レンガ(の街)のローマを受け継ぎ、大理石(の街)にして残したことを誇ることができた
スエトニウスの著書『ローマ皇帝伝』にある言葉通り、アウグストゥスはこれまで都市計画もなく雑然としたローマを、世界帝国の首都にふさわしい姿へと変えるため、様々な建物を新たに建築し、また修復を行った。
ではアウグストゥスが行った首都ローマの再開発とは、どのようなものだったのだろうか。
この記事では、カエサル暗殺で中断したものや、部下などよって建てられたものも含め、アウグストゥスの治世に建築された主なものを見ていこう。
広場や議事堂などの公共建築物
カエサルの広場(フォルム・ユリウム)
前54年、600万セステルティウスで買い取った土地に、アウグストゥスの養父ユリウス・カエサルが建築を始めたフォルム。
奥行き160m×幅75m。
フォルムとは、現在のオフィス街やショッピングモールのようなものだ。
共和政の時代には、市民の集会(民会)なども開かれていた(帝政になると、徐々に開かれなくなっていく)。
前46年、共に建てていたウェヌス・ゲネトリクス神殿の奉献式が行われたが、前44年のカエサル暗殺で一時中断。
これをアウグストゥスが引き継ぎ、前29年に完成させた。
参考 フォルム・ユリウムとウェヌス・ゲネトリクス神殿イタリアへの扉
アウグストゥスの広場(フォルム・アウグストゥム)
カエサルの広場の隣に建設したアウグストゥスの広場(フォルム)。
広場に併設するマルス・ウルトル神殿は、 前42年、フィリッピの戦いの戦勝記念に建てられている。
前20年に建設が始まったが、当初計画していた建築物が広場の大きさに収まらないことが判明したため、フォルムの土地を広げるのではなく、建築物の計画を変更することで解決した。
しかし、計画変更で大幅に工期が遅れ、前2年にようやく完成したようである。
アウグストゥスのフォルム建設以降、この土地に皇帝たちが次々にフォルムを建設したため、この一帯は「皇帝たちのフォルム」と呼ばれることになる。
ユリア元老院議事堂(クリア・ユリア)
ユリア元老院議事堂も、カエサルから引き継いだ建築計画の一つ。
元老院議事堂とは、元老院議員たちが集まって議題を話し合う場所である。
基本的に公開されていたので、元老院議員の子息などが見学に訪れることもあった。
元老院議事堂としては2代目となる建物を改築したもので、アウグストゥスが前29年、カエサルの後を引き継いで完成させている。
ユリア投票場(サエプタ・ユリア)
ユリア投票場もまた、カエサルが計画した建築物の一つである。
前26年、暗殺された前任者に変わってアウグストゥスの部下であるアグリッパが引き継ぎ、中断していた事業を完成させた。
投票場は、本来民会の決議で投票を行う場だったのだが、帝政に移行すると徐々にその機能が失われていく。
代わりに剣闘士の試合会場として使われたり、市場として使用されるようになった。
水道・浴場建築物
ユリア水道(アクア・ユリア)
前33年、当時造営官に就任していたアグリッパによって建設された、ローマ上水道の一つ。
水源はローマの南東およそ12kmほどの地点にある。
ローマに引かれた上水道のなかでは、5番目のものとなる。
また前11年から前4年にかけて、アウグストゥス自ら拡張・改築している。
ちなみに現在は、ローマにある水道公園内で、水道橋の一部を見ることができる。
ウィルゴ水道(アクア・ウィルゴ)
前19年、こちらもアグリッパによって建設された上水道。
ローマ市内に引かれたものでは、 6番目の水道になる。
ウィルゴ水道によって引かれた水は、おもに浴場用として使用された。
また建設から2,000年後の現在でも機能している数少ない水道であり、トレビの泉はウィルゴ水道で引かれた水を利用している。
アルシエティナ水道(アクア・アルシエティナ)
アルシエティナ水道は、テヴェレ側の西から水を供給する数少ない水道のひとつ。
前2年、アウグストゥスによって建設された。
上水道といっても、飲水に適さないものもあり、アルシエティナ水道もそうした水道のひとつだ。
では引いてきた水を何に利用するのか。
アルシエティナ水道は、主にテヴェレ側右岸に建設した模擬海戦(ナウマキア)用の池の水の供給源として使用したようである。
また、灌水(農作物などに水を撒く)ことにも利用したようだ。
アグリッパ浴場(テルマエ・アグリッパエ)
アグリッパによって建てられた、ローマ初の大型公衆浴場(テルマエ)。
ローマには、バルネアとよばれる民間が経営する公衆浴場(いわゆる銭湯のようなもの)があったが、公のものはアグリッパ浴場が初めてである。
着工は比較的早くに行われていたようだが、前19年にウィルゴ水道が完成し、大量の水が供給できるようになって、完全操業となった。
文化・娯楽建築物
タウルス円形闘技場
円形闘技場とは、ローマ市民の娯楽の一つ剣闘士試合が行われる会場のこと。
タウルス円形闘技場は、アウグストゥスの部下であるスタティリウス・タウルスにより、前29年、首都ローマ初の常設円形闘技場として建設された。
しかし収容人数が約1万人と、首都にしては規模が小さく、また木造の闘技場だったため、ネロの時代に起きたローマ大火で焼失してしまう。
その後、ウェスパシアヌス帝によって、有名なコロッセオが建設された。
マルケッルス劇場(テアトルム・マルケッリ)
もともとはカエサルが劇場を建てるために整地したが、暗殺されたために中断した事業を引き継ぎ、前13年にアウグストゥスが完成させた。
本来なら建築着工した人の名前がつけられるので、「カエサルの劇場(テアトルム・ユリア)」とでもなるのだろうが、アウグストゥスが後継者と目していた甥のマルケッルスが前19年に死去したため、彼の死を悼んで劇場に甥の名前がつけられた。
ちなみに凝灰岩とコンクリートのコラボレーションで建てられており、現在もその形をとどめる数少ない遺跡として、観光名所になっている。
また、劇場上部はマンションとして、実際に人が住んでいることが、以前「ブラタモリ」という番組で紹介されていたことも記憶に新しい。
神殿・宗教建築物
神君カエサル神殿
カエサルが暗殺された後、葬儀の当日に市民たちが即興で用意した薪の上でカエサルが火葬された場所(フォロ・ロマーノの東側)がある。
前29年、アウグストゥスは神格化されたカエサルの神殿を建てた。
それが神君カエサル(ディウウス・カエサル)神殿だ。
この神殿には、アクティウムの海戦で持ち帰ったロストラ(船首)が飾られ、演壇が設けられた。
アポロ・パラティヌス神殿
パラティヌス丘の南西にアウグストゥスが建てた私邸が落雷にあい、その縁起の悪さから(日本で言えば厄払いのために)建てられた、太陽神アポロンを祀る神殿。
アントニウスとの戦いの折にも、アウグストゥスは常々アポロンを守護神と宣伝していたように、アポロンに対しては大きな思い入れがあったのだ。
またこの神殿には、ギリシャ語の書籍とラテン語の書籍が置いてある公共の図書館を2つ設置している。
復讐者マルス(マルス・ウルトル)神殿
前42年、アウグストゥスがまだオクタウィアヌスという名を持っていたころ、カエサルの暗殺者たち(ブルトゥスやカッシウス)との決戦に望むにあたり、復讐者マルスに戦いに勝てば建てると誓った神殿。
フィリッピの戦いで無事勝利したため、アウグストゥスは自分が建設した広場(アウグストゥスの広場)の北西に復讐者マルスの神殿を奉献した。
パンテオン
「パンテオン」とは、ギリシア語で「すべての神々」を意味し、その神々を奉じる神殿、つまり「万神殿」がパンテオンと呼ばれるようになった。
前25年、アグリッパによって建設。
パンテオンは当初、アウグストゥスを称えるための神殿として計画されていたが、市民たちの反発にあい、万神殿へと変更したという。
ちなみに現存するパンテオンは2代目。
五賢帝の一人ハドリアヌスによって再建されたものが残っている。
アウグストゥスの記念碑
アウグストゥス廟
前31年、アクティウムの海戦に勝利したアウグストゥスが、ローマ再整備のために最初に取り掛かったのが、自分のお墓であるアウグストゥス廟。
前28年完成。
アウグストゥスが、なぜ生前からローマに廟(ようするにお墓)を建てたかは、おそらく次の理由からだろう。
- 身体が弱かったため、死を身近に感じていたこと
- アントニウスとは違い、ローマに骨を埋める覚悟を市民に示す必要があったこと
結局この廟にアウグストゥスの亡骸が収められるのは、完成から実に42年も後のことになる。
そしてこの廟は、歴代の皇帝(やその親族)たちのお墓となっていく。
アウグストゥスの日時計(ホロロギウム・アウグスティ)
エジプトの征服記念に建てられた、世界一大きな日時計。
なぜなら日時計の計針には、エジプトから運ばせたオベリスクを使用しているからだ。
隣には、共に建てられた平和の祭壇(アラ・パキス)がある。
季節により太陽の高さが変わるため、アウグストゥスの日時計は時間だけでなく日付も示すことができたという。
ただし何年か後に起きた地震のために、時間が狂ってしまったようだ。
なお現在の日時計は元の位置にはなく、イタリア国会の前に立っている。
平和の祭壇(アラ・パキス)
祭壇とは、神々へ感謝の印としてお供え物を置いたりする建造物のこと。
平和の祭壇は(アラ・パキス)は、(実際にそうであったかどうかはともかく)ローマによって平和が訪れた、いわゆるパクス・ロマーナの記念として、前9年に元老院から奉献された祭壇である。
四方を巨大な壁に囲まれた正方形のスペースで、その壁にはそれぞれモチーフの違うレリーフ(彫り物)が彫られている。
また、生贄にされた動物の血を洗い流すための排水溝も設けられていた。
アウグストゥスの私的建築物
アウグストゥスのリウィアの私邸
前36年、パラティヌス丘にあった元老院議員の邸宅跡を買い取って建てた、アウグストゥスたちの私邸。
共和政末期の公職者たちは、私的な家人(奴隷、召使いたち)を使い、様々に仕事をこなしていたが、アウグストゥスも例にもれず、同じような方法をとる。
だが、業務の多彩さからパラティヌス丘に建てたアウグストゥスの私邸だけでは足りなくなり、その周辺に役所街のような地域ができあがった。
妻と別邸だったのは、アウグストゥスの女性関係もさることながら、公務の規模が大きかったことも関係していると思われる。
ちなみにアウグストゥスの死後も、パラティヌス丘に皇帝の私邸が建てられたため、「パラティヌス」は宮廷を意味する「パレス」の語源となっている。