単独支配者にとって、後継者を指名することは重要な課題である。
なぜなら後継者の「デキ」によって、その後の帝国が存続するかどうかが決まるからだ。
事実、後継者を指名することなく没したアレクサンドロス大王の帝国は、彼の死後後継者を名乗る者たちによって分裂、瓦解してしまっている。
また、アウグストゥスはローマ帝国最初の皇帝であり、下手をすれば共和政の信奉者たちによって、帝政そのものが否定される恐れもあったのである。
さらにアウグストゥスは共和政の皮をかぶった単独支配という、欺瞞に満ちた体制を築いており、帝国を維持するためには高度な政治的技術と駆け引きが必要だったのだ。
ではアウグストゥスは、次代へ引き継ぐ後継者をどのように決めたのだろうか。
アウグストゥス最後となる記事では、彼の打ち立てた帝政を引き継ぐための方策と、後継者候補たちを見ていこう。
帝政を引き継がせる方法
ローマは神託によって王が決まり、その王権を王家が代々受け継ぐような国ではない。
ゆえにアウグストゥスは、単独支配を引き継ぐ方法を確立する必要があった。
ではいかにして単独支配を引き継がせたのか。
その方法とは、アウグストゥスが統治能力があると見込んだ人間に、彼が持つ様々な権限と同等のものを元老院に認めさせ、あらかじめ委託する形を取り権力を引き継ぐというものだった。
具体的には、次の3つの権限の引き継ぎが必要となる。
- 護民官職権(政治的権限)
- 大規模な軍団が必要な属州(皇帝属州)の命令権(軍事的権限)
- 皇帝属州以外の属州に関与できる上級の命令権(属州支配権)
上記3つの職権については、アウグストゥスⅠ ―ローマ皇帝の権力確立と権威について―で確認できるので、参考にしてほしい。
ではアウグストゥスは、後継者をどのような基準で選んだのだろうか。
後継者選びの優先順位
アウグストゥスの後継者選びには、次の優先順位があった。
- ユリウス氏の血統(つまり自分の血族)
- 統治能力
- 個人的な相性
ユリウス氏(つまり自分)の血
アウグストゥスは、ユリウス氏族となった自分の血統を残すことに、並々ならぬ執着があった。
その理由は、次の2点。
- 亡き養父カエサルの属したユリウス氏族の隆興と繁栄のため
- 妻のリウィアが属している名門貴族の流れを汲んだ、クラウディウス氏族に対する牽制
本来ならば、アウグストゥスと妻リウィアの間に子どもが生まれていれば(そしてその子が息子であれば)、上記のような心配事はなかっただろう。
アウグストゥスからユリウス氏を受け継ぎ、同時に名門貴族クラウディウスと繋がる人間が、全てをうまく引き継いでくれるだろうから。
しかし残念なことに、アウグストゥスとリウィアの間には、息子どころか子どもすら生まれなかった(一度だけ、リウィアが流産ことはあった)。
そしてリウィアには、クラウディウス氏族の元夫との間に息子が(2人も)いたのである。
アウグストゥスには、カエサルが引き上げてくれた名門貴族ユリウス氏の恩と感謝の気持、そして自分の生まれが貴族の下にある騎士階級というコンプレックスがあったのだと思う。
そして名門クラウディウスに勝る確かなものが、アウグストゥス自身に必要だったのではないだろうか。
統治能力
とはいえ、血統だけで地中海をぐるりと取り巻くローマ帝国を統治できれば苦労はしない。
また前述したように、共和政の皮を被った単独支配を続けるには、高度な政治的技術と忍耐力が必要だ。
アウグストゥスは、自分が作り上げた「アウグストゥスモデル」とも言える統治システムを、うまく活用できる人物に引き継がせる、あるいはうまく活用できるまで育て上げることで、帝政の存続を託すようにしたのである。
個人的な相性
最後は個人的な相性、つまり「好きか嫌いか」である。
アウグストゥスは、どちらかと言うと若い人間と、明るく快活な人間を好んだ。
意外かもしれないが、アウグストゥスも(裏で何を考えているかは別として)晩餐会などのホスト役などでは、人を楽しませることにかけて、すこぶる有能だったのである。
逆に真面目で自分の意見をあまり言わない人間、暗い人間が苦手だった。
これは人間として致し方ない側面なのかもしれない。
後継者候補とその運命
では、アウグストゥスが考えた優先順位によって選ばれた後継者候補たちが、どのような運命をたどっていったのか、候補順に見ていくことにしよう。
マルケッルス
マルケッルスは、アウグストゥスの5歳違いの姉オクタウィアの息子で、アントニウスとの結婚前に死別していた元夫のマルケッルスとの子どもである。
つまり、アウグストゥスから見ると、マルケッルスは甥になる。
アウグストゥスは、魅力的で知的であり快活な性格をしているマルケッルスを心から愛していた。
アウグストゥスはおそらくマルケッルスに、かつての自分と大伯父カエサルの関係を見たような気がしたのだろう。
アウグストゥスが前29年、ローマに帰還し凱旋式を行ったとき、マルケッルスを二輪馬車の一方の曳き馬に乗せて伴った。
また、21歳のときは按察官(アエディリス)に指名したときは、マルケッルスが取り仕切った競技会が大成功をおさめたという。
アウグストゥスは、マルケッルスに対して後継者となる職権を与えるように、元老院へ働きかけたことはなかったが、おそらくマルケッルスが順調に育ったなら彼を第一候補としただろう。
なぜならマルケッルスは、アウグストゥスの唯一血のつながった娘であるユリア(大ユリア)と結婚していたからである。
しかしマルケッルスは若干21歳の若さで病にかかり、この世を去ってしまう。
アウグストゥスは彼の死をいたみ、建設中だった自分の名をつけた廟(お墓)に埋葬した。
また建設した新しい劇場は、建設者の名前をつけるのが通例だったのに、マルケッルス劇場と命名されることになった。
アグリッパ
アグリッパは、アウグストゥスががオクタウィウスという名だった若い頃からの友人であり、アウグストゥスがローマの内乱を勝ち抜くために、軍事面でバックアップした盟友である(詳しいことはオクタウィアヌスⅠ ―少年時代と大伯父カエサルとの関係―からご確認いただきたい)。
しかし当然のことながら、アウグストゥスとは血の繋がりが一切ない。
ではなぜアグリッパをアウグストゥスは後継者の候補としたのだろうか。
アグリッパは軍事面での才能はもとより、行政面においても優れた手腕を発揮した人物だ。
そしてアウグストゥスは、アウグストゥスⅦ ―私生活と人物像―でも触れたように、生まれたときからの虚弱体質であり、常に死を意識していたことだろう。
その死が前23年に、現実のものとして起こりそうになった。
アウグストゥスは死を覚悟をして、自分の権威の象徴であるアレクサンドロスがつけていた印章付きの指輪を、アグリッパに渡している。
しかしアウグストゥスは死の淵から蘇るように回復した。
これ以降、アウグストゥスは自分の身に何が起こってもいいような準備をするようになる。
なぜなら帝国の運営と帝政の継続、つまり共和政へ戻ることを避けなければならないからだ。
そこでアグリッパに東方の(皇帝属州に対する)命令権を獲得できるように配慮する。
これはアグリッパがローマ帝国の共同の統治者となることを意味していた。
さらにマルケッルスが亡くなったことで未亡人となっていた当時18歳のユリアを、アウグストゥスはアグリッパに嫁がせたのである。
アウグストゥスのもう一人の友人であるマエケナスは、アウグストゥスに対してこう助言したという。
あなたが彼(アグリッパのこと)をあれほど強力にしたのですから、あなたの義理の息子にするか、殺すしかないでしょう。
アウグストゥス ローマ帝国のはじまり
第17章 神々が愛するものは……――前二七年―二三年より
アウグストゥスは、自分の血のつながったユリアをアグリッパに嫁がせることで、将来ユリアに子どもができた場合は、アグリッパを通して単独支配者に血が受け継がれていくことを期待したのである。
アグリッパはその後、前18年に東方の命令権が更新され、さらに護民官職権を5年間獲得した。
そして前13年には上級属州総督命令権を獲得した。
ついにアウグストゥスと、ほぼ同等の権限を獲得したのである。
しかし頑強であったアグリッパも前12年、パンノニア遠征から引き返してローマに帰還途中のカンパニア地方で、病に倒れて死んだ。
享年50歳。
アウグストゥスにとって、半身をもがれたような痛みだっただろう。
ガイウス、ルキウス兄弟
アグリッパの死後、というよりも、早くからアウグストゥスが期待していたのが、アグリッパとユリアの息子たちであるガイウスとルキウスの兄弟だった。
なぜなら彼らは娘ユリアの息子であり、アウグストゥスにとって直系の孫にあたるため、ユリウス氏の血を継承するのに好都合だからである。
またアウグストゥスは、アグリッパの生前からこの二人を養子に迎え、自分の家で教育を施している。
読み書き、水泳、簡単なけいこごとなど……。
自ら教師役を買って出ることで帝王学を教え込み、将来の「第一人者」であり、立派な統治者となるよう成長を促したかったのだろう。
また彼らの認知が高まるよう、前13年にはマルケッルス劇場奉献の祭典で催されたトロイヤ競技にガイウスを出場させたりもした。
しかしアウグストゥスの思いとは裏腹に、次第にガイウスとルキウスの素行が悪くなっていく。
おそらく、アウグストゥスの後ろ盾があってこその人気であり、ちやほやされることに対して、若者特有の勘違いがあったのだろう。
保護者の過干渉が子どもにどのような影響を与えるのかがわかる、好例ではないかと思う。
だがアウグストゥスに計画をやめるという選択肢はない。
前6年には市民が先走ってガイウスを執政官に選んでしまったが、アウグストゥスはガイウスが若すぎる(この時点で15歳だった)ので、20歳になる後1年に執政官にするという予定執政官という処置をとった。
ちなみに弟のルキウスも前2年、15歳になったときに、後4年の予定執政官として指名されている。
また前5年にはガイウスを「若者の第一人者(プリンケプス・ユウェントゥティス)」に指名している。
これは騎士階級の名誉総裁という立場だが、実際は後継者の意味に近かった。
これ以降、元首候補にたいして「若者の第一人者」という称号が贈られるようになり、実質「皇太子」を意味するようなる。
このように次々と後継者への道作りをしてもらったガイウスは、前1年、ついに東方の問題を解決するという、重要な任務を任される。
それは親ローマ派だったアルメニア王の死により、後継者争いで混乱したアルメニアに、再び親ローマ派の王をつけ、さらにアルメニア問題に介入したパルティアとの交渉をまとめることだった。
とはいえ、ここでもガイウスの脇を経験豊富な将軍たちがしっかりと固めている。
またアウグストゥスもパルティアと事前に入念な交渉をしていたため、ガイウスは難なく任務を果たすことができた。
余談だが、この任務の途中、後1年のガイウスの誕生日にアウグストゥスが手紙を送っている。
この手紙のなかでガイウスのことを「私の可愛い小さなロバ君」と書いているのをみると、アウグストゥスはただ単に孫を猫可愛がりしているおじいちゃんでしかない様子がわかると思う。
しかしこれだけ期待をしていたガイウスとルキウスの兄弟に悲劇が訪れる。
まず後2年、軍務の経験を積むためにヒスパニアに派遣されたルキウスが、途中のマッシリア(現マルセイユ)で突然の病に倒れて亡くなった。
享年19歳。
さらに後3年、せっかく親ローマ派の王を擁立したアルメニアで、王が亡くなってしまうと、またしてもアルメニアに反乱が起きてしまう。
このゴタゴタである街を包囲していたガイウスが戦闘中に負傷し、翌年それがもとでガイウスはローマへの帰還途中に亡くなってしまった。
享年24歳。
アウグストゥスは、後継者候補を一気に2人も失ってしまったのである。
アウグストゥスの娘ユリア
最後の候補者であり、皇位継承者であるティベリウスの話をする前に、アウグストゥスの後継者選びに関わった(というより犠牲になった)ユリアについて見てみよう。
アウグストゥスは、自分の血統を残すためなら、家族を利用することになんの躊躇もなかった。
その影響をもっとも受けたのがアウグストゥスの娘ユリアである。
ユリアはアウグストゥスが得たただ一人の実子だったので、言い方は悪いがアウグストゥスからすれば自分の血を残せる唯一の手段だった。
そのため、ユリアはアウグストゥスが後継者と目した人物に、次々と結婚をさせられていく。
マルケッルス、アグリッパ、そしてティベリウス。
10代の頃の何もわからない頃ならともかく、20代の女盛りにもなってくると、しだいに自分の意思を示すようになる。
それは厳格な父の教育への反抗と、彼女自身の性格によるものだろう。
男性都合でみれば身勝手になるだろうが、独立心が強く、自分の人生を謳歌したいというささやかな願いの現れだった。
では具体的に何をしたか。
それは夫以外の男性を求めたのだ。
何人もの男性と関係があったと噂されたが、その中にイウッルス・アントニウス、三頭政治の一人でかつての父のライバルであるアントニウスの息子がいた。
ユリアの醜聞は、モラルを求めたアウグストゥスにとって身内からの大きなしっぺ返しを食らった形となった。
イウッルスはユリアとの関係に加えて、アウグストゥスを暗殺する陰謀を企てたとして処刑、もしくは自殺においこまれ、他の醜聞相手の男性たちも、ローマから帝国の他の地域へ追放された。
そしてユリア自身も、アウグストゥスの別荘であるパンダテリア島へと追放された。
この追放劇の裏には、ユリアのもとに集まった人々と、ディベリウス・リウィア親子のもとに集まった人々との間で起こった、後継者をめぐる派閥争いがあったとも言われている。
だがアウグストゥスが自分の血の存続にこだわったために、家族を道具のように扱ったことで招いた結果とも言えるだろう。
そしてそれは、最後の後継者候補となったティベリウスに対しても、同様のことが言えるのだった。
ティベリウス
ティベリウスは、アウグストゥスの生涯の妻リウィアの連れ子で、名門貴族クラウディウス氏族につながる人間である。
実務家としても軍指揮官としても優秀であり、統治者としての能力は申し分のなかった。
だがティベリウスは常に後継者候補として2番手の位置にいた。
少年時代は同年代のマルケッルスがアウグストゥスの寵愛を受けており、マルケッルスの死後はアウグストゥスの友人で共同統治者といっても過言ではないアグリッパが控えていた。
しかしアグリッパが死ぬと、ティベリウスにも徐々に後継者としての可能性が見えてくる。
アウグストゥスはあらゆる可能性を考えて、ティベリウスの妻にユリアを選んだのだ。
だがこれはティベリウスにとって迷惑以外の何物でもなかった。
なぜなら彼は、アグリッパの娘であるウィプサニアとすでに結婚しており 、夫婦仲は非常に良好だった、つまりウィプサニアを愛していたからだ。
結局はティベリウスが個人的感情でアウグストゥスに逆らえるはずがなく、ウィプサニアと別れさせられることになる。
ティベリウスは別れたウィプサニアに一度だけ街角で偶然出会った事があった。
そのときティベリウスは目に涙を浮かべていたという。
またティベリウスは、アグリッパの生前ユリアに言い寄られたことがあり、このことが原因でユリアを嫌っていたらしい。
それでもティベリウスとユリアの二人は努力をしてみたが、1人目の子供が生まれてすぐに死んでしまうと、完全に夫婦仲は冷え切ってしまった。
ユリアの一件があってもティベリウスはアグリッパが死んでから、主に軍事面でアウグストゥスの事業を手助けした。
有能な指揮官だったので、様々な地方の軍事作戦を成功させている(アウグストゥスⅡ ―ローマ軍と安全保障について―を参照)。
しかしガイウスとルキウスにアウグストゥスの寵愛が移ると、結婚の一件でわだかまりもあった彼は、前6年ついにサボタージュを起こし、公務から完全に引退して東地中海のロドス島に引っ込んでしまったのである。
そのガイウスとルキウスは、ティベリウスの引退中に相次いで死去。
他の後継者がほとんどいなくなったアウグストゥスは、前6年にアグリッパの末子であるポストゥムスとともに、ティベリウスを養子として迎えた。
さらにティベリウスのために、10年間の護民官職権と属州命令権を獲得させている。
つまりこの地点でティベリウスを後継者の第一人物にした、ということだ。
ティベリウスを個人的にも好ましく思っていないアウグストゥスにしてみれば、歯噛みする思いだったに違いない。
アウグストゥスは「国家のために」と自分を納得させるしかなかった。
結局その後公務に戻ったティベリウスは、軍事面で遺憾なく才能を発揮し、ゲルマニア、パンノニア両方面で輝かしい戦果を残している。
そして後13年、アウグストゥスの命令権が10年間更新されるとともに、ティベリウスにも初めて上級属州総督命令権が与えられることになった。
56歳にして、ティベリウスは養父から事実上の共同統治者にえらばれたのである。
そして翌年の後14年、ティベリウスの見送りにベネウェントゥムまで従ったアウグストゥスは、 ローマに帰還途中、気分がすぐれないためにノラに立ち寄った。
この地は父が前58年に亡くなった地と同じ。
同年8月19日、アウグストゥスは父が死んだこの地で、静かに息を引き取った。
享年76歳。
41年の長い治世の記録は、この後に続く皇帝の誰一人として破ったものはいない。
またアウグストゥスは、付き添っていた妻に次の言葉を残したという。
さようなら、リウィア。われわれの結婚のことは忘れないでくれ
アウグストゥス ローマ帝国のはじまり
第24章 苦い結末――後一四年まで
アウグストゥスの死後(今回のまとめに代えて)
アウグストゥスは、生前すでに養子縁組を行い権力の継承をすませていたので、カエサルのようにわざわざ遺言状で改めて宣言する必要はなかった。
アウグストゥスの遺言状には、「残酷な運命がわが息子ガイウスとルキウスを運び去ってしまったがゆえに」ティベリウスに2/3の遺産を残すとあった。
また財産は次のように分配された。
- ティベリウス:1億セステルティウス
- リウィア:5千万セステルティウス
- 兵士と市民:9千万セステルティウス
さらにアウグストゥスの遺言には、リウィアを養子にすると宣言してあった。
これでリウィアは、アウグストゥスの娘としてユリウス氏族の一員となり、ユリア・アウグスタという名前に変わったのである。
アウグストゥスの実の娘であるユリアは、追放先のレギウムで、年金を絶たれて死んだ。
またティベリウスとともにアウグストゥスの養子となったアグリッパ・ポストゥムスは、品行の悪さから追放されていたが、こちらもアウグストゥスが亡くなったと同時に殺されている。
ユリアはティベリウスの差し金で殺されたと思うが、リウィアやポストゥムスについては、アウグストゥスが考えたことだろう。
アウグストゥスは最後まで、ユリウス氏族と帝政の維持を考えていたのだった。