第三次ポエニ戦争。前149年から前146年まで行われたローマとカルタゴとの戦争である。また100年以上にも渡る両国間の戦争の、3回目にして最後の戦争なので、「第三次」と頭につく。
ローマとカルタゴが初めて戦った第一次ポエニ戦争や、ハンニバル戦争とも呼ばれた第二次ポエニ戦争については、第一次ポエニ戦争Ⅰ ―シチリア島渡航から初海戦、アフリカ本土上陸まで―と第二次ポエニ戦争Ⅰ ―ハンニバル戦争とも呼ばれたローマとカルタゴとの決戦―に詳しく書いているので、興味のある方はそちらをお読みいただきたい。
「戦争」と名がつくが、その実態は大国ローマによる一都市の包囲戦であり、第二次ポエニ戦争以降カルタゴはまともに戦える力もなかったのである。
ではなぜローマは、当時協力的だったカルタゴを滅ぼす決断をしたのだろうか。
その謎を解く前に、第二次ポエニ戦争が終わってからカルタゴと開戦するまでの地中海世界が、どのようになっていたのかを見ていこう。
第二次ポエニ戦争以降の地中海世界
ローマ、ギリシア世界を勢力下に置く
第二次ポエニ戦争が終わったあとも、ローマは息をつく暇もなく次の戦いへと乗り出していく。それは、アイトリア同盟をはじめとするギリシア都市国家と盟約を交わしていたローマが、彼らを大国から守る、という言い分で、東地中海に割拠するヘレニズム国家に戦争を仕掛ける、というものだった。
まず前200年、ローマはギリシア都市へと矛先を向けるフィリッポス5世に対し宣戦布告、前197年にキュノスケファライの戦いでこれを破る(第二次マケドニア戦争)。
次にローマは、トラキア(ダーダネルス海峡西側の、現トルコ、ブルガリア、ギリシャの一部)地方やギリシアに進出を図る、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世と戦端を開く。この王のもとには当時、カルタゴから亡命していたハンニバルもいた。
前191年、ローマはテルモピュライでシリアを破ると、前190年にマグネシアの戦いで再びアンティオコス3世に勝利。前188年にはアパメアの和約で、大国シリアから容赦ない条項を突きつけるに至った。
そして前168年には、フィリッポス5世からマケドニア王国を受け継いだ子ペルセウスと、ローマは戦うことになった。第三次マケドニア戦争とよばれるこの戦いでもローマは勝利する。
この結果、王国は4分割されマケドニアは滅亡。ギリシア世界は完全にローマの勢力下に入った。またヘレニズム最強国家のマケドニアが消滅したことで、東地中海にはローマに軍事力で対抗できる国が、もはや存在しなくなってしまったのである。
強者ローマの掃討作戦
ヘレニズム国家の衰退あるいは滅亡により、かつてのカルタゴのように、がっぷり四つを組んで戦う相手がいなくなったローマ。しかし彼らは戦うことをやめたわけではない。
今度は反乱鎮圧と称し、勢力下におさめた各地で戦争という名の掃討作戦を展開していく。ローマが戦争をしかけた地域は次の通り。
- イリュリア(アドリア海東部沿岸地方)
- リグリア(北西イタリア)
- スペイン
前150代後半に入ってから、力を誇示するためだけに戦端を開くローマの傾向が、いっそう強くなっていく。前151年から前150年にかけてのスペインでは、特に強者の論理を振りかざしたローマの態度が、あからさまになる出来事が起きた。
イベリア半島西部(現ポルトガルあたり)にある、ルシタニアの人々(ルシタニー人)が起こした反乱に対し、属州ヒスパニア・ウルテリオルの総督セルウィウス・スルキピウス・ガルバは、慰撫のため土地を与えると約束。
彼らを3グループに分け、それぞれを別々の土地に連れていったあと、友好と偽って武装を解除させ、周囲を溝で囲んだあと虐殺した。
古来の伝統を重んじるローマの人々がこの事件を聞いたら、「信義(フィデス)にもとる」を目を覆っていただろう。では一体なぜローマでは、このような「弱いものいじめ(モラルハザード)」的事件が起こっていたのだろうか。
ローマが戦争をしかける理由
もちろん持った軍事力を使い、自分たちの力を示したい、という欲求もあっただろう。しかしそれ以上に大きな理由をしめていたのは、凱旋式を行い、軍事的な業績を目に見える形で残すことへの、ローマ政界内での激しい競争があったからだ。
第二次ポエニ戦争以降、ローマでは高位政務官職の世襲化、つまり二世・三世議員の生まれる傾向がいっそう強くなっていく。それと同時に彼らがより上位の政務官選挙に勝つため、軍事的な業績を奪い合ったのである。
なぜなら、ローマでは政治と軍事は不可分だったので、「戦いに勝つこと」すなわち「人気が出る」→選挙に当選する、という図式が成立した。そして誰もがわかるような、目に見える形で軍事的な業績を誇示する方法が、凱旋式を行うことなのだ。
ただし、カルタゴとの雌雄が決着し、ヘレニズム諸国が衰退したあとは、国家の命運を決める戦争そのものが少なくなっていく。そこで本来なら重要な戦いで勝利したものに対する栄誉の側面がある凱旋式も、ある一定の数の敵を殺せば行う資格を得ることができる、という形式のみに頼ったものへと変わりつつあった。
サッカーで例えるなら、ワールドカップ決勝のような試合で、勝利を決める1点を決めた選手にMVPが与えられるはずなのに、「10点以上とればMVP」と決まっているので、大量に点数を取りたいために格下相手や消化試合に出たがるようなものだろう。
つまり第三次ポエニ戦争前のローマでは、指導者層の政治的都合で戦争相手と、戦争後の処遇をきめるようになっていたのである。そしてこの戦争相手の一つとして、カルタゴが選ばれたに過ぎなかったのだった。
ヌミディア王国によるカルタゴ侵略
だからといって、ローマが理由もなしにカルタゴを攻めることは彼らの『道義』に反する。しかし幸いにもヌミディア王国がカルタゴの領土を侵し始めたことで、カルタゴ攻めの決定的な理由を手に入れることとなる。
第二次ポエニ戦争後のヌミディア
ヌミディア王国によるカルタゴの侵略を説明する前に、まずは第二次ポエニ戦争後のヌミディア王国の様子を見てみよう。
第二次ポエニ戦争時のヌミディア王国の中に、カルタゴから遠い西のマサエシュリー王国と、カルタゴに近く密接な関わりを持っていた東のマッシュリー王国があったことは、第二次ポエニ戦争Ⅴ ―スキピオのカルタゴ・ノウァ急襲からスペイン制圧まで―ですでに述べたとおりだ。
その王国が、戦争中に紆余曲折あり、戦争後に次のようになったのである。
- マッシュリー王国:第二次ポエニ戦争でローマに協力したマシニッサが治める王国
- ウェルミナの王国:シュファックスの息子ウェルミナが治める王国
ローマは、敵となり捕らえたシュファックスの息子ではなく、当然マシニッサの治める国こそ
ローマの友人にして同盟者
であり、正統なヌミディア王国とみなしていた。
マッシュリー王国は、カルタゴに隣接していることから、もともとカルタゴと密接な関わりを持っていた。だがカルタゴの国力が落ち、ローマと親密になるにつれ、彼らはカルタゴにとって脅威となる存在になってしまった。
アリストン事件と侵略の始まり
前193年、カルタゴを混乱に陥れる事件が発生した。アリストン事件である。
セレウコス朝シリアの王アンティオコス3世のもとに亡命していたハンニバルが、祖国に復帰するため一種のクーデターを目論んだ事件。
ハンニバルがエフェソスにいた時、カルタゴと商取引をしていたアリストンという商人と知り合った。そこで彼はアリストンを通じて故国の党派仲間と連絡を取り合い、自分の帰国準備をさせるよう謀る。
だがこの目論見は、裏切りにより失敗。カルタゴ政府はローマの訴追を逃れるため、ハンニバルの名をあらゆる記録から抹殺しようとしたという。
戦争の口実を与えかねないカルタゴは、この事件を芽をつむため、あらゆる手段を講じたに違いない。この混乱に乗じて、マシニッサは動いた。小シュルティス湾(現ガベス湾)沿いのカルタゴ領(エンポリア地方)に侵攻したのだ。
カルタゴもすぐに動く。アリストン事件の釈明(ハンニバルの復帰はそれほどローマにとって脅威になりえた)とマシニッサの「不正」を訴えるため、ローマに使者を派遣したのである。
これに対し、ヌミディア側もローマへ使節を送った。こうして両者はローマの元老院で互いの言い分を主張する。
カルタゴ側は、大スキピオ(ザマの戦いでハンニバルを破り、カルタゴに和約の条件を示したスキピオ・アフリカヌス)がエンポリア地方をカルタゴ領と認めたことを主張した。これに対しヌミディア側は、次のように反論する。
- そもそもアフリカの土地は、先住民(つまり自分たち)のものであること
- ビュルサの丘(先住民から与えられた土地)以外の土地は、暴力と不正によって奪ったものなので、カルタゴ領と認められないこと
- エンポリア地方の一部は、カルタゴが継続的に所有していたことを証明できないこと
つまり彼らはヒメラの戦い以降、アフリカ領を所有するに至ったカルタゴの歴史そのものを批判する、という作戦にでたのである。
両者の言い分を聞いたローマは、大スキピオを長とする使節団を派遣し、調査を行った。しかし結論は保留したまま引き上げた。おそらく結論が出せなかったというのが正しいだろう。
なぜならローマ使節は、カルタゴの主張が正しいことは分かっていたのである。ただ、大スキピオの直接のクリエンテス(被護国)といってもいいヌミディアを、無下にするわけにはいかなかったのだ。
このローマの態度は、事実上マシニッサの主張が通り、侵攻した土地がヌミディアのものになることを意味していた。結果どうなったか。
まずカルタゴはローマの調停に対して不信感を持つようになった。またヌミディアはこの決定を盾に、さらなるカルタゴ領の侵攻を企て、前182年、前174年~前172年にも軍を進めることとなる。あまりにも頻繁に行うカルタゴへの侵入に、さすがのローマもヌミディア王を諌めたようだが。
カルタゴ内部の派閥争い
前160年代~前150年代にかけても、カルタゴとヌミディアの土地をめぐる紛争は続いていた。
ではこのころのカルタゴ内部では、どのような立場の人がいたのだろうか。カルタゴでは、大きく分けて3つの派が存在していた。
- 親ローマ派(寡頭派):ローマと良港な関係を保とうとする派
- 反ローマ派(民衆派):ローマの態度次第では、戦争もやむなしと主張する派
- 親ヌミディア派:ヌミディアに土地問題を譲歩してでも妥協をはかり、ローマとの戦争の火種を消そうとする派
中でも面白いのが、ヌミディア王国に寄り添おうとする立場の人間が、カルタゴ政府内にいたことだろう。この代表格が、『ホシムクドリ』と呼ばれたハンニバル(第二次ポエニ戦争のハンニバルとは別人)である。
しかし彼らは少数派に過ぎず、力を握っていたのが「民衆派」であり、その代表カルタロは強硬派の急先鋒として、ヌミディアに対し様々なことを画策していた。
それは例えば次のようなことである。
- カルタゴとヌミディアの土地問題現地に陣取り、マシニッサの臣下を攻撃する
- リビア(先住アフリカ)人農民の対ヌミディア反乱を扇動する
このような行動は、一見すると前201年にローマと交わした
ローマの許可なくして、戦争してはならない
という条項に反しているかに見えるが、この頃のローマはカルタゴの行動に対して問題にしていない。ただ使節団を派遣し、カルタゴ・ヌミディア両国に和解を勧めただけだった。
第三次ポエニ戦争への道
マシニッサの『大平原』侵略
ローマの態度に黙認を感じ取ったマシニッサは、ついにバグラダス川中流の『大平原』と呼ばれる地域の領有を主張したのである。この土地は、北アフリア有数の穀倉地帯で50もの都市があった。
私はマシニッサという人物が、
カルタゴ(フェニキア)人の手から自分たちの土地を取り戻す
という、一種のナショナリズム的キャンペーンを展開していたのではないかと考えている。ローマに刺激を与えず、徐々にカルタゴの土地を侵食し、気づけばアフリカはヌミディア領になっていた、というのがマシニッサの狙いだったのではないか。
しかしマシニッサも前150年代になると、齢80を越えてくる。いつ寿命がきてもおかしくない歳だ。その焦りこそ、カルタゴ領侵食の手を早めてしまったのかもしれない。
大カトーの視察と反カルタゴキャンペーン
マシニッサの主張に対し、前157年と前153年にローマは視察のため使節団を派遣した。この使節団の中に、カルタゴの天敵となる、あの大カトーがいたのである。
一代でローマ政界の中枢にのし上がった「新人(ノウス・ホモ)」。第二次ポエニ戦争中に初陣を果たし、メタウルス川の戦いにも従軍した経歴を持つ。フルネームはマルクス・ポルキウス・カトー・ケンソリウス。
国粋主義者で、古き良きローマ人の生き方を手本とする。また農業にも詳しく、『農業論』を著した。大スキピオの政敵で、ギリシアかぶれの大スキピオとの対立激しく、兄の公金横領の罪を口実に弾劾し失脚させた。
後にカエサルと争うことになる子孫のマルクス・ポルキウス・カトー・ウティケンシスと区別するため、「大」を頭に付ける。
大カトーは、カルタゴとヌミディアの境界争いの仲裁という名目で、カルタゴのアフリカ領をつぶさに観察する。そして農園が見事に耕されていることを知った。
また彼はカルタゴ市内も見て回る。するとローマに破れて半世紀も立たないのに、都市が繁栄し人口、国力も上向いていることを見た。一節には市内に膨大な量の船舶用木材が蓄えられていたという。
実はこの時、カルタゴは次の2つの理由で経済的な復興を遂げていたのだ。
- ハンニバル・バルカによる、財政再建が効果を表した
- ローマによって軍備を解体させられたことによる、軍事維持費の負担減
カルタゴは10,000タラントという重い賠償金を、20年分割払いでローマから課せられていた。にも関わらず前190年代には、残りの賠償金を一括で払うよう申し出るまでになっていたのである。
大カトーは、自らの目で確認したカルタゴの復興具合を危惧し、ローマに戻ると反カルタゴキャンペーンを展開する。彼はトガの袖からカルタゴ産のイチジクを取り出すと、こういった。
このような見事な果実を生み出すことができる敵が、海を隔ててわずか3日の距離にいる
今驚異的な復興をとげるカルタゴを見逃してもいいものか。彼らの成長を放置すれば、必ずやローマの仇となるはずである。ならば、いっそのことローマの脅威となる前に、心配のタネを取り除くほうがいいのではないか。
そして大カトーは反カルタゴキャンペーンの一環として、どんなに関係のない話題であっても、自分の演説は必ず次の一言で締めくくったという。
それにつけてもカルタゴは滅ぼされねばならない
この大カトーに対し、ローマにはカルタゴ存続論者も存在した。スキピオ・ナシカを代表とするグループである。
正式名は、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム。大スキピオの娘を妻としてもらったので、義理の息子にあたる。第三次マケドニア戦争にも参戦したことがあり、大カトーとは政敵。
スキピオ・ナシカは主張した。いまカルタゴを滅ぼせば、周りに敵がいなくなり、緩みきったローマの規律は崩壊してしまう。カルタゴの存在そのものが与える恐怖こそ、ローマのモラルを保つための秘訣である、と。
そして彼は大カトーに対し、次のように対抗した。
それにつけてもカルタゴは存続させるべきである
しかし、ナシカの主張も虚しく、ローマ元老院は徐々にカルタゴ開戦に傾いていく。その開戦論という水が入ったダムに、アリの一穴の穿たれる日が、カルタゴからもたらされようとしていた。
カルタゴ、ついにローマとの和約を破る
カルタゴは、ローマの視察団に対し、アリストン事件と侵略の始まりでも述べた過去の調停に対する不満から、ローマの仲介を拒否した。
さらに自領中枢を強奪されかねないヌミディアに、カルタゴは頑なになっていく。その結果、カルタゴの「民衆派」が、「親ヌミディア派」のリーダー約40人を追放し、民会でこの追放を決して撤回しないという決議を行ったのである。
追放された者たちは、マシニッサのもとに逃れると、宣戦布告を勧めた。ただしマシニッサはただちに開戦したわけではい。2人の息子をカルタゴに送り、追放者の帰還を許すよう、カルタゴを説得した。
しかしカルタゴはこれを拒否。さらに帰ろうとする息子の一人であるグルッサを、民衆派のリーダーの一人が急襲し、その従者を殺害するという事件が発生してしまった。
ここに至って口実を手に入れたマシニッサは、さっそく軍を引き連れオロスコパという都市を包囲する。一方のカルタゴも、今度はローマに訴えることせず、前150年、本格的な軍を動かしをヌミディア軍へと迫ったのである。
このカルタゴの行為は、第二次ポエニ戦争後の和約条項の一つ、すなわち
許可なき戦争の禁止
項目に、明らかに反することだった。
ローマはついにカルタゴから開戦の大義名分を手にすることができた。アリの一穴は、こうして穿たれてしまったのだった。
ローマ、カルタゴに宣戦布告する
ローマとの和約条項を完全に破ってまで、ヌミディアに戦争を仕掛けたカルタゴだったが、結果は散々だった。将軍ハスドゥルバルの指揮する58,000の兵のうち、無事に生き延びてカルタゴ市内に帰れたものは、ほんの一握りしかいなかった。
この結果を受け、ローマは全イタリアから兵を徴募した。もちろんカルタゴとの戦争を見据えてのことである。だがこの時、ローマは緊急事態に備えるため、といって敢えて理由をぼかした。
とはいえ、カルタゴも馬鹿ではない。おそらく親ローマ派が主導したのだろう。さっそくマシニッサとの戦いを主張した人々、および将軍ハスドゥルバルを死刑に宣告し、ローマに弁明するため使節団を派遣した。しかしローマは使節団に対し、戦争を回避するための具体的な条件を明言することは避けたのである。
イタリアの不穏な空気に対し、アフリカではまず、ウティカがカルタゴを見限った。ウティカはカルタゴと並ぶアフリカの良港であり、カルタゴ攻めの基地として絶好のポジションにあったのだ。大スキピオが落とそうとしても落とせなかった都市の離反は、カルタゴにショックをもたらした。
ウティカ離反の報を聞くと、ローマはカルタゴに宣戦を布告する。ここに至って羊の皮を完全に脱ぎ捨て、今や獲物を狙う狼へと変貌したのだ。前149年、ローマは執政官2人をシチリアに派遣した。彼らが率いた兵は8万の歩兵と4,000の騎兵。そして大艦隊という大軍勢だった。
カルタゴ、再三ローマの厳しい要求に従う
ローマの宣戦布告を知ったカルタゴは、慰撫のため再び使節を派遣した。ローマはここでカルタゴに対し、初めて条件を提示する。
その条件とは次の通り。
カルタゴの貴族の子供300人を人質として、シチリアの執政官2人に引き渡し、他の命令にも従う
そうすれば、アフリカの土地所有とカルタゴの自治を認める、ということだった。
カルタゴはローマの要求に従った。だが執政官2人は人質をローマに送ると、残りの条件はウティカ上陸後に伝えるとし、アフリカへと渡ってきたのである。そしてウティカに着くと、かつて大スキピオがカルタゴ攻めのときに建設した基地、カストラ・コルネリアを建造した。
カルタゴ政府は、もう一度彼らに使節団をおくる。それに対しての要求は、
あらゆる武器の引き渡し
であった。この武器の引き渡しも実行された。
この時カルタゴは、死刑を宣告していた将軍ハスドゥルバルの軍に城壁間近まで迫られ、下手をすればクーデターが起こりかねなかったが、ローマ側は「自分たちに任せよ」との一点張りだった。
そしてカルタゴの全武器がウティカに運ばれたことを見届けると、執政官の一人ケンソリヌスは、最後の要求を伝えた。
「汝らは自身は自分の領内のどこへなりと好きな所へ――ただし海から最低80スタディオン(約14.2km)以上離れた場所へ移るがよい。汝らの都市を我々は地に引き倒す」
興亡の世界史3 通商国家カルタゴ 第九章 フェニキアの海の終わり
それはカルタゴ市そのものの引き渡しであり、彼らのアイデンティティーである「海」そのものを捨てよ、という要求だった。
第三次ポエニ戦争開始
カルタゴ、ローマに宣戦を布告する
カルタゴ側はなおも粘った。もう一度ローマ元老院へ使節を送り、彼らの言い分を嘆願する機会を与えてほしいと。だが執政官は無情にも、この願いを却下したのである。彼はこういった。
海はお前たちに罪を犯させるのだ
おそらくこの言葉を聞いて、ようやくカルタゴの人たちは、自分たちがローマに一杯食わされていたことに気づいたのではないかと思う。
ローマは開戦を決めたときから、カルタゴを残す気などなかったことを。
使節団のあるものは、カルタゴ市への帰路で逃げ出した。またうつむいて帰った使節団の様子を見て、カルタゴ市民は絶望し、激昂のあまり元老院議員を八つ裂きにするものもいた。
だが少しして落ち着いたあと、カルタゴ元老院は覚悟を決める。ローマに対しての宣戦布告である。
まず政府は、カルタゴのために戦うことを条件に、全奴隷を解放した。そして死刑を宣告したあと、なおも城壁外に陣取る将軍ハスドゥルバルに謝罪をすると、ローマとの戦闘を委ねたのである。
さらに全市民が一致団結してローマと戦うことを決めた。彼らは男女問わず、決まった時間にしたがって、交代で食事を取りながら、昼夜休みなく働き続けた。その結果、全武器を取り上げられながらも、毎日次の武器を生産することができたのである。
- 大盾100枚
- 剣300振り
- 投石用の弾1,000個
- 投げ矢と槍、各500本
そして作れるだけの投石機械を製造した。女性は武器のため、自らの髪を切ったという。まさに総力戦だった。
カルタゴの善戦
戦いを決めたカルタゴに対し、ローマ軍は二手に分かれて攻撃を開始した。
カルタゴ市は三方を海に囲まれた天然の要害である。唯一つながっている西側の地峡部分には、三重の城壁がめぐらされ、その他の部分にも市をぐるりと城壁が囲っていた。
執政官のひとりマニリウスは、この地峡側へ回り、三重の城壁側から攻撃する。もうひとりの執政官ケンソリウス率いる軍は、海側からの攻撃を試みた。
実は鉄壁の防御を誇るカルタゴ市も、唯一の弱点があった。それは市がある岬の南に伸びる、舌状の土地の部分である。ローマはここに陣取ると、6,000人でようやく動かすことができる破城兵器をここに作り、城壁を攻撃した。
しかしカルタゴ側は夜になると、すぐさま城壁を修復した。さらに置きっぱなしになっていた破城兵器に火を放ち、これを燃やしてしまったのである。
攻城戦以外でも、カルタゴは死にものぐるいで戦った。
- 風向きを計算すると、帆を張って火のついたボートを使い、ローマ艦隊を焼き払う
- カルタゴの補給拠点ネフェリスを襲ったマニリウス軍を、ハスドゥルバルが敗走させる
また前148年には、新執政官であるルキウス・カルプルニウス・ピソの軍が、カルタゴとウティカの中間に位置するヒッパグレタという港町を攻囲したが、住民とカルタゴ軍の反撃にあって撃退されている。
カルタゴ側の善戦は、もちろん住民たちの不眠不休の努力の甲斐もあっただろう。だがそれ以上に、ハンニバルと戦っていたころの屈強なローマ兵士たちとは違い、油断と軟弱化が進んでいたのも大きかったのではないかと考えられる。
ヌミディア情勢の変化
加えて前148年、ヌミディア王国の老王マシニッサが死んだ。90歳を越えるという、当時にしては長い命を全うしての死だった。だが、晩年の彼は、自らの手でアフリカの地を取り戻す構想を、ローマに奪われてしまい、失意のうちに世を去ったようである。ローマ側も、このマシニッサの不忠を疑っていたフシがある。
このような事情からか、彼のあとを継いだ3人の息子のうち、2人はローマ軍への加勢を約束しながらも消極的だった。唯一カルタゴに好戦的なグルッサ――カルタゴ市の城門で、民衆派から攻撃を受けた人物――の陣からも、ヌミディア騎兵800が、ある首長に率いられ、カルタゴのもとへと走る事件も起きている。
生き残るため、カルタゴは必死だった。彼らはヌミディアのグルッサ以外の王子2人や、マウリー人(北アフリカ内陸の先住民)に援助を求め、反ローマ演説をアフリカ各地の町で行った。
また、この頃ギリシアでローマに反旗を翻していた、マケドニアのアンドリスコスへと使いを送り、共闘を呼びかけたりもしている。
ローマに対し、第四次マケドニア戦争を起こした人物。ペルセウス(アンティゴノス朝最後の王)の子フィリッポスを名乗ったので、偽フィリッポスとも呼ばれる。
前149年にローマから自立を宣言。前148年、ピュドナの戦いに敗れて捕まり、4王国に分割されていたマケドニアはローマの属州へと組み込まれた。
『海上帝国』カルタゴの滅亡
小スキピオ登場
半ばだまし討ちのような形で人質を取り、全武器を取り上げたにも関わらず、簡単に勝てると思っていたカルタゴが、2年経っても落ちる気配がない――焦りといらだちが募っていたローマでは、前147年の執政官選挙で、超法規的措置が実行された。
彼らは、まだ立候補の規定年齢に達していないスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)を、執政官に当選させたのである。
第三次マケドニア戦争で、マケドニア王フィリップスに勝利したルキウス・アエミリウス・パウルスの息子。跡継ぎがいなかったスキピオ家の養子に入る。養父の父、つまり養祖父スキピオ・アフリカヌスと同名のため、「小」の字を頭に付けて区別する。
執政官当選前にもカルタゴ戦に従軍し、不甲斐ない司令官たちの代わりに戦いで結果を残していた。また、ヌミディアの王位継承問題を調停し、3王子が共同で統治することを決めたのも彼である。
スキピオは、師のポリュビオスを含む側近とともに、さっそくアフリカへと赴いた。彼の登場で、カルタゴ戦の風向きが決定的に変わる。
スキピオはまず、これまで緩みきっていたローマ軍の風紀を正すため、陣内に出入りする酒商人たちを追い出した。そして軍の規律引き締めに成功すると、いよいよ市の攻略へと乗り出す。
スキピオが最初に目をつけたのは、メガラ地区と呼ばれる市内北側の地域。ここに夜襲をかけたのである。しかし門を空けて中に入れたのはいいが、この地区には密集した果樹園と入り組んだ灌漑用の水路が張り巡らされていたので、簡単に侵入することができなかったのである。
そこでこの地区からの侵入を諦めたスキピオが次に目をつけたのは、以前破城兵器を設置した、あの舌状の土地だった。ここから港湾地区を攻撃し、そのすぐ後ろにあるビュルサの丘を直接急襲する計画を立てる。
そのため、まず市の西側にある地峡部――三重城壁の外側――に城塞を建造した。それは四方を堀で囲み、高い塔を備えた巨大なバリケードといってもいいだろう。この封鎖で、陸からの補給は完全に途絶えた。
カルタゴ市民は飢えに苦しんだ。この頃になると、市内にはハスドゥルバル率いる防衛隊が駐屯していたが、海から補給をうけるわずかな食糧も、兵士たちへと分配され、市民はますます空腹に陥った。
ハスドゥルバルは、メガラ地区を攻撃された腹いせに、ローマ兵の捕虜を拷問し、城壁から突き落としたが、ローマ兵の怒りを掻き立てるだけのむやみな殺戮でしかなかった。
最後の反撃
さらにスキピオは海の道をも塞ぐため、舌状の土地から港湾地区の出口を塞ぐ突堤を築くという、大工事に取り掛かった。
港湾地区の出口を封鎖されれば、海への道が完全に絶たれてしまう。こうなっては死を待つだけのカルタゴ市民たちは、大胆な行動に出た。なんと円形の港湾部分から運河を通し、別の出口を作ることにしたのである。
彼らは昼夜を問わず、工事にとりかかった。ローマ軍に見つかってはまずいので、ローマ側の視界に入らないよう工夫しながらの作業である。同時に彼らは残っていた古い船材で、三段櫂船と五段櫂船を大急ぎで建造した。そして工事が完成すると、ローマ艦隊の前に突如50隻の艦隊を出現させたのである。
港湾部の入り口は、長方形の商船専用港にしかないと思っていたローマ側は、よきせぬ場所から艦隊が現れたことに、同様を隠せなかった。ここで一気にローマ海軍に奇襲をかければ、戦いの展開も変わっていただろう。しかしカルタゴは、この日船を見せたことに満足し、絶好の好機を逃してしまう。
3日後、再び艦隊を軍港側の入り口から出港させたが、今度はローマも準備が整っていた。結局この日は互角の戦いで勝負がつかず、カルタゴは船を引き上げるしかなかった。
さらにカルタゴにとって悪いことに、この海戦のあと狭い入り口に船が殺到したため、すべての船を収容することができず、帰港が遅れた船を城壁外の埠頭に退避させたのである。そのせいで、ローマに絶好の攻撃ポイントを教えてしまう結果となったのだった。
これを見たスキピオは、破城槌でその埠頭に攻めかかり、奪取に成功する。そして埠頭にローマ側の防壁が築かれると、投石器と投げ槍で間断なく市内への攻撃を加えたのである。
ネリフェス陥落
前147年の冬に入る頃、カルタゴにとって運命を決める戦いがあった。アフリカ本土からカルタゴ市への補給の拠点だった都市、ネリフェスが陥落したのである。
カルタゴ軍は、ヌミディア王の一人グルッサの騎兵に圧倒され、非戦闘員も含め70,000人が殺された。この都市からの食糧輸送こそ、カルタゴやアフリカ領民の勇気をつなぐ命綱だったのだ。
ネリフェスが陥落したことで、他のアフリカ都市もローマに降伏し、または占領された。ネリフェスの陥落とそれに伴う補給路の消滅、そしてローマによるアフリカ諸都市の制圧で、カルタゴの命運は尽きた。
カルタゴ滅亡
年が明けて前146年の春。カルタゴにその時が訪れた。
ローマ軍が商用の港方面から攻め込むのをうけ、カルタゴは火を放った。そして守備隊がそちらへと向かったときだった。ローマ軍の将、ラエリウス率いる部隊が、円形の軍用港の壁を登って侵入したのである。
半世紀前にカルタゴと戦った将軍が同名のスキピオなら、その部下も同名のラエリウスというのは興味深い。偶然なのか。それともスキピオ家がクリエンテス(被保護民)を引き継いだ結果なのか。
ともあれ、たちまち港はローマ軍でいっぱいになった。彼らは周囲の壁を制圧すると、広場(アゴラ)を抑え、次の朝には4,000の後続軍とともに、市内に突入した。
スキピオは、住民が逃げ込むビュルサの丘へと向かう。この時カルタゴ市民はおそらく15万人以上いたに違いない。公共広場からビュルサの丘に伸びる3本の道には、6階建ての建物が密集していた。この一つひとつをめぐって市街戦が展開された。
ローマ軍は、それぞれの道と建物で、頑強な抵抗にあいながらも、一軒ずつ制圧する。スキピオがついにビュルサの丘にたどり着くと、3本の道すべてに火をつけさせた。
ローマ兵は焼け落ちるのを待たず、建物を倒壊させた。そこに住んでいた人間の存在など知らないかのように。そして無慈悲にも、ローマ軍の『道路清掃係』がオノとツルハシで脇の溝へと放っていく。
惨劇は6日間続いた。ローマ兵には交代で作業に当たらせたが、スキピオだけは不眠不休で軍の指揮をとる。7日目、ビュルサの丘の頂上にある、エシュムン神殿に逃げ込んだ人々が、助命を申し出た。スキピオはこれを受け入れる。
この時神殿から出てきた人々は50,000。これが、カルタゴの生き延びたすべての人である。なおも神殿内にローマからの脱走兵とハスドゥルバルの家族が立てこもっていたが、最終的には火をつけた神殿に身を投げだして死んでいった。
建国から数えて約700年。カルタゴはローマ人の手によって、滅亡の時を迎えた。
小スキピオの言葉(今回のまとめに代えて)
燃え盛るかつてのライバル都市を前にして、小スキピオはカルタゴの運命を思い、涙したという。そして彼は、ホメロスの叙事詩の一句、トロイ側の総司令官ヘクトルの言葉とされる一句を口にした。
いずれは王プリアモスと彼に続くすべての戦士たちとともに滅びるだろう
スキピオのそばにいたポリュビオスは、なぜ今その一句を、と彼にたずねた。すると、スキピオは師に向かって、次のように答えた。
「今われわれは、かつては栄華を誇った帝国の滅亡という、偉大なる瞬間に立ち合っている。だが、この今、わたしの胸を占めるのは勝者の喜びではない。いつかはわがローマも、これと同じときを迎えるであろうという哀感なのだ」
ローマ人の物語 文庫版5 ハンニバル戦記[下] 第九章 カルタゴ滅亡
スキピオの言葉通り、カルタゴ滅亡の約600年後には西のローマ帝国が、『蛮族』によって静かに引導を渡された。さらに1600年後には東のローマ帝国が、かつてのカルタゴよろしく新興国家のオスマン帝国によって、首都を攻囲され、その最後を迎えたのだった。
- 第一次ポエニ戦争Ⅰ ―シチリア島渡航から初海戦、アフリカ本土上陸まで―
- 第一次ポエニ戦争Ⅱ ―スパルタ式軍事教育導入からハミルカルの登場、終戦まで―
- 傭兵戦争 ―リビア戦争とも呼ばれるカルタゴ最大級の内乱―
- 第二次ポエニ戦争に向かって―バルカ家のスペイン支配とローマの情勢―
- 第二次ポエニ戦争Ⅰ ―ハンニバル戦争とも呼ばれたローマとカルタゴとの決戦―
- 第二次ポエニ戦争Ⅱ ―ハンニバルのアルプス越えからトレビアの戦いまで―
- 第二次ポエニ戦争Ⅲ ―トラシメヌス湖畔の戦いからカンナエの戦いまで―
- 第二次ポエニ戦争Ⅳ ―マケドニア・シュラクサイの対ローマ参戦からカプア奪回まで―
- 第二次ポエニ戦争Ⅴ ―スキピオのカルタゴ・ノウァ急襲からスペイン制圧まで―
- 第二次ポエニ戦争Ⅵ ―アフリカ本土侵攻からザマの戦い、終戦まで―