4年にも渡った内乱は、ムンダの戦いで終了した。
カエサルの前から、武力で抵抗を試みる反対派は一掃されたのである。
ついにカエサルは、自らのプランを実行に移す時が来たのだ。
すなわち、共和政ローマを帝政へと移行させるという考えを。
カエサル、『ローマ帝国』創設を目指す
カエサルの改革
ムンダの戦いを終えたカエサルは、ついに内乱を終結させたのである。
ローマへと帰還したカエサルは、前年に独裁官の任期を延長したが、今回は10年の任期を市民集会で可決させた。
ようやくカエサルは、国家大改造に着手することできるのだ。
ここでもう一度カエサルが何を目指したのかおさらいしよう。
カエサルは、グラックス兄弟から指摘されてきた国家の矛盾を解消するには、元老院主導体制では不可能と判断した。
しかし民主政は、ギリシア諸都市の例を見るかぎり、目先の利益に流されて、やがて腐敗していくと考える。
事実、市民集会も共和政末期になると、元老院同様、機能不全に陥っていた。
ではカエサルは一体どのような政体にする必要があると考えたのか。
カエサルは、優れた政治能力のある個人が判断し、スピーディに決断できるシステムにすべきだと考えたのである。
600人もいる元老院では、ことを決するまでの時間がかかりすぎ、さらに利権のぶつかり合いで正しい判断を下せないことも多かった。
このようなことを超越できる個人に任せることを、カエサルは次の政体にすべきだと判断したのである。
このような理念を持つカエサルが、独裁官となって以降、どのような改革をおこなったのか。
カエサルは、長らく使われてきたローマの暦(ヌマ暦)により、季節が3ヶ月もずれていることに気づいた。
そこでエジプトやギリシャの科学者、天文学者をよび、暦を新たに制定し直したのである。
カエサルの暦である『ユリウス暦』については、古代ローマの暦(こよみ) ―現代のカレンダーにも名残を残す、生活サイクルの基準―に詳しく書いているので、ご覧いただければ参考になるかと思う。
この暦はあくまで国際暦であって、現地人に強要したわけではなかった。
そのため、属州によっては太陰暦を併用していたところもあったのである。
カエサルはローマ市民権をルビコン以北、アルプス以南の北イタリアの住人にまで拡大した。
また、南仏、シチリア島の住人にはローマ市民権の選挙権のみないラテン市民権を与えたのである。
これはカエサルの戦争中に惜しみない支援を続けたという恩に報いる意味と、ローマ化して久しいため、ローマ人として認めても問題なし、という現実的な意味があった。
元老院
カエサルは、元老院議員の議員数を600人から900人に増員した。
そして増員分は、カエサルの配下であった百人隊長や、属州にすむローマ市民権をもつ人々を議員としたのだ。
元老院の権力を削ぎ落としたいカエサルが、なぜ元老院議員を増員したのか。
理由は次の2つ。
- カエサルの支持議員を増やし、権力基盤を確実にするため
- 増員によって、元老院の弱体化を目論んだため
カエサルの考える元老院とは、カエサル(後の皇帝)の補佐機関としてしか機能しなくてもよく、「元老院最終勧告」を発令して強権を振るう機関であってはならなかった。
市民集会
またカエサルは、市民集会の選挙を、カエサルが考え決めたことを追認するシステムにすることで有名無実化したのだ。
だがこれは、ローマ市民権が本国に適用された同盟市戦争以来、有名無実となっていることの確認だったのである。
護民官
護民官も象徴として残った役職である。
独裁官には「拒否権」を発動することができないので、こちらも有名無実と化した。
終身独裁官
独裁官とは、権力の集中をきらったローマ人が、危機管理用に設置した役職である。
行政の全権限をもっているだけではなく、軍の絶対指揮権もっている。
前述したように、拒否権はきかない。
また、この役職は同僚のいない一人きりの役職であり、貴族、平民などの身分を超越して、挙国一致で緊急事態に当たる、というのが本来の目的であった。
カエサルは独裁官を終身(死ぬ、もしくは引退するまで)とすることで、優れた個人による素早い決断ができる統治システムを確立しようとしたのである。
カエサルは国家ローマの造幣所を作り、そこで金貨、銀貨、銅貨を発行するようにした。
といっても、各属州で使われていたり、発行されている通貨も併用している。
さらにこの通貨の換算率を、これまでの変動制から固定制に変更した。
また、これまで自由であった利息率の上限を12%に設定した。
あまりにも高い利息率は、経済格差を助長し、活発な経済活動が停止してしまうからである。
首都ローマ
カエサルは、これまで行政の最高責任者であった執政官を、独裁官の補佐役として、事実上機能するようにした。
なぜなら、これからは独裁官が行政の最高責任者なので、執政官の役割を大幅に削って問題なかったからである。
また、執政官の下の法務官を8人→10人へ。
法務官の任期を終えると前法務官(プロプラエトル)となり、「絶対指揮権(インペリウム)」を与えられて属州総督になる権利を持つのである。
ローマの領土が大きくなったので、増員は必要であった。
さらに、財務官(クァエストル)も20人→40人に倍増。
按察官(アエディリス)も4人→6人に増やした。
地方自治体(イタリア本国のローマ以外の都市)
地方自治体には中央から派遣されてくる長官がいる。
この長官とともに地方の行政を担当するのが地方議員たちだ。
カエサルは、地方議員への被選挙権を制度化した。
- 兵役経験無し・・・30歳以上
- 軍団歩兵経験者・・・23歳以上
- 騎兵、ないし百人隊長経験者・・・20歳以上
解放奴隷の公職門戸解放
カエサルは、解放奴隷(元奴隷)が、公職につけるよう、制度化した。
国営造幣局の初代三人委員会のメンバーは、カエサル家の元奴隷であった。
これは首都ローマだけに限らず、ローマ市民権を持つものなら誰でも公職への道を開いたのである。
属州統治
カエサルは属州を、スッラが変更した10州から18州へと再編した。
これは単にスッラの時代から領土が増えたから、というだけではない。
カエサルは属州を、経済力で再編したのである。
また、属州は従来どおり属州総督が監督、防衛を担当するが、属州内の行政に関しては、属州それぞれのやり方を踏襲する議会を認めた。
さらに共和政末期に問題となっていた重税の正体である徴税請負人制度を廃止し、公的な徴税機関を設置。
徴税の公正化を目指したのである。
もう一つは宗教である。
カエサルはユピテル、ユノー、ミネルウァをローマの主神とするよう定め、この神々を祭る日を休日とした。
だが、属州で信じられている各々の神々については、自由であるとしている。
カエサルは、司法における控訴権と陪審員の改革にも着手した。
控訴権
グラックス兄弟の弟ガイウス・グラックスが定めたセンプロニウス法により、
ローマ市民権を持つものであれば、裁判もせず、控訴の機会も与えず刑にに処すことを禁ず
とされていた。
だが、「元老院最終勧告」の乱発により、センプロニウス法は有名無実化していた。
カエサルは、センプロニウス法を再興し、ローマ市民はだれでも裁判および控訴の権利を有することを見直したのである。
これにより、伝家の宝刀「元老院最終勧告」を元老院から取り上げたのであった。
また、控訴は独裁官であるカエサルにする、と決まった。
陪審員
裁判における陪審員の構成は、身分闘争の的にもなっていた。
もともと元老院議員で占められていた陪審員を、ガイウス・グラックスが元老院、騎士階級、平民で三分する法を成立させていた。
だが、スッラのもとで再び元老院議員独占。
ポンペイウスとクラッススが執政官になった年に、再びグラックスが定めた構成へと戻ったのであった。
これをカエサルは撤廃し、40万セステルティウス以上の資産を持つもの、という資格へと変更したのだ。
カエサルは、身分闘争そのものにも決着をつけたのだった。
福祉対策
カエサルはこれまで32万人いた、無料で小麦の給付を受けられる人口を15万人に減らした。
理由は次の通り。
- 国庫への圧迫の軽減
- 本来もらう必要のない人にまで、小麦の無料配布が行われていたため
また、小麦の無休配布法をたびたび成立させるのは、人気取りであり、政争の道具として使われることが多かったためだ。
そこでカエサルは小麦の受給者を公正にするため、専用の按察官(アエディリス)を2名置くようにしたのである。
失業対策・植民政策
カエサルが以前失業対策、および退役兵のために成立させた農地法は、イタリア本国への土地分配法である。
これをカエサルは、属州にまで広げたのである。
分配によってできた植民都市による、ローマ帝国の活性化をねらったのだった。
またカエサルは、100年前に徹底的に滅ぼしたカルタゴとコリントスを復興している。
通商上も極めて重要な拠点になりうる場所だったからであった。
交通渋滞対策
カエサルの時代でも、すでにローマの人口は相当な数だった。
荷台などの車も渋滞していたのである。
そこでカエサルは、日中の車の通行を禁止し、夜間のみとした。
もちろんカエサルも徒歩。
この対策により、ローマの町は夜の間、車輪の騒音に悩まされることになったのだが。
カエサルは教師と医師にたいして、ローマ市民権を与えた。
資格は唯一つ。
ローマの領土内で、教師か医師をなりわいとすること。
また、教師に対しては公の研究機関を提供した。
医師に対しては医療設備の充実もしている。
カエサルは、教師と医師の重要性を、最もよく知っていた人物ではないかと思う。
公共工事で借金を天文学的数字にしたカエサルのことだ。
首都の再開発にも余念がなかった。
まずローマにカエサルのフォールムを建設した。
これは現代で言うオフィス施設のようなものである。
また、サエプタ・ユリアを着工。
こちらは市民集会の投票場プラス憩いの場を提供するのが目的だった。
そしてカエサルの思想を最も表しているのが、セルヴィウス城壁の撤去である。
500年前に建設された城壁が、カエサルの時代まで残っていたのだが、首都ローマの人口が増えるにともなって、この城壁内での生活は成り立たなくなっていた。
もう一つ大事なことは、カエサルがローマの城壁を必要としない、という宣言であったこと。
ローマの平和は城壁ではなく、ローマの国境で守られなければならない、というカエサルの思想の反映であった。
カエサルが構想した、その他の公共事業を列挙すると次の通りだ。
- ラヴェンナからブリンティジ(ブルンティジウム)をつなぐ街道の敷設
- ローマから東に走るヴァレーリア街道の延長
- ヴァレーリア街道沿いにあるフィチーノ湖の干拓化
- ローマの玄関港、オスティア港湾設備の改善
- アッピア街道沿いの湿地帯の耕地化
- テヴェレ川の二分化
いずれも後世への持ち越しとなったが、最後のテヴェレ川については、カエサルの後継者が無理と判断し、代わりの工事で補った。
これらの改革を、内乱終結からわずか1年足らずで実行したのだから、カエサルの行動力恐るべし、である。
そしてこの改革のスピードこそ、カエサルの構想した政体が正しいという証左にもなるのである。
帝政への道は成った。
だが、国境を確定させたいカエサルには、まだ対外政策としてやることがある。
それがクラッススの敗北以来ローマがうやむやにしてきた、隣国パルティアとの対決だった。
終身独裁官就任
紀元前44年の年が明けてすぐ、カエサルはパルティアへの遠征を発表した。
遠征期間は2年。
パルティア遠征におけるカエサルの目的は、次のとおりだ。
- クラッススの敗北はローマの恥であり、ローマの代表として雪辱を果たすため
- パルティアのもとで囚われているローマ人捕虜を奪還するため
- ユーフラテス川以西をローマの領土とし、ユーフラテス川を東の防衛線とするため
- パルティアからの帰還途中、ドナウ川以南(バルカン半島の北)を征討し、ローマの属州として組み込み、ドナウ川をローマの防衛線として確立するため
カエサルはこの遠征を、ローマの国境確立戦と位置づけたのである。
そして2月、カエサルはついに終身独裁官に就任した。
国家の行末を見通せる一人が、効率よく国政を運営できる新体制を、カエサルは実現したのである。
だが、この頃から、カエサルに一つの噂がつきまとう。
カエサルが王位を狙っている、というものだ。
以前にも群衆から王と呼びかけられた時、カエサルはこう言った。
カエサルは王ではない。カエサルである
また、毎年2月に行われるルペルカリア祭の競技会で、同僚執政官のアントニウスが、王冠をかたどった冠をカエサルに捧げると、民衆の多くは拍手もなく、声も出なかった。
この雰囲気をいち早く察したカエサルは、王冠を拒絶し、また公式記録が刻まれたフォロ・ロマーノの大理石に、次の言葉を刻ませた。
執政官マルクス・アントニウスは、終身独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルに対して王の権威を受けるよう願ったが、カエサルはそれを拒絶した
このように、カエサルは民衆に対し、自らの欲望で王政を復活させるのではないと、強くアピールした。
しかし、カエサルに忍び寄る共和政主義者の影が、近づいていたのである。
運命の日は、刻一刻と迫っていた。
運命の3月15日
パルティア遠征を3月18日にひかえ、3月15日の元老院会議では、カエサルがローマ不在中の後任人事を決める予定になっていた。
カエサルは、予定どおりデキムス・ブルトゥスに迎えられ、会議をおこなう会場へと向かう。
場所はポンペイウス劇場と決まっていた。
この会議が終了すれば、あとは遠征準備に入るカエサルに近づくチャンスはない。
しかもカエサルがパルティア遠征を成功させてしまい、カエサルが王位を望んだら、誰にも止められない、と「彼ら」は思ったのだろう。
決行するなら、今日3月15日、しかも元老院の会議前でなければならなかった。
カエサルは以前、元老院議員全員に誓約をとったあと、護衛隊を解散させていた。
また、カエサルに付き従う警士たちは、会議中は違う場所で待機しなければならない。
問題は、個人戦でもめっぽう強かったアントニウスだが、かつての同僚トレボニウスが話しかけ、カエサルから引き離すことに成功した。
そして彼ら――暗殺者たちは、トガの内側に隠し持った剣で、カエサルを殺した。
ガイウス・ユリウス・カエサル、享年55歳。
23ヶ所あった傷の中で、2番めに刺されたものが、致命傷であったという。
暗殺の首謀者は、カエサルを愛したセルウィリアの息子、マルクス・ブルータス。
だが、真の首謀者はカシウスと言われている。
暗殺者の中には、マッシリア包囲戦で活躍した、トレボニウス、カエサルの海軍を常に任されていたデキムス・ブルトゥスもいた。
彼らがなぜ裏切ったのかは、わからない。
いずれにせよ、共和政復活を旗印に、カエサルは殺されたのだった。
今回のまとめ―カエサルの遺言状
今回のまとめ―カエサルの遺言状
カエサルのことを少ない文字数でまとめるのは、私にはできそうにもない。
ここまで我慢強く読んでくださった、あなたに任せようと思う。
今回は、まとめる代わりに、カエサルが残した遺言状を紹介する。
これがカエサルの最後のメッセージだからである。
- カエサルの資産の4分の3は、ガイウス・オクタウィウスとアティアの息子、オクタウィウスに遺す。
- 残り4分の1は、ルキウス・ピナリウスとクイントゥス・ペディウスで2分される。
- 第一相続人オクタウィウスが相続を辞退した場合の相続権は、デキムス・ブルトゥスに帰す。
- オクタウィウスが相続した場合の遺言状執行責任者として、デキムス・ブルトゥスとマルクス・アントニウスを指名する。両人は、カエサルの死後に妻カルプルニアに子が生まれた場合、その子の後見人にも指名する。
- 第一相続人オクタウィウスは、相続した時点でカエサルの養子となり、息子となった彼はカエサルの名を継ぐ。
- 首都在住のローマ市民には、一人につき300セステルティウスずつ贈り、テヴェレ西岸のカエサル所有の庭園も、市民たちに寄贈する。このことの実行者は、第一相続人とする。
遺言状の内容を知ったデキムス・ブルトゥスは、自分の名が相続人としてあがっていたことに、血の気が引いたという。
同様に、アントニウスは、自分が相続人に選ばれていなかったことに失望した。
また、この時ローマに滞在していたクレオパトラも、アントニウスと同様の思いだったことだろう。
彼らは、なぜこのような思いを抱いたのか。
なぜならこの遺言状は、単なる財産相続を決めるものではない。
カエサルの後継者を、カエサル自身で決めたメッセージだからである。
相続人こそ、カエサルの後継者なのだ。
では第一相続人となったオクタウィウスとは誰か。
彼こそ、ローマ帝国初代皇帝、アウグストゥスその人であった。
ユリウス・カエサルの映像作品なら、古代ローマ時代を舞台にしたHBO&BBC共同製作の海外ドラマ「ROME」をオススメする。
総予算200億円で制作された映像は桁違いのスケールで、忠実に古代ローマ時代を再現。ガリア戦争も大詰めから始まるドラマでは、手に汗握る陰謀劇あり、女たちの野望あり。もちろんお色気シーンも満載。
もし興味があるなら、VOD(動画視聴定額サービス)のU-NEXTをおすすめしたい。全22話が見放題なうえ、31日間の無料トライアルあり。ぜひこの機会にお試しいただければと思う。
※U-NEXTについての本ページの情報は2021年4月時点のものです。
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