オクタウィアヌスⅣ ―国家再建三人委員会結成(第2回三頭政治)から、フィリッピの戦いまで―

オクタウィアヌス カエサルの遺志を継ぐ青年

オクタウィアヌスは兵を募ってローマに進軍し、クーデターを図るが失敗。
一方のアントニウスは、絶好の機会とばかりにオクタウィアヌスを追い落とそうとするが、軍団兵の裏切りに会い決行できなかった。

不安定な立場のオクタウィアヌスだったが、キケロの元老院復帰で状況は一変し、公職を得て正規の軍へと昇格することができた。

一方属州の配置がえを目論むアントニウスは、カエサル暗殺者の一人であるデキムス・ブルトゥスを攻撃するも、両執政官とオクタウィアヌスの軍に阻まれて失敗し、ガリアへと退却。
そこでレピドゥスたちと無事に合流を果たしたアントニウスは、追ってきたデキムス・ブルトゥスを倒すことに成功したのだった。

オクタウィアヌス、ローマを制圧し初の執政官となる

アントニウスとの激闘で命を落とした両執政官にとっては不幸だったが、オクタウィアヌスには棚から金杯でも落ちてくるほど幸運に恵まれていると感じたに違いない。
オクタウィアヌスはこの偶然を徹底的に利用する算段を立てた。

まずオクタウィアヌスは自軍から百人隊長400人を選び出し、ローマへと派遣した。
彼らが元老院に要求した内容は、次のとおりだ。

  • 自分たち兵士に約束された報奨金を満額払うこと
  • 執政官ではなく自分たちの司令官(つまりオクタウィアヌス)を通じて払われること

上記要求にたいして、元老院の回答は「否」だった。
要求を拒否された知らせを受け、オクタウィアヌスは兵士たちを招集。
ローマへの進軍を開始した。

オクタウィアヌスの目的はなにか。
それは両執政官の死により空席となっていた、執政官職を手に入れることである。
執政官に選ばれるためには、民会での選挙が必要だった。
参政の資格は成人のローマ市民男子であること。
そしてオクタウィアヌスにはその参政権をもった人々、つまり8個軍団もの兵士たちを、元老院からの報奨金支払い要求の拒否回答で、自らの支持者へと変貌させていたのだ。

オクタウィアヌスの狙い通り、彼は無事執政官への当選を果たすことができた。
同僚執政官は、カエサルの甥で遺産相続人の一人であるクィントゥス・ペディウス。
オクタウィアヌスが「当選させた」理由は、オクタウィアヌスに逆らわない人畜無害な相棒だったからである。

20歳にも満たないオクタウィアヌスの執政官当選は、ローマにとって前代未聞のことであり、養父カエサルはもとより英雄スキピオ・アフリカヌスも、「偉大なる」ポンペイウスも成し得なかったことだった。

オクタウィアヌス、執政官の立場を利用して目的を果たす

執政官となったオクタウィアヌスは、いくつかの計画を実行に移した。

カエサルとの正式な養子縁組

オクタウィアヌスはローマに帰還したあと、カエサルとの養子縁組を果たすために手続きをする予定だったが、アントニウスによって妨害されたままだった。
この養子縁組を正式に承認するクリア法を成立させた。

すでに受け取っていた遺産をカエサルの遺言通り市民に分配し、また軍団兵にも約束していた報奨金を与えることができたのである。

カエサルの暗殺者たちに対する法的処置

オクタウィアヌスはカエサルの名前を受け継いだ当初から、カエサルを暗殺したものに対する復讐を誓っていた。
しかしオクタウィアヌスは自分の政治的な力が不足していることを実感していたので、一旦保留にしていたのだ。

執政官になった今、ついにカエサルの復讐を果たせる立場となった。
オクタウィアヌスは同僚のペティウス名義で、カエサルの殺害を犯罪とみなし、共謀者に対する法的な保護を剥奪する法案を承認させたのである。

また、この犯罪に対する特別法廷が一日だけ設置されたが、当然ながら被告人は誰も出席せず、すべて有罪との判決が下った。

アントニウスとの会合

自らの立場を明確にし、法的な裏付けをとったオクタウィアヌスは11月、11個軍団を伴ってローマから出発した。
アントニウスの討伐を掲げていたが、実際はアントニウスとの妥協をはかるためだったのである。
なぜか。

アントニウス連合軍の大きさ

まず第1に、レピドゥスら3人と合流を果たしたアントニウスは非常に強力な軍隊を持っていた。
彼らと正面からぶつかれば、たとえ勝てたとしても大きなダメージを追うことになるだろう。

ブルトゥスとカッシウスの存在

第2に、東方に逃れたカエサル暗殺の首謀者であるブルトゥスとカッシウスが、ともに独自の軍隊を集めて大きな力となりつつあることだった。
彼らと元老院内の共和政擁護派が結びつき、カエサル派が共倒れになることはなんとしても避けたかったのだ。

セクストゥス・ポンペイウスの勢力

第3の理由として、数年前カエサルに敗れてヒスパニアの奥地に潜んでいたポンペイウスの次男、セクストゥス・ポンペイウスが徐々に力を盛り返し、今では大艦隊を有する一大勢力になっていたこと。
さらに、このポンペイウスの遺児に元老院が公職を与え、ローマの正式な軍として認めてしまったのである。
セクストゥスを放置してまでアントニウスと争っている場合ではなかったのだ。


以上の理由から、オクタウィアヌスはアントニウスの力を必要としていた。
さらにオクタウィアヌスには、アントニウスに対して話し合いのテーブルにつかせるエサがあったのだ。
現役執政官の座という大きなエサが。

オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスとともに国家再建三人委員会を結成する

オクタウィアヌスとアントニウスは、ムティナとボノニアの間を流れるラティニウス川の小さな島で会談を行った。
この会談にはレピドゥスが間と取り持つ。
そこで3人は2日間にわたり、これからの事を徹底的に話し合った。

彼らの話し合った内容は、次の3つに集約される。

  1. 自分たちの権力の合法化
  2. 東方で勢力を拡大するブルトゥス・カッシウスとの戦いのための戦費調達
  3. 反対派の勢力拡大防止

この(1)について、彼らは国家の運営を正常に運営できる状態に戻す、という名目で、

国家再建三人委員会

という公職を新たに設置したのである。
私達に馴染みの深い言葉で言えば、「第2回三頭政治」と呼ばれるものだ。
国家三人委員会の内容は次の通り。

  • 法律を制定・廃止する権限を持つ
  • 公職者を指名する権限持つ
  • アントニウス、オクタウィアヌスにレピドゥスを加えた3人で運営
  • 任期は5年

国家再建三人委員会を簡単に説明すれば、アントニウスが廃止した独裁官を3人体制で行う、という内容である。
この取り決めで、オクタウィアヌスはアントニウス派の将軍に譲るため、執政官を辞めることに同意した。

3人はまず、今後の執政官や他の公職者の指名、属州総督の人選を行う。
この取り決めでアントニウス、レピドゥス、オクタウィアヌスの担当属州は次のように決まった。

アントニウス ガリア・トランサルピナを除くガリア全域
レピドゥス ガリア・トランサルピナとヒスパニア全域
オクタウィアヌス アフリカ、サルディーニャ、シチリア

ブルトゥス、カッシウスが実質支配しているアドリア海以東の地域については未定となる。

この取り決めで如実に現れたのが、オクタウィアヌスの3人の中でのポジションだ。
なぜならシチリアは後に説明するセクストゥス・ポンペイウスが居座っているので、実質的な取り分は遠いアフリカの地と制海権がないサルディーニャという、どちらもウマミのない場所だったからである。
オクタウィアヌスは、調整役のレピドゥスよりも低い立場で三人委員会を結成するしかなかったのだ。

三人委員会、公権剥奪公示をおこなう

三人委員会の他のテーマである

  • 軍資金集め
  • 反対勢力拡大阻止

について、彼らは一挙に片を付ける方法を見つけた。
それが悪名高い「公権剥奪公示」である。
公権剥奪公示は彼らの「発明」ではなく、さかのぼること40年前に時の独裁官スッラによって一度実行されている。

公権剥奪公示とは、国家に取って害悪になると判断された人物の名簿をフォルムに張り出し、名簿に名前が載ったものは、自動的に市民権と法による保護を剥奪されるものである。
とはいうものの、大抵は三人の政敵であったり金持ちがリストにあがった。
本当の目的は、政敵の一掃であり、彼らが所有する富の没収なのだ。

さらにこのリストの恐ろしいところは、公示されたものが最終的なものではなく、三人の判断によって犠牲者が書き加えられていくようになっている。
また、名簿に載ったものを三人委員会に引き渡すと報酬が与えられ、殺害したものには、所有者の財産のわけまえを得る資格が与えられたのである。

このような公権剥奪公示によって引き起こされるのは、日頃から恨みをもつ隣人や知人を彼らの政敵として売り渡す、という個人的な復讐劇である。
また財産を持つ罪のない人が、公権剥奪公示によって命を落とすこともあったという。

公権剥奪公示の結果、アントニウスにより真っ先にリストアップされたキケロをはじめ、元老院議員300名と2000名におよぶ騎士階層(経済界)の人々が犠牲になったと言われている。

しかし三人が期待した資金は、期待したほど集まらなかった。
原因は2つ。

  • 一度に多くの土地や建物が市場に出回ったことによる価格の暴落
  • 罪のない犠牲者の土地を買う罪悪感による購買の歯止め

三人委員会は43個軍団を養うために資金源を見つけなければならない。
結局税を免除されていたローマ市民たちに、新たな税が課されたのだ。

また三人委員会にリストアップされた者たちのなかにも、イタリアから逃れて身を隠すものもいた。
その避難場所の受け皿となったのが、セクストゥス・ポンペイウスである。

シチリアの雄、セクストゥス・ポンペイウス

すでに説明したように、セクストゥス・ポンペイウスは、ムンダの戦いでカエサルに破れた後、ヒスパニアで軍を集め、属州総督を相手にゲリラ戦を展開していた。
セクストゥスの軍事力を支えたのは、父グナエウス・ポンペイウスの残したヒスパニアおよび地中海沿岸都市のクリエンテスたちと、ヒスパニアでローマに抵抗していたケルト系の地元民だった。

彼らの力で徐々に勢力を拡大したセクストゥスは、紀元前44年の3月15日にカエサルが暗殺されると、一転元老院の共和政擁護派と結び、前43年には元老院から艦隊と沿岸長官に任命され、ローマの国軍となったのである。

しばらくはマッシリア(現在のマルセイユ)で過ごしていたが、三頭政治が成立すると、今度は執政官ペティウスにより、提督の任命を反故にする決定が下された。
しかしセクストゥスは艦隊を手放すことなく、シキリアの属州総督を説得して大胆にもその地に落ち着いたのである。

困ったのは三人委員会の方だ。
属州シキリア(げんざいのシチリア)は穀倉地帯であり、イタリア周辺の制海権を握る重要な要所である。
そこを抑えられるということは、喉元にナイフを突きつけられるのと同じことだった。
さらに人口が集中するローマの食料は、シチリアとエジプトなどの地中海沿岸部に頼っていたので、このままではいずれローマが食料難となるだろう。
そのセクストゥスを、三人委員会は公権剥奪公示の名簿に加えたのである。

いまやセクストゥスのもとには、公権剥奪公示の対象になったローマの有力な貴族が続々と避難していた。
セクストゥスも彼らを積極的に受け入れる。
ちなみにこの避難民のなかには、のちにオクタウィアヌスの生涯の伴侶となるリウィア・ドルシッラもいた。

オクタウィアヌスはセクストゥスを非常に警戒していた。
しかしセクストゥスに艦隊を送るも敗北を喫してしまう。
またセクストゥスのもとにカッシウスから艦隊が送られてきたため、セクストゥスの勢力は一層強化され、簡単に倒すことができなくなったのだ。

オクタウィアヌスたちは、セクストゥスの問題をひとまず放置することに決めた。
まずは東方にいるブルトゥスとカッシウスの問題にケリをつける必要がある。
なぜなら、彼らこそカエサルの暗殺を首謀した張本人であり、共和政擁護派の最後の砦だったからである。

東方でのブルトゥスとカッシウス

紀元前42年1月1日、三人委員会はカエサルを神格化することを決めた。
また、カエサルが火葬された場所に、小さな神殿の基礎が据えられた。
カエサルの誕生日は公休日とされる。
このあたり、日本の天皇に対する処遇と似ているのではないだろうか。
だが、カエサルの誕生日では祝賀が強制され、出席しない元老院やその息子には、なんと100万セステルティウスという膨大な罰金が課せられることになった。

これはカエサル派の立場を強くする、という目的が会ったのだと思う。
このカエサルの神格化で一番得をするのは、もちろんオクタウィアヌスである。
オクタウィアヌスはこの後、神の息子であるディウィ・フィリウス(Divi filius)を名乗ることとなる。

一方東方に逃れたブルトゥスとカッシウスは、その後どうなったのだろう。

ブルトゥスの活動

ブルトゥスは、アントニウスがあてがった任地には赴かず、ギリシアのアテナイに向かったことはすでに述べた。
彼はこの地で哲学に没頭していた――と思わせておき、親戚に支援をもとめ、さらにアシアとシュリア(シリア)の財務官を見つけると運んでいた税を提供させ、この資金をもって軍を増強、マケドニアの大半を手中に収めていた。

さらにイッリュリクム(現在のスロベニアとクロアチアあたり)の属州総督として赴任してきたアントニウスの弟、ガイウス・アントニウスを捕まえ、処刑してしまったのである。

ブルトゥスは前43年の2月、キケロのはからいでマケドニア、イッリュリクム、アカイヤという、バルカン半島全域の属州総督に、正式に任命されていた。

カッシウスの活動

ブルトゥスと同じく任地に赴かなかったカッシウスはシュリアに向かうと、この地に駐留していたカエサル派の6個軍団と、ポンペイウス派の1個軍団を味方につけることに成功した。
さらにエジプトから4個軍団を味方に引き入れることに成功する。
カッシウスはブルトゥス以上に、東方で一大勢力を築きつつあったのである。


オクタウィアヌスが、一方的にせよカエサルの暗殺者を犯罪者とみなし、また三人委員会によって公権剥奪公示のリストにアップされている以上、暗殺の首謀者であるブルトゥスとカッシウスの討伐にくることは、目に見えていた。
しかし彼らはどちらか一方でも、アントニウスとオクタウィアヌス連合軍と戦うには、兵力が足りない。
そこで二人は合流し、対三人委員会軍と戦うことを決める。
彼らのもとには、19個軍団とパルティアの弓兵を含む、2万の騎兵が参戦していた。

オクタウィアヌス、アントニウスとフィリッピの戦いに参戦する

三人委員会側は、ブルトゥスとカッシウス両軍との戦いのために22個軍団をギリシアへと向けた。
向かうのはアントニウスとオクタウィアヌス。
レピドゥスは背後の守備という名目で、イタリアに待機することが決まった。

一方ブルトゥス・カッシウス軍は、小アジアからマケドニアに通るエグナティウス街道を西進していた。
実は彼らの方が、このとき非常に有利な立場だった。
なぜか。

  • セクストゥス・ポンペイウスと結び、イタリア、バルカン半島近郊の制海権を手中に収めていた
  • そのため、マケドニアの東方で待ち構まえておき、冬にまで戦闘を伸ばせば補給のままならない三人委員会の軍は撤退せざるを得ない
  • しかし撤退するにも海へ出られないため、軍が自然崩壊を起こす可能性が高い

ようするに持久戦に持ち込みさえすれば良かったのである。

アントニウスの先発隊を撃退したブルトゥスとカッシウスが、三人委員会の軍を待ち受けるのに選んだ場所が、フィリッピの町の近郊である。
ここは街道の北に山があり、南には大きな沼が広がっている。
彼らは通せんぼをするため、西の「入り口」である2つの丘に両軍の陣を設置し、両陣をとがった杭の垣でつないだ。

その頃アントニウスとオクタウィアヌスは、アドリア海の封鎖をすり抜けデュッラキウムに上陸。
ここでオクタウィアヌスが、おそらく神経性の病気にかかり、部隊とともに待機することとなった。
アントニウスはオクタウィアヌスを残してフィリッピに急行し、ブルトゥス・カッシウスと対峙する。

アントニウスは不利な場所に陣を敷かざるをえなかった。
また敵の食料徴発隊にたいして待ち伏せ攻撃を行うもあえなく失敗。
東方軍をなかなか攻略することができない。

オクタウィアヌスはアントニウスの状況をみて、まだ治りきっていない体調を押して参戦を決意し、フィリッピへと向かう。
オクタウィアヌスは次の2点を懸念していた。

  • 味方の状況が芳しくないこと
  • アントニウスに戦功をすべて持っていかれる事態を避けたいこと

おそらく味方のことよりもアントニウスに対する焦りのほうが勝っていたのだろう。
フィリッピに到着したオクタウィアヌスは、アントニウス軍の近くに陣営を設置。
ようやくオクタウィアヌスの戦が始まろうとしていた。

オクタウィアヌス、フィリッピの戦いで不本意な結果を残す

オクタウィアヌス到着後、しばらく小競り合いがつづくが、決定的な戦いはなかなか起こらない。
それもそのはず、ブルトゥス・カッシウス軍は自軍陣営に引きこもって時がすぎるのを待っていればよかったからだ。

フィリッピの戦い第1戦目

アントニウスとオクタウィアヌスにとって、時間の浪費は命取りとなる。
そこでアントニウスは沼地の上に、土手道を作る計画をたてる。
沼地に通行可能な通路ができれば敵の背後に回り込み、補給路を断つことができるからである。
沼地に生えた背の高いアシのおかげで、敵側にバレることなくことは進み、10日後には途中の乾いた陸地に砦を築くことができた。

これに慌てたカッシウスは、アントニウスの陣営と砦を横切る壁を建設。
土手道の分断で砦とそれを守る軍団を孤立させる。
アントニウスも負けじと沼地とカッシウスの陣営の間に構築されている杭垣を破壊しはじめた。
これを破壊できれば、手薄になっているカッシウスの陣営を攻撃することが可能なのだ。

だがこの行動はあまりにも無謀すぎた。
準備万端のブルトゥスは、左から回り込むアントニウスに対して突撃をかける。
さらにアントニウスとの全面衝突を避け、今度は三人委員会の陣営を攻撃し、占領した。

これに対し、アントニウスも素早く杭を破壊し、カッシウスの陣営を強襲、奪取に成功したのである。
カッシウス軍は前線のアントニウス主力軍と戦っていたが次第に後退し、自分たちの陣営が落とされたのを知ると最後は統制を失って崩れてしまった。
またカッシウス軍に付き従っていた騎兵は、海を目指して逃げ去ったのである。

雨の降らない戦場はホコリが舞い上がって、両軍の様子を確認することができなかった。
カッシウスは自軍が破れたため、おそらくブルトゥスも破れたものと思い、自殺したと言われているが、一節によるとブルトゥスが負けたわけではないことを確認して自殺したようである。
カッシウスは、軍人肌でもないブルトゥスが勝ち、自分が負けてしまったことに対して不名誉な思いがあったのだろう。

ではこの戦で陣営を破壊されたオクタウィアヌスはどうしていたのか。
オクタウィアヌスは結局戦場でも体調が芳しくなく、安全な場所に退避していたようだ。
結局この事実が、オクタウィアヌスのフィリッピの戦いの評価を下げることとなった。

フィリッピの戦い第2戦目

一戦目を終えた段階で、アントニウスはブルトゥスを包囲するため、南側からジリジリと迫っていった。
ブルトゥスも包囲をさせじと防衛拠点を伸ばしていく。

ここで三人委員会側に恐ろしい知らせが入った。
1戦目が行われた同じ日に、アドリア海でも三人委員会側と共和政擁護派で艦隊戦が行われ、三人委員会の輸送が完全に失敗したのである。
もしこのような知らせがブルトゥスに届けば、敵軍の士気を大きく上げることになるだろう。
さらにアントニウス・オクタウィアヌス連合軍が陸上戦で破れでもすれば、イタリアへの退却も困難になる。

いっぽうのブルトゥスはどうだったのか。
彼の軍も状況は芳しくなかった。
ブルトゥス陣営内の補助兵や援軍の中には、勝手に帰国するものや、敵方に寝返るものが相次いだのだ。
またこのような状況に置かれた兵士たちは、ブルトゥスに決戦を迫っていた。

10月23日、ついにブルトゥスは動いた。
作戦などなく、あるのはただの力比べというお粗末な戦いである。
結局三人委員会側が徐々に敵を押していき、ブルトゥス軍は総崩れとなった。
アントニウスは勝利を確実なものにするため、日が暮れるまで追撃を行った。
またオクタウィアヌスは体調を考慮して、彼自身は陣営にのこり、副官の一人を追撃に繰り出している。

ブルトゥスは定員を大きく下回る4個軍団を引き連れて、丘の上へと退避。
しかし彼が率いる4個軍団が、降伏を考えていることが明らかになると、ブルトゥスは自殺する。
こうしてローマ史上最大級の兵を動員したフィリッピの戦いは、幕を閉じたのだった。

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