ローマの単独支配者となったアウグストゥスの権力を支えるもの。
その一つがローマ市民からの人気と信頼である。
彼らの支持なくしては、最高指導者として君臨することはできなかったし、アウグストゥスは、帝国の頂点に立つパトロヌス(庇護者)として、彼らの面倒をみる義務があった。
この義務の最たるものが、食の確保と娯楽の提供である。
また市民とともにローマの人口の多数を占めていたのが、各地から連れてこられた奴隷だ。
彼らは当時、イタリアの人口の3分の1もいたという。
ではアウグストゥスは、市民と奴隷への配慮をどのように行ったのだろうか。
食料の確保と配給制度
ローマ人は元々農耕民族であり、小麦などの穀物を栽培していた。
しかしローマの領土が拡大すると、シチリアや北アフリカ、そしてエジプトから安価な穀物が輸入できるようになると、イタリアで作っていた穀物は価格競争に勝てなくなる。
そして栽培する農作物も、オリーブやぶどうなどの高級な果樹へと変化した。
そうなるとローマの人口が急激に増加したこともあり、イタリアではローマの胃袋をまかないきれない。
結果的に食料は海外や属州からの輸入に頼らざるを得なくなったのだ。
この結果、一度食料飢饉が起これば市民たちの暴動が起こり、指導層や皇帝への信頼がなくなってしまう。
アウグストゥスは41年の治世のなかで、計7回の飢饉にあっている。
この中でも特にひどかったのは、前23年と後6年の飢饉だった。
アウグストゥスは、ローマ市民への食糧供給に対して、細やかな配慮を要求されたのである。
食糧供給のための配慮(クーラ・アノーナエ)
前23年、ローマを暴風雨が襲い、ティベリス川が氾濫したために飢饉に見舞われた。
このときローマ市民たちは、元老院が手をこまねいているのを見て、アウグストゥスに独裁官就任と、「食糧を安定した廉価な価格で提供できる配慮(クーラ・アノーナエ)」を要求する。
元老院との協調を目指すアウグストゥスは、内乱時に廃止された「独裁官」という非常時の役職に就くことは拒否し、クーラ・アノーナエのみを引き受けた。
アウグストゥスは私費で食糧を購入し、市民25万人に対して計12回食糧を配給。
またティベリウス(後の二代目皇帝)をオスティア管轄の財務官に任命し、食糧危機を緩和させている。
無料配給人口の削減
食糧の安定供給とともにアウグストゥスを悩ませたのが、グラックス兄弟の改革以来続いている福祉政策である無産市民への配給だ。
人口増加に伴い増えていく一方の配給(アウグストゥスの時代は無料)は、国家の財政を圧迫しかねないばかりか、彼らへの食糧確保の必要もあったのだ。
前2年、アウグストゥスは無料配給の対象を25万人から20万人に削減している。
おそらくこれは、国家財政の負担緩和だろう。
しかし市民たちには不評で、彼らはアウグストゥスに対して護民官たちを派遣し、協議させている。
アウグストゥスは民会に出席すると、彼らの要求について直接議論をかわした。
結局一人当たり240セステルティウスを賜金を配ることで、市民たちを納得させたらしい。
穀物長官ポストの創設
そして後6年、今度はローマに地震と洪水が襲いかかる。
このときアウグストゥスが行った処置は、次のとおり。
- 特定の外国人を、ローマ市から約160km以上離れたところに追放
- 皇帝と高官たちに仕える者の大部分を解雇
- 元老院議員がローマ市を離れることを許可
- 式典費用の削減と、穀物支給量を倍増し配給
さらにアウグストゥスは穀物長官という、食糧の安定供給を担当するポストを創設した。
このとき創設された穀物長官が、具体的にどのようなことをしたのかが伝わってはいない。
ただし、いままでポケットマネーを使った配給に限っていたアウグストゥスが、生産から調達、輸入という流通経路の整備にまで乗り出したのである。
アウグストゥスは、ミセヌム(イタリア西海岸)と・ラウェンナ(イタリア東海岸)に艦隊を配置して海賊から(穀物輸送用の)商船を守るとともに、プテオリの港を拡張し、さらにオスティア(ローマ近郊)の港の拡張を計画した。
そしてアレクサンドリアとプテオリ間を往復する商船に対して、賜金を与える恩恵を出して、優遇措置をとったのだ。
なぜならローマには国有の輸送船などはなく、穀物の輸入はもっぱら商船だのみだったからである。
穀物長官のポストは、次の代の皇帝にも引き継がれていくことになった。
参考 ユリウス・クラウディウス朝における穀物政策とアリメンタPDF
娯楽の提供
市民に支持される上で人気を保つことは皇帝として重要であり、この人気を得るためには娯楽を与えることが有効だった。
では市民たちに与える娯楽とは何か。
それは開催にとてもお金がかかること、具体的にいうと次のようなものである。
- 剣闘士の試合
- 戦車競技
- 演劇や舞踏ショー
現代で言えば、野球やサッカーなどのスポーツ興行、競馬、そして映画や舞台のお芝居を国が無料で提供してくれると考えればいいだろう。
これらは年間の祝日に行われていたが、剣闘士の試合は非常にお金がかかるため、12月の6~10日間と、3月の4日間に限って資金を提供した。
それ以外は戦車競技や演劇などが開催された。
特別なイベントでの娯楽提供
上記の年間行事とは別に、建物の竣工記念などでより盛大な娯楽が開かれることがあった。
例えば、前2年のマルス・ウルトル神殿とアウグストゥスの広場が公開されたことを記念して行われた催しがある。
このとき行われた催し物は、次のようなものだった。
- 36頭のワニの殺戮ショーを含む剣闘士の試合
- 「ペルシア人」と「アテナイ人」に別れて戦う模擬海戦
特に模擬海戦は規模が大きく、次のような内容である。
- ティベリス川のそばに、550mと360mの楕円形の人工池を作る
- その池に上水道から水を引く
- 衝角(追突用の船の先端)を備えた三段櫂船と二段櫂船30隻が、多数の小舟を従えて戦う
- 漕ぎての他に参加した兵士(大抵は罪人や奴隷)は3,000人
この内容を見るだけでも、恐ろしいほどの規模だということがわかるだろう。
しかも模擬海戦といえども、本当の戦を再現した殺し合いのため、数多くの人の血が流れたのである。
しかし市民たちは、皇帝が提供したこのような催し物に熱中し、皇帝は市民たちの人気を獲得したのだった。
奴隷対策
アウグストゥスが、市民とともに対策しなければならないのが、奴隷である。
古代ローマは奴隷社会であり、戦争などで得た捕虜を奴隷にし、ローマ社会に組み込むことは、古来から行われていた。
しかし、アウグストゥスの時代までに、ローマは領土拡張の戦争をし、それに伴って流入する奴隷の数は増え続け、数百万もの奴隷が存在していたのだ。
奴隷といっても、ローマではギリシアとちがい、末代まで奴隷としてすごすわけではなく、主人から解放されると解放奴隷としてローマ市民権を得ることもできた。
しかし奴隷の数が増えてしまったために、ローマの民衆は解放奴隷が多すぎると感じていたこと、またローマ市民と従属民族の間の明確な区別を保ちたいという希望を持っていた。
アウグストゥスの妻であるリウィアは、あるとき納税義務のあるガリア人召使いに市民権を与えてほしいとアウグストゥスに頼んだことがあった。
しかしアウグストゥスは、次のように言って断ったという。
ローマの市民権の価値を下げるよりも、国庫の収入が減るほうがましだ
本音では市民権を与えることに賛成でも、民衆の不安を鎮めるためのものだったらしい。
そこでアウグストゥスは、奴隷に対して次のような処置を行った。
簡易解放によるラテン市民権の付与
正式な解放には時間がかかるので、奴隷の主人は口頭や簡単な書面で簡易的に解放をすることができた。
しかしこの方法では奴隷に市民権が与えられていなかったため、前17年、ユリウス法で非公式の解放にもラテン市民権(投票権のない市民権)が付与されることになった。
奴隷解放の数と年齢の制限
ローマ市民権の価値低下と、解放奴隷の増えすぎに対応するため、「フフィウス・カニニウス法」、「アエリウス・センティウス法」によって、次のことが定められた。
- 奴隷所有者が遺言で解放できる奴隷の数の制限(所有人数によって割合が決まる)
- 奴隷所有者と解放される奴隷の年齢制限(前者は20歳以上、後者は30歳以上)
これらはあくまで奴隷の解放を規制するもので、奴隷解放そのものを妨げるための目的で作られたわけではなかったのである。