五賢帝の三番手として、ローマ帝国史上もっとも平和な国を作り上げたといわれる皇帝ハドリアヌス。旅と美少年を愛し、治世の大半をお気に入りのアンティノウスとともに帝国各地の旅で過ごしたことは有名だ。
またハドリアヌスは、軍事や政治だけでなく建築や芸術にも造形が深かったという。
そんな有能な皇帝だが、実は彼が死んだあと、元老院はハドリアヌスの治世を記録から抹消する、いわゆるダムナティオ・メモリアエ(記録抹殺刑)の決議を出そうとしていたらしい。
なぜハドリアヌスは、元老院にそれほど憎まれていたのだろう。
この記事ではハドリアヌスの治世や業績を紹介するとともに、元老院との関係や彼の闇の部分にもスポットを当ててみたいと思う。
この記事であなたに新たな発見があれば幸いだ。
※タイトル下の画像は、Wikipedia経由で使用いたしました(Livioandronico2013, CC BY-SA 4.0 )。
ハドリアヌスが皇帝になるまで
生い立ちとスペイン系貴族の出世
西暦76年1月24日、ハドリアヌスは誕生した。出身地はローマか、もしくはスペインのイタリカ(現セビリア近郊のサンティポンセ付近)かの2つの説があるようだ。いずれにしてもピケヌムのハドリアに土地を持っていた彼の先祖アエリウス氏族が、スキピオ・アフリカヌスによって創られた町イタリカに入植し、現地の有力な貴族になっていたのは間違いない。
スペイン系の貴族が注目されるようになるのは、後1世紀に入ってからである。ネロの家庭教師セネカや詩人ルカヌス(コルドバ出身)を筆頭に、この時代に活躍したスペイン出身の有力貴族には、次のような人たちがいた。
- カデス(現カディス)出身の農業誌家、コルメッラ
- ティンゲンティラ出身の地理学者、ポンポニウス・メラ
- カラグッリス(現カラホッラ)出身の修辞学者、クィンティリアヌス
- バエティカ出身のヘレンニウス・セネキオ
彼らがローマの中央政界に進出したおかげで、スペイン系貴族の社会的な地位は向上した。しかしハドリアヌスとアエリウス氏族にとって影響があったのは、なんといっても後の皇帝トラヤヌス(ウルピウス氏族)のおかげだろう。
ハドリアヌスの家系と後の皇帝トラヤヌスとの繋がり
後に五賢帝の一人、『至高の皇帝』と評されるトラヤヌスにとってハドリアヌスは従兄弟の子、つまり従甥(じゅうせい)にあたる。ハドリアヌスの父ハドリアヌス・アフェルはトラヤヌスの父の姉ウルピアの子どもなのだ。
父アフェルは40歳という若さで早逝したため、法務官(最高政務官、執政官の次の役職)止まりだった。しかし彼はガデスの大貴族であるドミティウス氏の養女、ドミティア・ルキッラを妻に迎えている。
そのため財産も社会的地位もそれなりにあったのではないか。というより父の縁談自体が、アエリウス一族の地位向上と財産を目的にしたものだったはずだ。
幼少期
10歳で父をなくしたハドリアヌスは、二人の後見人に面倒を見てもらうことになった。その二人とは、トラヤヌスと、トラヤヌスの同郷で後の近衛長官の騎士身分(エクィテス)アッティアヌス。
ハドリアヌスはローマで教育を受けた。文法教師や弁論術を学び、またギリシア語も習得した。彼はラテン語とギリシア語を全く同じように書くことができたので、
小さなギリシア人(グラエクルス)
というあだ名が付くほどだったという。
またハドリアヌスは次のような素養にも恵まれていた。
- 歌手
- 音楽家
- 幾何学
- 建築
- 画家
現代で言えば、国語・数学・理科・社会・英語の五教科はもちろん、音楽や美術まですべての成績が5(最高成績)のスーパー学生といったところだ。
90年~91年には故郷イタリカに戻り、青年組合(コッレギウム・ユウェヌム)に入会する。
初代皇帝アウグストゥスの時代に創設された、富裕層の若者たちが集まるクラブ。兵士養成機関の役割があった。
ハドリアヌスはこの青年クラブで狩りに熱中したという。おそらく彼は狩りの腕前も優秀だったのだろう。上記に加え体育まで5をとってしまう、非の打ち所がない少年だった。ただしあまりにも狩りに熱中しすぎたため、トラヤヌスにローマへ連れ戻さてしまったのだが。
青年期
そんなハドリアヌスも93年~94年、年齢で言えば16歳から17歳ごろから、いよいよ上流階級の「大人」として一歩を踏み出すことになる。以下、ハドリアヌスの青年期を追ってみよう。
後に政治に関わる人材として、最初期のキャリア。ハドリアヌスは民生関係の仕事を担当した。
遺産相続問題を担当する100人法廷の裁判長を務める。
ラテン祭とは、アルバノ山地のカーヴォ山にある神殿で毎年3月27日に行われる、ユピテル・ラティアリス神に犠牲を捧げる年祭のこと。
この祭りの長官には実権はないが、象徴的にローマを代表する役割がある。通常皇帝の家人や元老院議員のエリートが選ばれるため、非常に重要な職と考えられていた。
『騎兵隊の6人委員』とは、皇帝(この時代はドミティアヌス帝)が7月15日に騎兵隊の閲兵を行うとき、各委員が一隊の騎兵隊を指揮する役職。またこの役職は競技を開催することもできたため、民衆から人気(支持)を集めることもできた。
軍団将校は軍の上級士官というだけではなく、属州総督が指揮する軍団で、司法や軍事の権限を持った軍事顧問という役割があった。もし総督に何かあった場合、総督と交代する役割も担っていた。
ちなみに任期はケース・バイ・ケースであり、トラヤヌスは10年間務めた。一方ハドリアヌスは、次の3つの軍団で将校を務めたようである。
- パンノニア属州アウィクム(現ブタペスト)に駐屯する、第2軍団アディウトリス
- 下部モエシア属州オエスクス(現ブルガリア)に駐屯する、第5軍団マケドニア
- 上部ゲルマニア属州モゴンディアクム(現マインツ)に駐屯する、第22軍団プリミゲニア
第22軍団プリミゲニアで将校を務めていたときに、ネルウァ帝の崩御(と養子となっていたトラヤヌスの皇帝就任)を聞いたハドリアヌスは、報告の一番乗りを果たすため、急いでトラヤヌスのいるケルンへと向かった。途中馬車が壊れるハプニングがあったものの、徒歩でなんとか知らせることができたらしい。
この話は創作の可能性が高いと言われているが、ハドリアヌスの必死な姿を想像すると、微笑ましいエピソードに私には思える。
この後ハドリアヌスは101年までどのように過ごしたのか、記録はない。次に登場するのは、元老院議員として公職の階梯(クルスス・ホノルム)の第一歩を踏み出すところからである。
公職の階梯(クルスス・ホノルム)
101年、ハドリアヌスは元老院議員として上位の公職にステップアップする、いわゆる『公職の階梯(クルスス・ホノルム)』の道を歩み始める。
なお、共和政時代を中心とした公職の階梯(クルスス・ホノルム)については、政務官 ―共和政の行政を支えた古代ローマの官職―に詳しく記載しているので、ご参考いただくといいだろう。
では青年期と同じく、タイムライン形式でハドリアヌスの足跡を追ってみよう。
階梯のはじめの一歩であり、たいていの議員は財務官からスタートする。帝政期に入ると、財務官は国庫の管理ではなく、次の4つの役割に別れていた。
- 元首財務官:元首(皇帝)の秘書
- 都市財務官:公文書の保管係
- 執政官財務官:執政官の秘書
- 属州総督付財務官:属州総督付きの秘書
ハドリアヌスは元首財務官として公職につくこととなった。
クルスス・ホノルムにはない役職。元老院公式文書の起草を監督する職で、皇帝が任命した。ハドリアヌスの就任時期ははっきりしないが、102年~104年の間に就任したようだ。
ハドリアヌスはこの役職に就いていたあるとき、皇帝の演説を代読した。ところが彼の演説には少し訛りがあった。そのことをバカにされたため、彼は努力して訛りを矯正したのである。現代のアナウンサーばりの職業意識を感じるエピソードだ。
護民官とは、共和政時代に平民の権利を守るために創設された役職のこと。ただし帝政にはいると護民官の職権は皇帝が担うようになり、護民官自体は階梯を登るための役職の一つとして存在するようになる。
本来なら法務官には、護民官を退任してから何年か間をあけて就任する役職だが、ハドリアヌスは護民官退任直後に就任した。これは当時としても異例のことだったようだ。
またハドリアヌスは、法務官任期中に第1軍団ミネルヴァの軍団司令官として、第2次ダキア戦争に従軍している。
トラヤヌスが統治のしやすさを考慮して、パンノニアを上下に分割。その直後にハドリアヌスは下部パンノニアを任された。
属州総督時代に軍規の維持を徹底し、注目を集めた。またゲルマンのスエビ族、サルマタエ族とも交戦し勝利を収めている。
執政官は毎年2名選ばれるローマの最高政務官。共和政時代は政務の決定権とともに、軍指揮権を併せ持つ軍政両責任者だったが、帝政に入ると皇帝がその役割を担うようになる。ただし権威はあったので、就任するとキャリアに「ハク」はついた。
ちなみにハドリアヌスが就いた補充執政官とは、病気など何らかの理由で執政官の一人(あるいは両方)が辞任(退任)したとき、その年のうちに途中から就任する執政官のこと。年のはじめに選ばれる正規執政官よりも、権威は下に見られていた。
トラヤヌスの側近の一人リキニウス・スラ(ハドリアヌスの後見人の一人)が死んだため、ハドリアヌスはトラヤヌスの近くで職務をすることに。
ちなみに『特別秘書官』は、皇帝の演説原稿を執筆する非常に重要な職。
アルコンとは、古代ギリシアの最高指導者のこと。この役職も重要な職で、過去に就任したのはドミティアヌス帝のみ。
アテナイの人たちは、トラヤヌスの血筋に近い人物を高く評価することで現皇帝の機嫌を取り、次期皇帝の後継者になるかもしれない人物を味方につけようとした。
おそらく単なる軍団司令官ではないだろう。この年にはパルティア戦争が開始されている。その参謀本部ないに設けられた補佐官に就任した可能性が高い。
この頃トラヤヌスがパルティア戦争を戦っていたこともあり、後背の拠点であるシリアは最重要属州だった。その総督にハドリアヌスは就任する。
以上がハドリアヌスの皇帝就任直前までのキャリアである。そしてこのとき、パルティアで戦っていた皇帝トラヤヌスは病に侵されていた。
トラヤヌス帝との養子縁組
アルメニア、メソポタミア、アッシュリアを征服したものの征服地での反乱が相次ぎ、さらに自身も病に侵されたトラヤヌスは、ハドリアヌスをパルティア遠征軍最高司令官に任命した。そして自らはローマへの帰路につく。だがトラヤヌスの病状は重かった。彼は死期を悟ったのだろう。
117年8月9日、アンティオキア(現トルコのアンタキア)にいたハドリアヌスは、トラヤヌスの養子となった旨の書簡を受け取った。これはトラヤヌスに皇帝の後継者として指名されたことと同じ意味を持つ。その2日後、トラヤヌスはローマへ帰る途中、小アジアのキリキアで帰らぬ人となったのである。
養子縁組の疑惑
ところがこの養子縁組には、古代の歴史家も現代の史家たちも疑惑の目を投げかけているのだ。果たしてトラヤヌスは本当にハドリアヌスを養子つまり後継者に選んだのか。ハドリアヌスの陰謀ではなかったか、と。
疑惑の根拠1:口封じ
まず根拠の1点目。トラヤヌスの側近である解放奴隷が、皇帝の亡くなった翌日8月12日に死んでいること。さらにハドリアヌスはキリキアの総督を自分の信頼の置ける人物に交替しているのだ。
疑惑の根拠2:演出
2点目は、養子縁組自体が演出によるものだ、という説。すなわち皇后プロティナが、皇帝の寝床にトラヤヌスの声をまねる男を寝かせておき、ハドリアヌスを養子にすると言わせたというのだ。プロティナはハドリアヌスと恋仲で、彼の皇帝就任に対し影で糸を引いたと言われている。
歴史家たちの見解と真相
さらに古代の歴史家の見解では、養子縁組はトラヤヌスの意向に基づくものではないという。ではトラヤヌスは一体どのように考えていたと言うのだろうか。それは下記の3つ。
- 本当は側近の一人を後継者に指名する予定だった
- 自身が尊敬するアレクサンドロス大王にならって、後継者を指名しなかった
- 元老院に後継者リストを渡し、その中の最良のものを選択することを議員たちに任せた
いったいこれらは本当にトラヤヌスの考えなのだろうか。いや、おそらく創作だろう。
まずトラヤヌスの側近を皇帝にしたかったという説だが、この側近はそもそもトラヤヌスより年上であり、法律家としての能力以外に優れたところがなかった。
また複数の候補者の中から選ばせるなど、争いの火種になりかねないことを、トラヤヌスはわざわざするだろうか。もちろん後継者を指名しないことは問題外。アレクサンドロス大王が死んだときに何が起こったかを鑑みれば察しがつくだろう。
結局トラヤヌスの中では、ハドリアヌスが第一候補だったのだ。それは次の2点でも明らかである。
- シリア総督という、最重要属州を任されていたこと
- 近衛隊長にハドリアヌスの後見人アッティアヌスが任命されていたこと
ではなぜトラヤヌスはギリギリになってハドリアヌスを後継者に指名したのだろう。もっと早く指名することはできなかったのだろうか。
元老院はハドリアヌスの日頃のギリシア趣味や人格に対し否定的だった。またトラヤヌスの拡張路線と違い、ハドリアヌスは現実路線、つまり軍縮への道を歩みだそうとしていた。
さらにイタリア系とスペイン系の貴族たちによる政治的な勢力争いがあったため、トラヤヌスは早めに意志を表明することができなかったのではないだろうか。
いずれにしても、ハドリアヌスはまずシリアの軍団兵たちに、「インペラトール(最高司令官)」の歓呼を受けた。これは兵士たちがハドリアヌスを皇帝と認めた、という意思表明である。そして彼は、元老院にトラヤヌスの後を継ぎ皇帝就任の「既成事実」を書簡で送ることになる。
ハドリアヌス、皇帝になる
皇帝就任直後
ハドリアヌスは皇帝に就任後、すぐにローマへと向かったわけではない。前帝トラヤヌスと同様、属州で皇帝となってから、1年ほどローマへは帰らなかったのだ。なぜか。
いくらトラヤヌスから養子縁組という後継者指名を受けたといっても、それだけでは皇帝の地位を確かなものにすることはできなかった。そこでハドリアヌスはローマ帰還前に、皇帝の地位を安定させる必要があったのである。
まず彼は、兵士たちに2倍の賜金(ボーナス)を支給する。そして膨張しきったローマの軍事政策を転換し、専守防衛路線へと変更するにあたり、拡張路線を主張するトラヤヌス時代の将軍から軍指揮権を剥奪した。
またアフリカの西側、マウレタニアの平定を側近の一人に託したことで、ようやく皇帝としての地位を安定させたのだった。
ここまでの処置を済ませた後、ハドリアヌスはトラヤヌスの遺灰のもとへと向かう。そして前帝に弔意を表明したのである。トラヤヌスの遺灰は、彼の遠征に付き従っていた皇后プロティナ、トラヤヌスの姪でハドリアヌスの義母でもあるマティディア、トラヤヌスの後見人アッティアヌスが付き添って、ローマへ送られた。
さらにハドリアヌスは東方国境の強化を図り、またドナウ川沿いに属州を視察してから、ようやくローマへの帰路につくのである。
しかしハドリアヌスの帰還前、イタリアでは恐ろしい事件が起こっていたのだった。
執政官経験者4人の排除
その事件とは、トラヤヌス帝の時代に影響力があった執政官経験者4人が、ハドリアヌスに対する陰謀の疑いがあるとして、処刑されたことである。
その4人とは、次の通り。
- 執政官職を2回経験(99年、109年)
- タラコネンシス総督
- シリア総督
- 105年~106年にかけて、アラビアのナバテア王国平定
- トラヤヌス帝より、凱旋将軍顕彰(凱旋将軍なみの活躍をした証)を授けられ、立像設置を許される
- 執政官職を2回経験(102年、113年)
- 凱旋将軍顕彰および、立像設置のを許される
- マウリ族(アフリカのマウレタニアに住んでいた部族)出身
- 117年、補充執政官に当選
- 属州ユダヤの総督に就任
- ダキア戦争、パルティア戦争でドラヤヌス帝に従軍。活躍する
- 110年、補充執政官に就任
- 属州ダキアの総督を務める
- 有能な軍人で、ハドリアヌスの友人
4人は次の場所で処刑されている。
- コルネリウス・パルマ:タッラキナ(現テッラチーナ)
- ケルスス:バイアエ(現バイア)
- ルシウス・クィエトゥス:旅の途中で殺害
- アウディウス・ニグリヌス:ファウェンティア(現ファエンツァ)
彼らはハドリアヌスの後見人であり、ローマに一足早く帰還した近衛隊長アッティアヌスの主導のもとで排除されたと言われている。では彼らが殺害された真の理由とはなんだったのだろうか。
まず4人に共通するのは、トラヤヌス帝が行った領土拡張の支持者だったということだ。ハドリアヌスが目指す現実路線への転換、積極的な対外戦争は行わず守りに徹するという方策とは真逆の考えだった。
次に彼らは皇帝主導の専制的な政治ではなく、元老院の意向を汲み取る元首政を好んでいたということ。前者はハドリアヌスにその傾向が見られ、後者はトラヤヌスが常々態度で示していたことである。
この4人がハドリアヌス皇帝即位の足かせになるので、アッティアヌスが気を利かせたのではないか、と。
ただし古代ローマの研究者である南川氏は、著書『ローマ五賢帝 』の中で次のような主張を展開した。すなわち当時のローマ政界全体を見渡したところ、スペイン系元老院議員の勢力が大きくなってきたところだった。そこで同郷のハドリアヌスを推すために、影響力の大きいイタリア系のエリートたち(処刑された4人のうち3人がイタリア系議員)を排除したのではないか、と。
少なくともハドリアヌスが彼らの排除に直接関わっていた可能性は薄いと言える。なぜなら排除された一人、アウディウス・ニグリヌスはハドリアヌスの親友だったからである。
ハドリアヌスのローマ帰還
この4人が処刑された真相が何にせよ、ハドリアヌスは陰謀の火消しをするため、ドナウ周辺の属州視察を早々に切り上げてローマに帰還しなければならなくなった。
118年の夏、ローマに帰還したハドリアヌスは、4人の処刑が自分の意志で行っていないことを証明するために、アッティアヌスの近衛隊長職を解任。さらにローマ市民たちには2回目の祝儀を配り、自分が関与したという噂を打ち消すことに務めた(1回目は帰還前に実行)。
さらに元老院に対しては、
元老院の許可なきかぎり、元老院議員を処刑しない
という、不殺の誓いを立てたのである。
もちろん前帝トラヤヌスのことも忘れてはいない。ハドリアヌスは、帰還前にトラヤヌス神格化の許可を元老院に求め、承認を得ていた。そして帰還後にトラヤヌスの遺灰を、彼の功績を称える円柱(トラヤヌスの円柱)に収めた。また死後ではあったが、トラヤヌスが行ったパルティア戦争勝利を称える凱旋式の栄誉が与えられるよう、元老院に取り計らったのだった。
ハドリアヌスの視察旅行
ローマ帰還から3年後の121年、自分の地位が安定してきた頃を見計らい、ハドリアヌスは有名な帝国中の視察旅行を実行した。「旅する皇帝」の誕生である。
皇帝が軍事目的以外でローマの外に出かけることは異例であり、ネロが66年~67年にかけて行ったギリシア旅行以外、前例のないことだった。
同行者たち
まずハドリアヌスの視察についていった同行者はどんな人達だったのか。彼の視察は、皇帝の巡幸にしては非常に少数だった。
- 妻サビナ
- 詩人ユリア・バルビッラ
- ケイオニウス・コンモドゥス(後の皇帝候補)
- 「恋人」アンティノウス
- 官房、および元首顧問会(皇帝の助言役たちの集まり)のメンバー
このほかに近衛兵の分遣隊、それに多数の職人や建築士、測量士も加わった。
つまりこの視察旅行のメンバーは、プライベートだけでなく、行政・裁判出張所+公共土木建築部門の役割もあったのである。
第1回視察旅行(121年4月(8月)~125年夏)
121年4月、もしくは8月にローマを出発したハドリアヌスは、まずガリアのルグドゥヌム(現リヨン)に向かった。そして上部ゲルマニア、ラエティア、ノクリムを巡ってリメス(防壁)の構築をしている。この防壁はドミティアヌスが始めた事業だったが、ハドリアヌスはより強固にするため強化に努めた。
そして海を超えブリタンニアへと上陸。ここでかの有名な『ハドリアヌスの長城』建築を指示。ハドリアヌスの長城については、後ほど詳しく説明する。
122年秋にはガリアに戻ってネマウスス(現ニーム)を訪れ、まだ存命中にもかかわらずプロティナに捧げたバジリカを建設した。
さらにヒスパニア(スペイン)のタラッコ(現タラコナ)へと向かい、アウグストゥス神殿の修復や徴兵に関する紛争を解決。ここから一気にシリアへと旅立ち、おそらくパルティアとの国境にあるリメス(防壁)を訪れたのではないだろうか。
その後小アジア(現トルコ)へと向かい124年には属州アシアを訪れる。そしてエフェソスからロドス島、ギリシアへと渡った。ギリシア各地を巡ったあと、125年夏にシチリアへ。有名なエトナ山に登って、ローマへと帰還した。
第2回視察旅行(128年~133年/134年)
125年にローマへ帰還したあと、127年3月~8月にはイタリア北部を視察。そして128年、2回めの大旅行へと出発した。
まずシチリアを経由して北アフリカへと向かう。ここで何か所かを訪れて軍隊を視察、さらにアフリカ西部のマウレタニアにも足を運んだようだ。ここで一旦ローマへ帰還するが、すぐさまギリシアのアテナイへと出発。アテナイでは大公共事業を行って「オリュンピオス」の称号を贈られる。
その後スパルタやエレウシスへ向かい、「最高の密儀」に参加。実は1回目の視察旅行でもハドリアヌスはエレウシスを訪れ、密儀に参加している。
その後小アジアのエフェソスに渡ったハドリアヌスは小アジア各地を訪問。ミレトス→カリア地方→トラッレス→フリュギア地方のラディオケイア→アパメイア→メリッサ→カッパドキアを経由して、シリアのアンティオキアに到着。メリッサではアルキビアデスの墓を訪問し、彼の立像を立てたという。
さてアンティオキアを出発したハドリアヌスは、その後パルミラ→アラビアのゲラサを経由し、ユダヤのイェルサレムを訪れる。この地に自分の氏族名をつけた都市『アエリア・カピトリナ』を建設するが、これが後の第二次ユダヤ戦争を引き起こす引き金となった。
イェルサレムを後にすると、ペルシオンを経由してエジプトを訪れる。ペルシオンではポンペイウスの墓を訪問した。ポンペイウスはこの地で暗殺され、葬られていたからだ。
そしてアレクサンドリアからナイル川をさかのぼってリビア砂漠に到着すると、「恋人」アンティノウスと狩りを楽しんだ。
小アジアのビテュニア地方出身。ハドリアヌスが東方を視察していたときに出会う。青年の美しさをひと目で気に入ったハドリアヌスは、彼を旅に同行させた。
ところがナイル川航行中にアンティノウスが川に落ち、水死する事故が起こってしまう。ハドリアヌスは事故現場の近くに、「恋人」の名前をつけた都市『アンティノポリス』を創建。そしてテバイでメムノンの巨像を観たあと、アレクサンドリアから船に乗りトラキア地方へと向かった。
さらにアテナイへ3度めの訪問を済ませて戦争の起こったユダヤへと向かい、パンノニアを視察してローマに帰還した。
視察旅行の目的
ハドリアヌスの在位21年のうち、10年というじつに半分近くも費やした大視察旅行。この視察の目的は一体なんだったのだろうか。まとめると次のようなことだった。
- ローマ帝国の資源とニーズの把握
- 軍隊や防壁の査察
- 属州行政の監督
- 臣民からの意見聴取
- 各地での裁判開廷
- 福祉向上を目的とする、公共事業の決定
- 皇帝自身の訪問による帝国の一体感実現
このうち、特に(2)は「軍事改革」で改めて説明する。また(6)の具体例も「建設・公共事業」で説明しよう。
また(7)は、ローマ帝国が広大な領域におよぶことで、どうしても希薄になる共同体意識を芽生えさせるために、非常に有効な手段だった。その証拠として、ハドリアヌスは訪問先の各地で神として崇められ、祀られている。
私の個人的な感想としては、1回目の視察旅行は帝国北方を訪れたためか、防衛ラインの視察により重点が置かれ、2回目では防衛ラインの視察はそこそこに、公共事業と個人の観光により力を入れている印象がある。
帝国中を視察したハドリアヌスを、詩人のフロルスは次の詩で皮肉った。
皇帝なんかになりたかない。
ローマ五賢帝 プロローグ――人類が最も幸福であった時代
ブリトン人(現イギリスに住む人のこと)の間をうろついて。
……(欠損箇所)の間に潜んで。
スキュティア人たちの地の冬を
辛抱せねばならぬから。
いくら皇帝になれたからといっても、休むまもなくわざわざ厳しい環境のところにまで赴いて、視察の旅をしなければならないのは、さぞかし疲れるだろうという意味だ。
しかしハドリアヌスも負けてないない。フロルスの詩に対し、彼は次の詩で返答したという。
フロルスのようにはなりたくない。
ローマ五賢帝 プロローグ――人類が最も幸福であった時代
安料理屋の間をうろついて。
居酒屋に潜んで。
まるまる太った蚊の餌食になることを
辛抱しなければならぬから。
対句となった、見事な返答の詩だろう。
ハドリアヌスの改革
第2回視察旅行で触れた第二次ユダヤ戦争(またはバル・コホバの乱)を説明する前に、ハドリアヌスが行った改革を紹介しよう。
法整備
ハドリアヌス時代に、『永久告示録(エディクトゥム・ペルべトゥム)』と呼ばれる法典が編纂された。責任者は元首顧問会のメンバーで法学者のサルウィヌス・ユリアヌス。
法務官や属州総督は裁判を行い、そこで出した判例の告示(公の場で決まったことを、広く知らせること)を行っていた。それは彼らが命令権と呼ばれる行政、裁判の権限を独自に持っていたからである。
しかし時代が進むと法務官(や総督)の告示は膨大な数になっていた。そこで法務官が過去に布告した法を集め、それを基にする必要が生まれたのだ。
ハドリアヌスは、法務官や属州総督が布告した法の基本的な規定を集成した。おそらく彼の中ではこの判決例を参考にすることで裁判がスピーディに行え、なおかつ判断がぶれないようにしたのではないだろうか。
『永久告示録(エディクトゥム・ペルべトゥム)』は、6世紀まで法典として使用された。
行政改革
初代皇帝アウグストゥスが創設した、情報を迅速に伝達するための駅伝制度。この制度を支える中継地点の宿や施設は各属州や自治都市が負担していた。しかしこの負担は非常に重く、属州公職者の頭痛のタネになっていた。
そこでハドリアヌスは駅伝制度の組織改革を断行。一部を国庫から支出することで属州の重い負担を軽減した。
ドミティアヌス帝の時代(在位81年~96年)から始められた、中央行政組織の長に騎士身分のものを登用することを、ハドリアヌスは強力に推進した。また皇帝の官房事務局の役割を果たしていた皇帝私邸の事務の責任者を、解放奴隷(ファミリア・カエサリス)から騎士身分のものに交替させた。
この改革で、「官房」はより効果的かつ迅速に処理できるようになった。
密偵制度
ハドリアヌスの改革は、光ばかりではない。それがフルメンタリイと呼ばれる密偵の存在である。
フルメンタリイはフルメントゥムからきており、穀物を取り扱う係官を意味する。もともとは軍隊用の食糧を管轄するものだったが、それが軍の伝令を担い、特に皇帝の伝令として働くようになった。それが秘密警察の役割に変わってしまったのである。
こんな話がある。
ある女性が夫に手紙を書いた。そこには夫が享楽にふけり、浴場から帰ってこないことを嘆いた文が書いてあった。密偵を通じてそのことを知ったハドリアヌスは、その夫が休暇を願い出たとき、彼の行いを避難した。するとその夫は皇帝にこういった。
それでは陛下、私の妻は私に書いたように、あなたにも手紙を書いたのでありましょうか
これは笑い話だが、ハドリアヌスが密かに議員や官僚たちの身辺を探らせていたのは、確かなようである。
軍事改革
ハドリアヌスが行った改革の中でも、最も大きいのが軍事改革だろう。対外政策の180度変更と、それに伴う軍事的な方針は、彼の政治の根源をなすといっても過言ではない。
ハドリアヌスは、トラヤヌスが奪い取った
- メソポタミア
- アッシュリア
の2州をパルティアに返還した。さらに突出地域であるアルメニアを放棄し、ローマの東方国境をユーフラテス川に再設定したのである。
その上で、アルメニアや他の国に親ローマの王を立てて従属国とした。またパルティアとは戦いではなく、もっぱら交渉で問題の解決を図った。
ハドリアヌスはまず、ローマ帝国の軍団総数を30から28へと減少した。軍団数の減少が可能になった理由は、後ほど説明する防壁の構築である。これにより、
- 第9軍団ヒスパニア
- 第22軍団デイオタルス
が廃止された。
またハドリアヌスの時代、兵士の数は31万5千から30万の間で、これと同数程度の補助軍がいたとされる。この兵士たちの構成にも変化が表れている。
まずイタリア人の割合が減少し、代わりにガリアやスペイン人の入隊が増加した。ただし百人隊長は、ポー川以北のイタリア人か、西方属州の出身者だった。また現地から補助軍兵士を徴募することで、兵員・物資・食糧輸送を削減でき、予算を大幅に減らすことが可能になった。
もう一つハドリアヌス時代の特徴として、『非正規部隊(ヌメリ)』の存在がある。この部隊はトラヤヌス帝時代から始まっており、ハドリアヌスが制度がしたものだ。
非正規部隊(ヌメリ)とは、民族の特徴や言語、武器、指揮官はもとのまま維持された、従属国出身の部隊である。共和政時代の同盟軍がこれに近いだろう(ただし共和政時代の指揮官はローマの執政官だったのだが)。
またヌメリには、次のような兵種のものがあった。
- 騎馬弓兵:騎馬に乗りながら弓を射つ部隊。パルティアや東方の軍に多い
- 装甲騎兵:別名『カタフラクト』。馬に金属の防具で身を守る騎兵隊
- メハリ騎兵(ドロメダクイ):ヒトコブラクダに乗った騎兵
ハドリアヌスが兵士について常に気を配っていたエピソードがある。
風呂好きのハドリアヌスは、ある時浴場で見知った顔の退役兵が、壁に背中や体を擦り付けているのを発見する。何をしているのかと尋ねると、男は言った。私には体を擦ってくれる奴隷がいないから、こうやって一人で工夫して洗っているのだと。そこでハドリアヌスはこの退役兵に、数人の奴隷と奴隷を養う費用を送ってやったという。
ところが話はここで終わらない。別の日にハドリアヌスが浴場に出かけると、何人もの老人たちが退役兵と同じく体を壁に擦り付けているではないか。褒美がお目当てだと気づいた皇帝は、彼らに言った。そんなにキレイになりたいなら、互いに体を磨きあえばいいではないか、と。
兵のことを考えると同時に、ウィットに富んだハドリアヌスのエピソードである。
軍事改革の中でハドリアヌスが特に力を注いだのが、防壁の建設や強化だった。
堡塁(要塞のようなもの)とその間をつなぐ高い壁でできた防衛線。
では具体的にハドリアヌスが建設や強化した防壁を紹介しよう。
ブリタンニア(ハドリアヌスの長城)
ハドリアヌスがブリタンニア属州(現イギリス)に建設した「イギリス版万里の長城」。121年、プラトニウス・ネポスを責任者に任命し建設開始。ソルウェー湾からタイン川まで、全長117.5kmにもおよぶ。ブリテン島の北部は経済的な利益が乏しいと考えられていたために、「蛮族の地域」から「ローマ化された地域」を防壁で塞いだのである。
はじめは木と土で防壁が作られていたが、徐々に強化された結果、大部分を石で建設するまでになった。防壁の幅は塹壕や芝地帯も含めると35メートル以上になる。
補助軍の砦が16基あり、1.6kmごとの小さな砦80基が補助軍砦と結ばれていた。さらに中間地点には、監視塔も立てられていた。
ゲルマニア
ライン川とドナウ川の合流地点にある防壁。ドミティアヌス帝の時代から建設が開始された。ハドリアヌス治世末期には、フランクフルト北方からシュトゥットガルトを経由してレーゲンスブルクにまで達する、約550kmの長大な防壁が完成。
この他にもダキア(現ルーマニア)や北アフリカにも、敵の侵入を防ぐ防壁を作った。
防壁が果たした役割
これらの防壁にハドリアヌスが期待したのは、もちろん軍事費の削減である。防壁が強化されるほど、国境に配置する兵士の数が少なくてすむからだ。
しかし防壁の果たした役割はそれだけではない。実は国境地帯の経済を振興する役割もあったのだ。なぜなら防壁近くには兵が配置されるため、この兵士たちに対する市場(商品の売り場)があったのだ。防壁の内側は安全なため、商人たちも安心して商品を売ることができた。
経済が振興すれば、それに恩恵を預かることができる。つまり国境地帯のローマ化も推めることができたのだった。
第二次ユダヤ戦争
軍事改革でも記載したとおり、ハドリアヌスは領土拡張路線から専守防衛路線へと切り替えた。その影響でハドリアヌスの時代は平和だったイメージがあるかもしれない。
しかし彼の統治期間中も、ローマ国内で度々争いは起こっている。その最も激しかったものが、132年に起こった第二次ユダヤ戦争(別名バル・コクバの乱)だ。
※ちなみに第一次ユダヤ戦争は、ネロ帝末期の66年から73年に起こっている。
なぜ戦争は起こったのか
第二次ユダヤ戦争はなぜ起こったのだろうか。その原因は次の2つ。
- ユダヤ人たちの風習である割礼(男性器の包皮を切り取る儀式)の禁止
- ユダヤ人の本拠地イェルサレムに、自分の名をつけた新しい都市を建設
特にユダヤ人の反発を招いたのは、2つ目の新しい都市を築いたこと。ハドリアヌスは都市の建設に加えて、かつてあったヤハウェ(ユダヤ教の唯一神)神殿のかわりに、ローマの最高神ユピテルの神殿も建設したのだ。
これがユダヤ人たちの逆鱗に触れてしまった。なぜ慎重で思慮深いハドリアヌスが、宗教的な寛容を示さなかったのかはわからないが、年を追うごとに気難しくなっていっただけなのかもしれない。
いずれにしろユダヤ人たちは、ユダヤ教の大祭司エレアザルと軍事指揮官バル・コクバに率いられ反乱を起こした。132年のことだった。
ローマ側の対応
ユダヤの反乱に対し、ローマは次のような対応をとる。
まずシリア・アラビア・エジプトから派遣された軍団で対応。さらにドナウ側流域で徴募された兵たちを加えて反乱鎮圧にあたった。また歴戦の将軍でブリタンニア総督のユリウス・セウェルスを、反乱鎮圧軍の司令官に抜擢した。
この反乱鎮圧にたいしローマ艦隊も出動、海からの支援を担当する。そして133年から134年にかけ、視察旅行の一環としてハドリアヌス帝自ら現地入りしている。
結局3年以上続いたユダヤ戦争は135年に鎮圧された。反乱に加わったユダヤ人たちは大量虐殺、奴隷化、土地没収など、厳しい処分が下された。また彼らに人頭税が課され、多数のユダヤ人たちがイェルサレムから強制移住させられたのである。またイェルサレムへは8月9日の年1度以外、訪問が禁止された。
一方ローマ側も被害が大きかったようだ。皇帝が元老院に対して手紙を書くときは、
貴殿やお子たちがご健勝であれば何よりであります。わたくしも、わが軍団とともにつつがなく過ごしております
という常套句を使っていたが、このときばかりはハドリアヌスも使うことができなかったという。
ユダヤ戦争の結果、イェルサレムはシリア・パレスティナ属州の州都「アエリア・カピトリナ」として生まれ変わったのだった。
後継者問題とハドリアヌスの死
第二次ユダヤ戦争が終結したとき、ハドリアヌスは60歳を間近に迎えていた。また彼は病にも侵されていたのである。帝国の混乱を招かないためにも、後継者を早急に決めなければならなくなっていた。
血縁者との関係
皇帝の後継者を決めるにあたって、やはり第一候補は実子である。しかしハドリアヌスには妻サビナとの間に子どもがいなかった。ではハドリアヌスの血縁者は他に誰がいたのだろうか。
ハドリアヌスには、姉(妹)の孫フスクスが唯一血縁として残されていた。フスクスの父親は118年、ハドリアヌスの同僚執政官となっていたが、数年後になくなっている。いっぽうフスクスの祖父ユリウス・ウルスス・セルウィアヌスはまだ生きていた。
しかしハドリアヌスはフスクスを後継者に選ぶことはなかった。代わりにエトルリア系の名門貴族ケイオニウス・コンモドゥスを養子に迎えたのである。
そればかりではない。ハドリアヌスは祖父セルウィアヌスと孫フスクスを、
ケイオニウス・コンモドゥスの養子縁組を喜ばなかった
という理由で自殺に追い込んだのだ。
ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス
では血縁者を排除してまで選んだ、ケイオニウス・コンモドゥスとは何者なのか。
彼は136年、ハドリアヌスとの養子縁組が成立した時点で35歳だったようだ。年齢的には申し分ないが、『ローマ皇帝群像(ヒストリア・アウグスタ)』では、
美男子程度の取り柄しかなく、繊細かつ伊達者、独特の料理のわざをもち、惰弱な遊蕩者の洗練さ、という点で秀でる
と、政治的な能力に疑問符がつく辛辣な人物評価を受けている。
私などはこの評価から、オリーブオイルを目一杯料理にかける「速水もこみち」氏を想像してしまったが、どうだろう。
しかし一方で、シュヴァリエ/ポワニョ共著の『ハドリアヌス帝(白水社) 』だと、次のような評価をされている。
- 弁舌さわやか
- 公務では能力を存分に発揮
- ハドリアヌスが託した属州統治は非の打ち所がない
この通りだと確かに優秀な人材ではあるものの、元老院のなかにはこのような人物が他にいてもおかしくはないだろう。ではなぜハドリアヌスはケイオニウスをわざわざ養子にしたのだろうか。
実はケイオニウスは執政官経験者4人の排除で記載した粛清対象の一人、親友アウディウス・ニグリヌスの娘婿だったのだ。ハドリアヌスは晩年になって救えなかった親友の罪滅ぼしをしたのだという。
加えて南川氏は、ケイオニウスがイタリア系の名門貴族という出自にも注目している。スペイン系の派閥勢力が大きくなりすぎないように、イタリア系の貴族たちにも配慮した結果だというのである。
さてそのケイオニウスだが、公職の階梯(クルスス・ホノルム)では法務官までしか経験がないため、ハドリアヌスは次のように彼を公職に抜擢している。
- 136年、正規執政官
- 137年、2回目の執政官、さらに上下パンノニア属州総督就任
属州総督については、軍隊の知名度を上げるための措置だろう。
さらにケイオニウスの名を、『ルキウス・アエリウス・カエサル』に改名。ハドリアヌスの氏族名『アエリウス』と副帝を意味する『カエサル』を名につけた。また、皇帝の重要な職権、護民官職権(トリブニア・ボテスタス)を与えた。
ところが、もともと頑強ではなかったためか、ケイオニウスはパンノニアで病に侵されると予定より早くローマに帰還。138年1月1日には死んでしまったのだ。
ハドリアヌスはケイオニウスに対し、皇帝と同等の葬儀を行ったという。
アントニヌス、アンニウス・ウェルス、ルキウス・ウェルス
ケイオニウスが亡くなってしまったため、すっかり予定が狂ったハドリアヌス。しかし自分の寿命が刻一刻と迫りつつあることを、我が身をもって感じていたのだろう。138年2月25日には、早くもアントニヌスを養子に迎える。
このアントニヌス(次の皇帝アントニヌス・ピウス)は、どういった人物か。
彼は南フランスにあるネマウスス(現ニーム)出身で、イタリアに広大な土地を持つ大富豪だった。120年に正規執政官を務め、元首顧問会のメンバーにも入っていた。134年にはアシア属州の総督を務めたが、素晴らしい統治が評判だったという。
ただしこの経歴だけであれば、特に突出したところはない。ではなぜハドリアヌスはこの人物を養子にしたのか。
詳しくは南川氏の『ローマ五賢帝』にゆずるが、アントニヌスは南フランス出身でありながら、スペイン系の貴族につながっていた。さらにプラウティナという女性(ケイオニウス・コンモドゥスとも繋がりがある)を通じて、イタリア系貴族とも通じていたのである。
さらに、ハドリアヌスはアントニヌスの養子として、スペイン系大貴族のアンニウス・ウェルスの孫であり、アントニヌスの妻の甥にあたるアンニウス・ウェルス(後のマルクス・アウレリウス帝)と、死んだアエリウス・カエサルの遺児ルキウス・ウェルスを養子とさせた。
またアンニウス・ウェルスとルキウス・ウェルスの姉ケイオニア・ファビナを婚約させたのだった。
これを見てもわかるように、ハドリアヌスの狙いは2世代にわたるスペイン系貴族の因子とイタリア系貴族の因子の融合という、壮大な計画だったのである。
養子問題に苦い記憶のある、ハドリアヌスらしい措置ではないだろうか。
ハドリアヌス死す
後継者問題の措置をすべて済ませた138年7月10日、ハドリアヌスは息を引き取った。享年62歳。
詩の才能も持ち合わせていたハドリアヌスらしく、死の床で次の詩を詠んだといわれている。
さまよう愛すべき小さな魂よ。
ローマ五賢帝 第三章 賢帝か暴君か
汝(なんじ)は肉体の客人、仲間(とも)であった。
今、その汝が蒼白く硬く装いもない、
あの場所(ところ)へ消え失せてしまうのか。
いつもの戯(たわむ)れを言うこともせず。
ただしこの詩がハドリアヌスの残したものかどうかは定かではない。
ハドリアヌスの死後、元老院ではハドリアヌスを『記録抹殺刑』とする処分が検討された。彼は生前元老院との対立から議員の評判があまりよくなかったのだ。今日賢帝と認識されているが、同時代の元老院議員からはよほど人気がなかったのだろう。
しかし後を継いだアントニヌスが、元老院に対しこう主張したという。
わかりました。では、もし彼が下劣で諸君に敵対する者で、「国家の敵」とされるのであれば、、わたくしは元首(皇帝)の位に就くのをやめることにしよう。なぜなら、諸君が彼を「国家の敵」とすることで彼の行為すべてが無効となるのであり、その無効となる行為の中に、わたくしの養子縁組も含まれているのであるから。
ローマ五賢帝 プロローグ――人類が最も幸福であった時代
アントニヌスの「おどし」ともいえる主張により、ハドリアヌスは無事神格化されることが決まった。
ハドリアヌスが残した文化的業績
ハドリアヌスはあらゆる学問に通じていた万能の持ち主だった。その彼らしく、帝国中に色々な足跡をのこしている。ここでは生前にハドリアヌスが残した、文化的な業績のごく一部を紹介しよう。
※ただし上記ですでに紹介したものは除く。
建設・公共事業
ハドリアヌスの墓廟とアエリウス橋の建設
現在『サンタンジェロ城』として有名な、テヴェレ川西岸にある建物。ハドリアヌス死後の139年に完成。中世では城塞として使われていたが、もともとはハドリアヌスが自分の亡骸を弔うためのお墓として作ったもの。
ハドリアヌスの墓廟正面には、ハドリアヌスの氏族名から名付けたアエリウス橋がかかっている。こちらもハドリアヌス帝が建設。現在は『サンタンジェロ橋』という名で、両側に天使の彫像が立っている。
ウェヌスと女神ローマの神殿の建設
知られている中では古代ローマで最も大きな神殿。ウェヌス・フェリクス(幸運なるウェヌス)と女神ローマのために建てられた。
パンテオン
すべての神々を祀る神殿、万神殿(パンテオン)。もともとは初代皇帝アウグストゥスの右腕であるアグリッパによって建立されたが、80年、117年の焼失を受け、ハドリアヌス帝時代に再設計し立て直された。
前面のポルティコ(列柱廊)入り口と、奥にあるロトンダでできており、コンクリートのドーム型建物としては、世界最大級の大きさを誇る。
パンテオンについてはパンテオン ―1,900年前の姿を残す、古代ローマコンクリート建築の芸術―でも詳しく解説しているので、ご確認いただくといいだろう。
ウィラ・アドリアーナの建設
ローマ郊外のティボリにあるハドリアヌスの別荘。1.2km(120ヘクタール)の敷地に40近くの建物や施設が配置されている。ハドリアヌスがローマに帰還した118年に建設が開始され、最終的に133年頃完成したようだ。
雑然と建物などが配置されているように見えるが、実は地下に連絡網が張り巡らされており、駐車場や厩舎(馬たちの建物)、さらに街道へと続いていることから、綿密に計算されたものだったらしい。
オスティアの各建物建設・整備
ハドリアヌスは、オスティアの二人官(都市の最高政務官)に自ら着任したこともある。そのときに彼はこの港町に対して様々な公共物を提供した。ざっとリストアップすると、次の通り。
- フォルムとカピトリウム神殿の整備
- セラピス神殿の建設
- 夜警消防隊の兵舎の建設
- ネプトゥヌス共同浴場の建設
- 七賢人の共同浴場建設
- 街区の整備
オスティア・アンティカに関しては、オスティア・アンティカ ―首都ローマの玄関港として栄えた双子都市―にも詳しく記載しているので、ご一読いただければと思う。
フキヌス湖の干拓
フキヌス湖は、ハドリアヌス以前にクラウディウス帝が干拓工事を行っていたが、完全に水を抜くことはできなかった(140km2 → 90km2)。そこでハドリアヌスはクラウディウスの事業を受け継ぎ、干拓工事に着手。57km2まで湖の面積を減らすことはできたが、完全に水を抜ききることはできなかったようだ。
ギリシア ハドリアヌスの凱旋門
ギリシア・アテネ市にあるローマ時代の凱旋門。ただしこれはハドリアヌスがギリシアに多大な恩恵を与えたとして、アテナイの市民が奉献(ハドリアヌスのために建てた)したようだ。
ギリシア ゼウス神殿
こちらもギリシアのアテネにあったゼウス神殿。建設自体はなんとハドリアヌスの600年以上もまえに始まっていたというから驚く。古代のサグラダ・ファミリアといったところか。
度重なる中断の末に、ハドリアヌスが強力に推進したこともあり、131年にようやく完成。
北アフリカ レプティスマグナの公共施設
レプティス・マグナとは北アフリカの都市で、現リビアのアル=フムス市にある。ハドリアヌスはこの都市の公共事業を行った。中でも公共浴場の建設は有名。
北アフリカ ザクーアンの水道
北アフリカ、カルタゴ市に引くザクーアンの水道を建設したのも、ハドリアヌスの業績。ザクーアン水道では、帝国最長となる132kmの水道橋を建設した。
歴史学
主に活躍したのは、ネルウァ・トラヤヌス帝時代。ハドリアヌス帝の前半に死去したとされている。帝政前期のユリウス・クラウディウス朝を描いた歴史書『年代記』、4皇帝の時代からフラウィウス朝を描く『同時代史』、タキトゥスの義理の父であるブリタンニア総督アグリコラの伝記『アグリコラ』などを表した。
純粋にハドリアヌス時代に著作を表したことがある歴史家は、『ローマ皇帝伝』を表したスエトニウスだろう。騎士身分でありながら、彼はトラヤヌス帝時代から高級官僚として重用されていたようだが、何らかの理由でハドリアヌス帝時代に職を失ったらしい。
ギリシア人の歴史家であり、『プルタルコス英雄伝』の名で親しまれている人物の伝記集、『対比列伝』を書いたのはこのプルタルコスである。彼は46年頃生まれ、126年頃に死去したとされている。
ハドリアヌス帝時代を舞台にした作品
ハドリアヌス帝の回想
ハドリアヌスの伝記を、彼の回想という形で語るユルスナールの名作。基本的に史実に即しつつも、マルクス・アウレリウス宛の手紙なので、ハドリアヌスが何を思ってそのときの行動を起こしたのか、内面を描いていることに特徴がある。
テルマエ・ロマエ
ハドリアヌスが登場する作品は意外と少ないのだが、その中でも珍しくこの皇帝にもスポットを当てているのが、テルマエ・ロマエだ。
作品の内容は浴場設計士のローマ人ルシウスが、現代日本とローマ時代でタイムトリップをしつつ、日本の文化にアイデアをもらいながら、お風呂の設計に活かすという荒唐無稽な内容。しかしハドリアヌス帝の話や奴隷についての意識、ローマ文化についてはしっかりと作者に根付いた内容となっていて、意外と本格的なローマ文化を堪能できる。
平たい顔族(日本人)文化に翻弄されるルシウスに、クスリと笑いが欲しいあなたは、ぜひご一読を。
今回のまとめ
それでは皇帝ハドリアヌスについて、おさらいしよう。
- ハドリアヌスはスペイン系の名門貴族として、また皇帝トラヤヌスの従甥として生まれた。
- ハドリアヌスは幼い頃よりどの方面でも優秀な成績を治める万能の人だった。
- ハドリアヌスは青年期や公職の階梯を順調に過ごし、トラヤヌスの側近として活躍した。
- トラヤヌスの死後、皇帝位を継承したものの4人の執政官経験者を殺害するなど、順調な継承とは言い難かった。
- ハドリアヌスはトラヤヌスの対外拡張路線から、防衛路線に切り替え、リメス(防壁)を強化するなどして軍事費の削減に務めた。
- ハドリアヌスは治世の半分を視察旅行に費やし、各地で公共事業や軍規の引き締めを行った。
- ハドリアヌスの治世は概ね平和だったが、ユダヤに対する強引な政策からユダヤの反乱を引き起こした。
- ハドリアヌスは後継者選びを慎重に行い、スペイン系貴族とイタリア系貴族の融合を考えて2世代先まで皇帝の継承を決めていた。
- ハドリアヌスの死後、元老院は『記録抹殺系(ダムナティオ・メモリアエ)』を検討したが、次期皇帝アントニヌスに反対され、ハドリアヌスの神格化を決めた。
ハドリアヌスは非常に優秀な皇帝ながら、その生涯は常に光と影がつきまとう、波乱に満ちた皇帝だった。しかしハドリアヌスが帝国各地に目を配ったおかげで、その後30年もの間帝国は平和を保つことができたのである。