大な隕石を運んでいては、ローマへの旅程が遅れるわけだ。
祭司姿でのローマ行
さらに御神体を運ばせていた彼の格好も、次のようなシリアでの祭司然としたものだった。
- 足元まで届く長袖の、金と紫の絹の服
- ネックレスや腕輪などの装飾具
- 頭部の宝冠
これでは皇帝というよりも、神官が各地を巡幸しているようなものだ。
長衣を身にまとい、宝石を散りばめたヘリオガバルスの格好は、ローマでは女装とみなされてしまう。
ようするに、皇帝としてナメられてしまうのである。
ローマの上流階級での生活を経験したエメサは、ヘリオガバルスに皇帝らしく振る舞うよう忠告したが、ヘリオガバルスは祖母の言うことなど聞く気などなかった。
彼はまだ15歳、反抗期真っ盛りの少年である。
地元シリアの祭司が誇らしく、首都ローマの人間に見せつけてやりたいという思いがあったに違いない。
その証拠に、ヘリオガバルスは祭司服を身にまとった自分と太陽神の肖像を首都ローマに送り、元老院の議場に掲げさせたという。
自分のことを知らぬなら、知らしめてやろうという、彼なりの心意気なのかもしれない。
しかしこの行いは、元老院にも皇帝擁立に貢献した兵士たちにも、違和感を植え付ける結果となってしまったのである。