古代ローマの一般的な人々は、何をして働いていたのか。
皇帝や上流階級、政治に関わる人物にどうしてもスポットが当たるため、名もない市民がどのような職業についていたのか、教えてくれる本に出会うことは少ないだろう。
この問いに答えてくれる本が、『図説 古代仕事大全』だ。
『図説 古代仕事大全』によると、古代ローマの庶民は、現代の私達と同じような職業に携わっているものもいれば、古代にしかなかった独特の仕事をしていることもあったようである。
この記事では、『図説 古代仕事大全』を参考に、古代ローマではどのような仕事があったのかをリストアップしてみようと思う。
なお奴隷が携わった仕事については、古代ローマの奴隷 ―高度な専門知識を持つものも存在した、社会の基盤を支える労働力―で説明しているので、この記事では扱わないことにする。
興味がある方は、上記の記事をご覧いただければば幸いだ。
食べ物に関わる仕事
農夫
古代ローマの人たちを食で支えていた職業、それが農夫だ。
彼らは小麦や豆などの主食以外に、オリーブ、ぶどうなど商品価値の高いものも栽培していた。
農夫の働き方も様々。
狭い土地でほそぼそと農業を営む自作農は、古代ローマ古来の農業形態だった。
しかし戦争、特にカルタゴとの戦争に勝って以降、ローマの領土が拡大すると、イタリアでは大量の奴隷が流入し、大きな農場を大人数で耕作する大規模農園が増えた。
その結果、農地を手放して大規模農園で働く小作農も増えていったのである。
やがて時代は下り、帝政も終わり頃に近づくと、小作農家は自由に土地を離れることができなくなる。
農奴(コロヌス)の誕生だった。
養蜂業者
まだ精製された砂糖のなかった時代では、はちみつは唯一の甘味料だった。
そのはちみつを採取する職業が養蜂業者だ。
古代の養蜂業者はとにかく移動する。花が咲いているところまで足を運ぶ。
イタリアでは巣箱を小舟に乗せて、上流まで何キロも川を遡ることもあった。
ミツバチの巣箱は半球型で、樹皮やフェンネル(ウイキョウ)、コルク、乾燥した牛馬の糞でできていたり、柳の枝を編んだものに泥や木の葉をなすりつけて作られていた。
巣箱の中のパネルは縦置き。
人間の姿が映らないため、都合がよかったようだ。
また、はちみつの採取は年に二回おこなわれた。
はちみつを絞って巣を洗って乾かすと、陶製のツボに入れて煮溶かす。
すると蜜蝋が取れ、高値で売れる商品になった。
ワイン醸造家
ぶどうを栽培しワインを作る人々、それがワイン醸造家だ。
古代ローマ時代、イタリアでは小麦などの主食を栽培していたが、やがて属州各地から主食を輸送するようになると、農園では儲かるオリーブオイルやぶどう栽培へと切り替わっていった(のちに属州にも広がっていく)。
あまりにもぶどう畑が増えたせいで食糧不足に陥ったため、時の皇帝ドミティアヌスは、イタリアでぶどうの樹を植えることを禁止したという。
ワイン製造だが、収穫時期の9月か10月になると、ぶどうを収穫し、柳のカゴに集める。
それを絞り床の上で二人以上の奴隷が楽の音に合わせて踏み潰し、軸や種と果汁に分ける。
さらに荷重をピトスという特大陶器に入れ発酵。
この液体を濾過して濁りをとったら、20リットルはゆうに入る素焼きのアンフォラに移して保管し、出荷を待った。
ちなみに古代ローマのワインについては、古代ローマのワイン―起源やたしなみ方、当時のブランドと現代に受け継がれたワイン造り―で詳しく説明しているので、興味のある方はお読みいただければ幸いだ。
料理人
古代ローマの料理人は、貴族のお抱えから一夜限りのレンタル料理人まで様々だ。
後に説明するファストフード店の調理人も料理人だが、ここでは饗宴(寝そべって料理を食べる宴会)で高級食材を使った食事を作る者たちのことと定義しよう。
前200年頃には、すでに料理人の組合が存在し、帝政の始まる頃には組織化したようだ。
腕のいい料理人は、高給を期待できた。
しかし彼らが仕事をする調理場は狭く、また十分な調理器具もなかったため、できた料理がひしめき合い、料理をするのも一苦労だったようだ。
パン屋
古代ローマのパン屋は大きいものから小さいものまで様々あった。
大きい店では、たくさんの石臼を備えて小麦をひき、大量のパンを作るため、さながらパン工場といったほうがいいだろう。
パン屋の労働組合は古くからあり、254件のパン屋が加入していた時期もあった。
ちなみに石臼でひく小麦には細かい砂が大量に混ざっているため、歯にはひどいものだったらしい。
ファストフード店
古代ローマ時代の過密都市ローマでは、集合住宅インスラの3階より上の部屋にろくな調理機能がなかった。
直火で調理すると、家事のリスクもあった。
ではそこの住む住人は何を食べていたのか。
そこで登場するのが、現代のマクドナルドなどに相当するファストフード店である。
バールやタベルナ、ポピーナと呼ばれたファストフード店では、すぐに提供できる軽食を、カウンターに設置したカメの中に入れて常時用意していた。
またリクエストがあると、油で揚げたものまで用意してくれたのである。
ガルム製造業者
ガルムとは古代ローマの万能ソース(魚醤)のこと。
味は美味しいが強烈な臭いにも定評があった。
このガルムを扱っていたのが、ガルム製造業者だ。
ガルムづくりは魚を発酵させるため、あまりにも臭いので、ガルム工場は郊外に建てられた。
ガルム業者は巨万の富を気づいたが、その理由は彼らがガルムを作るだけでなく、独自の窯を持ち運搬用のアンフォラ(陶器の大型壺)まで作ることができたからである。
製造から販売、生産から小売までのラインをしっかりと抑えていたようだ。
魚売り女
魚売り女とは、要するに魚を仕入れる仕入れ業者だ。
ローマの魚売り女は、夜明け前から近郊の港へ行って魚を買い付けると、日が登る前には市場へもどって魚を売った。
もし日中までに戻って来れなければ、車両をローマ市へ乗り入れることが禁じられていたため、仲介人から魚を買って売るしかなかった。
彼女たちは川や海でとれた魚介類だけではなく、養殖した牡蠣やうなぎも売っていたようだ。
肥料屋(ステルコラリウス)
ローマ市の糞尿や生ゴミを回収し、ローマ市郊外の農家に売り歩くのが肥料屋である。
彼らは荷車いっぱいに排泄物や生ゴミを積み込み、農家に売った。
ちなみに農家はこの肥料をいくらで買ったのか。
彼らは銅貨(アス銅貨、セステルティウス青銅貨の1/4)11枚で肥料を仕入れた。
肥料屋はこのお金で、日々生活をしていたようである。
建築・インテリアに関わる仕事
建築家
公共物や神殿などのデザイン、設計を手掛けた建築家。
古代ローマでは、『建築について』を著したウィトルウィウスを始め、デクリアヌスやダマスクスのアポロドロスなど有名な建築家もいるし、架空の人物では漫画テルマエ・ロマエに登場する浴場設計士のルキウスも建築家と言えるだろう。
建築家は、時の権力者に気に入られると一躍有名になり、巨万の富と大きな名声を得ることができた。
ただし権力者の交代により、失業や下手をすると死を賜るリスクもあったのである。
建設業者
コロッセオや神殿などの、巨大な建造物の建築を請け負ったのが、建設業者だ。
今日の日本で言えば、スカイツリータワーや新国立競技場などを手掛ける業者を想像すればいいだろう。
彼らはクレーンを駆使し、重い建築材料を高い位置まで持ち上げていた。
またローマの建築にはコンクリートが使用され、従来よりも強固で素早い施工が可能になったのである。
潜水夫
港の埠頭や橋脚の設置に重要な役割を担ったのが、潜水夫だ。
彼らは水中で枠組みを作り、そこに水硬性のセメントを流し込む作業などを行った。
しかし水中での作業は、長い時間潜水する必要がある。
彼らはやかんに似た潜水鐘を使って空気を補充し、長時間の潜水を行っていた。
ときには水深30メートルも潜ったという。
ローマ市近郊の港オスティアに、帝国最大級の港ポルトゥスができたのも、陰で彼らの働きがあったからだといえるだろう。
煉瓦製造業
煉瓦は古代ローマでも重要な建築資材で、煉瓦の品質が建物の品質を決めるといっても過言ではなかったという。
その煉瓦を作っていたのが煉瓦製造業者である。
彼らの作る煉瓦の品質を保証するために、製品一つひとつに業者の刻印がされていたという。
煉瓦はコンクリートとも相性がよかったので、彼らの作る煉瓦を使い、長期間の養生がてらコンクリートの表面を化粧装飾していた。
測量士
古代ローマで測量をしたのは、特殊技術を持つ兵士だった。
彼らの仕事は帝国の防衛だけでなく、防衛に必要な街道づくりも担っていたからである。
古代ローマ人は、大きな歩幅(約1.4m)を一歩とした1ローマンマイル(1,000歩、約1,400m)を距離の基準とした。
また、街道はできるだけ真っ直ぐに貫く必要があったので、測量器具グローマを用いて街道の建設場所を決めていた。
また距離が長い場合や平坦な地面でない場合は、方程式を利用して距離や方角を決めていたようだ。
配管工
古代ローマのローマ市や、その他帝国の都市が上水道を完備していたことは有名だが、その水の供給に重要な役割を果たしたのが配管工たちだ。
テラコッタ製の管を使うこともあったが、より細い部分に水を通すときは加工のしやすい鉛管を使った(ただし鉛害があるので、使用に注意は必要だったが)。
彼らの配管技術がもっとも役に立ったのは、おそらく公衆浴場だろう。
公衆浴場にはさまざまな浴室があり、そこにはぬるま湯から熱いお湯まで何箇所にも渡って浴槽が用意されていた。
その浴槽一つ一つに管を通して必要な温度のお湯を供給できたのは、配管工のおかげだったのである。
大工
古代ローマの荘厳な公共建築物は、建設業者が関わり、コンクリートなどの素材が使われたが、それ以外の建築物、例えば集合住宅インスラの上層階や個人邸宅、公共の建築物でも床や天井、蛇腹にある彫刻の施された材料には木が使われていた。
この加工や建築に関わったのが大工である。
さらに大工には次のような専門の大工もいた。
船を専門に扱う大工。
船造りには独特の技術が必要だった。
荷馬車を作る大工。
街道沿いにある荷馬車の貸し出しでは、修繕なども請け負った。
家具職人
家具職人も大工と同じく木を扱う仕事である。
彼らはノコギリや斧、金槌やカンナ、ヤスリ、ノミなどを使って作業をした。
材木に弓錐で穴を開け、蟻継やほぞ接ぎでしっかりと組み込む。
表面を鮫皮でヤスリがけ。
さらに木を彫って意匠をこらすこだわりようだった。
彼らの仕事姿はポンペイの壁画にも残されている。
植木屋
植木屋とは、庭師のことだ。
貴族たちはローマ市の住まいの他に、大抵別荘(ウィラ)を持っており、そこには広大な庭園があった。
その庭園づくりを担ったのが植木屋である。
仕事道具は熊手、くわ、草かき、植木バサミ、先端が鉄製の木のシャベル。
これらを使って美しい庭をつくりだす。
クライアントの要望にそって、樹木を思い通りの形にすることもあった。
壁画家
壁画家とは、公共物や個人邸宅の壁に、フラスコ画の技法を使って様々な絵を描き入れ、装飾を施すものたちだ。
フラスコ画とは、塗りたての漆喰に水彩で描く絵のこと。
彼らは下地の漆喰に顔料で下書きを描いたあと、その上に新しく漆喰を塗り、さらにこの漆喰が乾ききらないうちに鉱物性の絵の具で絵を描く。
漆喰が乾くと顔料が定着し、壁と一体化する、という具合だ。
画題はなんでもあった。
鳥や海の生き物、仮面、肖像画など。
喧騒激しいローマでは、貴族たちは田舎暮らしに憧れたため、田園風景が好まれたという。
モザイク画家
壁画家が壁(垂直)の装飾なら、モザイク画家は床(水平)を飾る職人だ。
彼らは床面に、玉石や大理石の小片、テッセラ(石から切り出した方形の小片)などを使い、様々な模様やモチーフを描いた。
また時が経つと10センチから15センチ四方のトレイにモザイクを嵌めた、象嵌モザイク細工を作るようになった。
現代なら、パズルの完成品を部屋に飾るようなものだろうか。
モザイク画として誰もが一度は目にしたことがあるのが、ポンペイから出土したアレクサンドロス大王とダレイオス3世の会戦、イッソスの戦いを描いたものではないだろうか。
モザイク画の傑作としても有名で、幅16メートル、高さ16メートルという超巨大なモザイク画だ。
このモザイク画は破損が激しかったため、色んな国から参加した現代の芸術家たちが200万以上ものテッセラを集めて修復したようである。
モノづくりに関わる仕事
鋳型彫刻工
鋳型彫刻工とは、金属を流し込む型を作るために彫刻をする職人のこと。
その多くは硬貨を作る仕事だった。
ローマの硬貨は、長らくギリシア本土やシチリアなどの美しい意匠を施すことができなかったが、これらの領土を飲み込むにつれ、次第に芸術性の高い硬貨を製造するようになる。
またローマコインはときの権力者の肖像が施された。
彼らは硬貨を使って、帝国中に自分を宣伝するようにしたのだ。
さらに重要な出来事も硬貨を使って知らせるようになっていった。
陶工
陶器の皿や鉢、甕などを作るのが陶工だ。
古代ローマでは、陶器を大量に作る大きな工房があり、安価な陶器が大量に出回った。
その一つ、アレティウム市にある工房では、属州に支店工房をもつところもあった。
その工房では職人を60人以上も雇い、大量に生産できるよう形削り盤を使った。
さらに質を一定に保つよう、陶器製作に使う粘土玉を1度に100個つくったという。
彫刻家
古代ローマでは、大理石で掘る彫刻家のほかに、青銅その他さまざまな材料で作る金属彫刻家も存在した。
個人で金属の彫刻を制作するものもいたが、大きいものになると部位ごとに職人がいた。
例えば頭部職人は肖像にこだわり、脚職人は脚しか作らない。
中には生殖器専門の彫刻家もいたという。
また彫刻家の下請けとして、オクラリアリウスと呼ばれる専門の職人いる。
彼らは象牙やガラス、石で彫刻の中に入れる目を作り、入れていた。
ガラス職人
古代ローマで作られたガラス製品は、ローマングラスと呼ばれている。
これらを製作したのが、ガラス職人だ。
紀元前1世紀ごろ、ローマが東地中海を征服するにともない、その地域にいたガラス職人たちもローマ帝国内(イタリアやガリアなど)に移住し、ガラス工房を作る。
その多くをユダヤ人たちが担っていた。
ガラス職人たちは、型をつかって容器をつくるほかに、ローマ時代に新しくできた技法「宙吹き技法」を取り入れることで、より自由かつ大量にガラス製品を作ることができた。
またガラス職人の中には女性たちもいたようである(その一人が、センティアというユダヤ系の女性)。
看板屋
古代ローマの看板屋とは、誰のお店かが分かる看板をつくる職人ではなく、広告文を壁などに描く、いわゆる広告ポスター製作人のことだ。
彼らは選挙が開かれる時、立候補者の宣伝を壁面に書くほか、剣闘士と野獣との戦いの開催を主催する主催者の広告、自分の店がいかに素晴らしいかの宣伝文句などを書いた。
花輪職人
オリンピックなどの競技会や、死者を見送る儀式に使われる花輪を作る職人が古代には存在していた。
それが花輪職人である。
彼らは勝利選手に捧げる花輪をつくったり、新生児が生まれた時扉に飾るオリーブの葉や羊毛で作られたリースをこしらえたり、さらに結婚式の花嫁を飾る花輪も手掛けた。
後の時代になると、金属製の冠との激しい市場競争があったようだが、結局は経費がかからず「軽い」という理由から、花輪はなくならなかったようである。
宝石細工職人
宝石自体の加工や、宝石を埋め込んだり、周りを飾ったりする金属を加工する職人が、宝石細工職人である。
彼らは木材や骨、金属などの材料を使い、浮き彫り(カメオ)や沈み彫り(インタリオ)の技術を駆使して立体感のある彫り込み模様を作り出した。
彼らの愛用する道具は小型の鏨(たがね)や丸鑿(まるのみ)。
鏨は打ち出し模様を施すときに使う道具で、貴石に彫刻を施すときは丸鑿を使う。
宝石細工職人もガラス職人と同じく、宝石彫刻、浮き彫り装飾、真珠の取り付けや金箔づくりなどの分野で働く女性たちがいた。
靴職人
古代ローマ人たちは、履く人の性別、どのような場面で履くかにより、靴を使い分けていた。
例えばトーガを着た男性は絶対にスリッパを履かず、何層にも革(牛革や小羊の皮など)を重ね合わせ、釘を打ち込んだ頑丈な靴を履く、といった具合に。
彼らの要望や用途に合わせて靴を作っていたのが靴職人である。
彼らは古くから組合を持ち、ローマ市ではアポロ神殿が目印となるサンダラリウス通りで商売をしていた。
なお、靴と密接に関わる皇帝といえば、3代皇帝のカリグラがいる。
彼の名がすでに「小さな軍靴」を意味しており、彼のファッションも奇抜で、通常では履かないシーンでも、その場にそぐわない靴を平気で履いていたという。
下着製作者
古代ローマの下着は簡素なものだ。
女性たちはあまり胸を目立たせたくなかったのか、2種類ある帯の一つを使ってしめる。
次にチュニカの下にウールの肌着を着る。
若い女性は、衣服の上から乳房の下にシンギュラムという飾り帯を締めた。
これらの下着を作っていたのが下着製作者だ。
では男性の下着はどうなっていたのか。
もちろん古代ローマにパンツはなく、トーガの下に膝丈までのズボン下を履いていた。
もっと身分の低い労働者は、帯で締めた腰布を巻いていたようである。
なおローマ時代の下着については、古代ローマの服装 ―普段着と儀礼用、履物や下着、男性や女性の違いについて―の古代ローマの下着にも記載しているので、ご一読いただきたい。
仮面制作・衣装デザイン
古代ローマでは、役者は自分が演じる役の仮面を着けて演技をしていた。
また役によって衣装も変わる。
このような仮面や衣装を作っていたのが、仮面制作や衣装デザイナーである。
仮面は白いリネン(亜麻布)と石膏を使って作られる。
口の部分は開いていた。
また衣装も様々で、奴隷役は腹に詰め物をし、娼婦役は華やかな衣装に身を包んで気取る。
つば広ハットをかぶり、マントを閃かせていれば若い騎兵といった具合だ。
なお主役は一番凝った衣装を着ていたようである。
御守り屋
古代の人々は、神の存在を信じて疑わなかった。
災厄や病気、不運は全て神の意志によるものだと。
こういった脅威から身を守ってくれるものが御守りであり、その御守を作り売ったのが御守り屋である。
御守の材料は植物や布で、布の御守りにはカブトムシや眼、神聖視する動物の形に切った布を衣類に縫いつけて使うものもあった。
しかしなんと言っても古代の御守でよく使われたのは、男根像(ファスキヌム)である。
子どもたちですら、幼い頃から首に男根像をかけていた。
ちなみにファスキヌムは「魅惑(ファシネーション)」の語源でもある。
御守り屋は、しばしば薬草業を副業としていた。
彼らは客の悩みを聞き、どんな御守りがいいかを考えるのだが、同時にいろんな効能がある(と信じられる)草花を処方したのだった。
呪い板作り
御守り屋が災厄から身を守るものを作るなら、呪い板作りは相手に災厄が降りかかるよう仕向けるものだ。
例えば賭けた相手の戦車競走選手に呪いをかける。
訴えられた仕事の競争相手を黙らせる。
そのような時に、呪い板は使われた。
呪い板は、狙った相手の家の外壁の中か床下に押し込まれた。
有名なところでは、皇帝カリグラの父ゲルマニクスが急死した際、床板の下に呪い板や血染めの灰などが隠されていたという。
仲介や金融に関わる仕事や事業主
オリーブオイル卸売業者
古代、オリーブオイルは調理用の油はもとより、薬、明かりの燃料、日焼け止めや垢落とし、化粧落としなど、様々な目的で使われていた。
このオリーブオイルを扱っていたのが、オリーブオイルの卸売業者だ。
特にオリーブオイルで儲けたのはスペインのバエティカ地方に住む業者たちで、西暦75年には組合を設立していた。
そして同業組合はスペイン南西部のカディスから、同南部のコルドバに至る地域のオリーブオイルを管理していた。
彼らはまた、オリーブオイルの生産工程を統合し、オイル容器を製造する壺工場や、それらを運搬する輸送会社の運営もしていた。
まさにワンストップの操業だったのである。
調香師
古代ローマでも香水は人気商品の一つだった。
この香水、あるいは香りを作り出す人々が調香師である。
とくに身分の高いものにとっては、品の良い香りは必需品だった。
例えば晩餐会などの社交場で大勢の人が集まるところ。
主催者は麝香(じゃこう)や甘松(かんしょ)などを焚いて客をもてなした。
また公衆浴場では香料の入った洒落た小瓶がいくつも売られた。
これら香料の生産の中心は、イタリアの中部カプアにあった。
カプアでは芳しいバラを栽培し、伝統的な調香技術があったという。
琥珀ブローカー
古代ローマで人気の貴石の一つが琥珀で、この琥珀の売買を仲介したのが琥珀ブローカーだ。
琥珀の生産地はローマ帝国の領土外、バルト海近くにあったので、琥珀ブローカーは危険を犯して琥珀の生産地まで行く必要があった。
そのため琥珀は非常に価値が高く、琥珀で作られた小さな像が頑強な奴隷一人の値段を上回ることもあったようだ。
出版社兼書籍業
古代ローマには当然輪転機もコピー機もない。
それどころか活版印刷をする印刷屋も存在しない。
しかし出版社と本を売る書籍業者はいたのである。
彼らはどのようにして本を生産し、売ったのか。
実は書籍業者は大量の職員を雇い、彼らに作家が書いたものを、当時の紙であるパピルスに写させたのである。
それもラテン語はもとより、ギリシア語の原稿まで書き写させた。
彼らがいたおかげで現存する史料が読める場合もあるので、現代に生きる私達は古代の出版業者に感謝しなければならないのかもしれない。
紫の染料売り
古代ローマでは、アクキガイ(貝の一種)から採れる紫の染料が、大変な高値で取引されていた。
この染料を売る商人は巨万の富を手に入れたようだ。
ただし、紫の染料を得るためには大きなリスクを伴った。
まず染料を作り出すには、アクキガイがもつ毒を抽出する必要がある。
この毒こそ紫へと変化させる成分なのである。
そして染料を作り出すには大量のアクキガイの身が必要で、230kgの染料を得るために、3,600kgもの身を犠牲にしなければならない。
さらに染料抽出の過程で貝が腐敗するため、染料工場では悪臭がひどかったという。
そのため染料工場は郊外に建てられた。
古代の公害対策というわけである。
シルフィウム輸入商
北アフリカのキュレネ周辺に生息するシルフィウムという植物は、古代ローマの人々に色んな恩恵をもたらした。
避妊薬、堕胎薬、万能薬、ソースの材料などなど……。
この大人気のシルフィウムを扱った商人が、シルフィウム輸入商である。
シルフィウムは高値で取引されたが、ある時キュレネを襲った悪天候と、キュレネ原住民の抵抗でシルフィウムが片っ端から引き抜かれ、この希少植物は絶滅したらしい。
人の治療に関わる仕事
医者
古代ローマ時代、医者は胡散臭い職業として見られていた。
彼らの中には素晴らしい名医ももちろんいたが、科学知識が乏しい中では迷信に近い治療をする医者もおり、効果があるどころか、逆に症状がひどくなるケースもあった。
それでも彼らは必要とされる。
カエサルは医者に市民権を与える法を作り、アウグストゥスは一度死ぬ寸前まで体調を崩した時、医者の治療に助けられたのである。
また古代ローマでは次のような専門の医者もいた。
古代ローマでも人は虫歯に悩まされていた。
それらの治療にあたったのが歯医者だ。
ただし古代ローマでは、歯医者の治療法が少々野蛮なものが多い。
例えば歯槽膿漏に対する治療は、赤くなるまで熱した鉄を歯茎に押し当てる。
歯を抜いた場所にコショウの実や魚と樹脂を混ぜ合わせたものを突っ込む、など。
またちょっとした歯の治療には、歯医者ではなく理髪店が対応したという。
古代ローマでも、皮膚を切り、体の内部を治療する外科医はいた。
ただし初期の頃は麻酔がなかったため、患者は強烈な痛みに耐える必要があったはずだ。
外科医として名をはせたのが、2世紀後半に活躍したガレノスだろう。
彼は剣闘士の怪我を治療し、腕を磨いたという。
またこの頃から麻酔作用のある薬草を使って痛み止めを行っていたようだ。
夢治療師
人の治療に関わる仕事で、変わったものといえば夢治療師だろう。
医神アスクレピオスを祀った神殿に仕える、医学の知識をもった神官たちだ。
彼らは救いを求めて神殿へとやってきた病人に、三日間にわたる清めの儀式を行う。
そして病人の話を聞き、夢にアスクレピオスが出てくるよう準備する。
そして朝、病人がみた夢の内容を聞いて書き留める。
これで病気を治すという、現代の私達からすれば信じられない内容だろう。
実はアスクレピオス神殿は、自然豊かな場所に建てられた保養所だった。
ここには健康器具から浴場まで揃っていたのである。
そこで患者は節度ある食事と適度な運動を行って、体調を整えていったようだ。
これら人の治療に関わる仕事については、古代ローマの医師と医療 ―歴史や待遇、道具や有名な医師など―で説明しているので、もう少し詳しく知りたいあなたは、ぜひご一読いただくといいだろう。
学者・教育に関わる仕事
教師
古代ローマで教育担っていたのが教師である。
教師も医者と同じく、カエサルによって市民権を与えられた職業だ。
ただし、教師の給料は高くなく、生徒15人を教えてようやく日々の暮らしが成り立つ程度だった。
身分の高いもの、裕福なものは家庭教師役の奴隷が付いた。
だが一般の市民は、暗記と実用数学を習わせた。
子どもたちは朝早くロウ板とオイルランプを持って、教師のいるところへ通う。
教師によっては教室を借りるものもいたが、戸外で教えるものもいたようだ。
天文学者
天文学というと、宇宙の成り立ちや星々の秘密を解き明かすイメージがあるが、古代では暦(こよみ)の策定が重要な仕事だった。
ユリウス・カエサルが権力を握った当時、太陰暦だった古代ローマでは、月と実際の季節がずれたため、カエサルはエジプトなどから高名な天文学者を呼び寄せ、暦の策定をさせた。
これが有名なユリウス暦だ。
このズレを解消するため、カエサルは導入年を約3ヶ月近く伸ばしたという。
水工学者
水工学者とは、コンクリートを扱う学者のこと。
ローマでは、ギリシアのコンクリート技術をさらに発展させ、水の中でも固まるコンクリートを開発したのだ。
彼らのおかげで港の建設にコンクリートを使用でき、直立式の埠頭をつくることができたのである。
また2,000年の長きに渡って、いまなお崩れずに存在するパンテオンも、ローマン・コンクリート技術の結晶といっていいだろう。
司書
古代ローマの図書館に収められている蔵書はたいてい巻物の形をとっている。
これらを分類し、適切な場所に保管するのが司書だ。
ローマ帝国の都市には、大きな図書館が備えられたところが数多くある。
例えば北アフリカのティムガッド、トルコのハリカルナッソス、そしてアレキサンドリアの大図書館とローマの図書館。
またローマのテルマエにも図書館が備えられていたので、このような場所にも司書はいただろう。
著述家
著述家とは古代の作家だ。
彼らは歴史や哲学、果ては随筆から日記まで記載した(といっても記載するのは奴隷で、彼らは口頭で伝えたことを奴隷に筆記させるのだが)。
庶民の職業と銘打った記事だが、作家は裕福な人が大半である。
なぜなら、古代では著作権なども存在せず、作家に出版料が入ってくることもなかったのである。
占星術師
古代ローマの占星術師は、単なる占い師ではない。
彼らは天文学にも通じ、星回りで人々の命運を予想する予言者でもあった。
彼らはしばしば皇帝たち権力者の行末を占うこともある。
この話で有名なのは、カラカラ帝のエピソードだろう。
カラカラは、ある高名な占星術師に自分を占わせた。
すると彼は、カラカラに仕える近衛隊長官こそ皇帝に変わる人物だと告げる。
しかし占星術師は遠方にいたため、この結果が直ちにカラカラのもとに届けられたが、カラカラはその知らせが書いてある報告書を、あろうことか近衛隊長官に確認させたのだ。
この事実を知った近衛隊長官は、やられる前にやるとばかりにカラカラを暗殺し、皇帝を名乗ったのだった。
占星術師の占いは、見事的中したのである。
エンターテイメントに関わる仕事
役者
古代ローマの演劇は、ギリシアのそれを取り入れたものだった。
彼らは3人程度で1日に30もの役を演じなければならなかったようである。
また、素の顔を晒すのではなく、見栄えがし、誰が何の役かすぐにわかるよう仮面を着けていた。
役者はもともと地位が低い職業で、娼婦や剣闘士と同格の扱いだった。
しかし紀元1世紀にもなると、1回の興行で約500セステルティウス(軍団兵の年収の半分程度)の報酬を得た。
一流役者は年に20万セステルティウスも稼いだという。
役者には次のような種類があった。
古代ローマでは、喜劇は個難しい内容の「高尚な」劇よりも大衆に人気があった。
この喜劇を演じるのが喜劇役者である。
喜劇では道化役者が、ハデな喜劇やドタバタ劇、身振り狂言を披露した。
彼らの演じた劇はスクッラとよばれ、「下品な(スクラリス)」という言葉の語源にもなっている。
またキケロなどの弁論家たちは、裁判に勝つため喜劇役者のセリフや立ち回りを参考にしたという。
一風変わったところでは、葬式に参列する道化役者がいた。
彼らは一体何をしたのか。
答えは故人のモノマネをしたのである。
そのこだわりは激しく、故人と同じ服装はもとより、地位を示す記章も着けた。
さらに彼らのデスマスクすらかぶって演じたようである。
楽師
古代ローマでの楽師は、どんな楽器を演奏していたのか。
彼らはホルン(のような楽器)や、長いラッパやフルートのような音色のティーピア、弦楽器ではリラ、リラを大きくしたバービトン、キタラを演奏した。
楽師の出番は様々で、貴族たちの饗宴の場によばれることもあったし、葬列に合わせて演奏されることもあった。
また競技会や剣闘士の試合前、試合中に楽が鳴らされることもある。
喜悲劇でもBGMとして楽師の奏でる音楽は活躍した。
楽器の中でも変わっていたのは水オルガンだろう。
現代にもあるパイプオルガンの原型のような楽器だ。
水オルガンはローマ時代のアレクサンドリアで発明され、改良された。
この楽器を扱った演奏者が水オルガン奏者である。
当初水オルガンは、女性たちが演奏していたが、剣闘士の闘技場で使用されるようになると、男性も次第に水オルガンを演奏するようになった。
劇作家・詩人
劇作家は演劇の題目に使われる脚本を書く人間だ。
古代ローマでは、劇のお手本はもっぱらギリシアからの輸入物に頼っていた。
そのなかでも喜劇作家のプラウトゥスなどが登場し、たちまち人気作家の仲間入りをはたし、劇も上演されるようになった。
彼らの作品は、まず朗読されて発表される。
朗読される場に人気があったのは、お祭りの場。
ローマでは様々な行事、祭事が行われていたので、発表される機会は多かった。
そこで人気を博すと、出版社兼書籍業を営むものによって、ようやく筆写され販売されるようになったのである。
競技に関わる仕事
戦車競技組長
ローマ帝国の娯楽の一つであり、人気を誇っていたのが戦車競技である。
現在でいえば競馬やF1のようなものを想像するといいだろう。
古代ローマの戦車競技は二頭もしくは四頭立ての馬に人間が乗る車を引かせ、順位を争った。
戦車競技には、時代により増減はあるものの、主に4チームで競い合っていた。
その4チームそれぞれの組をまとめたものが、戦車競技の組長だ。
組長はオーナーも同然なので、よほどの資産とコネがないとなれなかった。
彼らはチームをまとめ上げ、有能な選手をスカウトし、戦車競技に関わる色んな人間を雇っていた。
戦車競技騎手
戦車競技のなかでも、戦車に乗って実際の競争を行う選手は花形である。
勝つと一躍スターとなり、莫大な賞金が手に入る代わりに、事故や落馬といった危険と常に隣り合わせだった。
選手はよく目立ったため、称賛を惜しまない声が聞かれる一方、賭けに勝ちたい人々や相手選手から、呪いの言葉をかけられることも多かった。
碑文の中には彼らに対し、事故を祈る言葉や死を願う言葉が残されているものもあるのだ。
馬のブリーダー
戦車競技を支えた職業の一つが、競走馬を育てるブリーダーだ。
現代日本でも、競走馬を育てるブリーダーを題材にしたゆうきまさみ氏の漫画、じゃじゃ馬グルーミン★UP! でも馴染み深い人はいるだろう。
彼らは帝国中の、それこそ北アフリカ、トラキア、テッサリア、シチリア、カッパドキア、スペインに馬の飼育場を所有していた。
また馬の種類には、アスツゥリアス種やルシタニア種といった優秀な競走馬を育てた。
彼らの中には、荷運びや騎兵場など軍隊向けの馬を育てるところもあったという。
なお戦車競走について詳しく知りたい方は、古代ローマの戦車競走 ―興奮と熱狂に包まれた、昔のF1レース―をご参考いただくといいだろう。
ダフ屋
剣闘士の試合が行われる円形闘技場では、入場料を支払って試合を観戦する席もあった。
そこで登場するのがダフ屋である。
彼らは剣闘士愛好家に対して、正規の値段の2倍、時には3倍もの値段で座席を売りさばく事もあった。
西暦65年の試合では、人気剣闘士に「ダフ屋のお気に入り」という異名がつけられる人気剣闘士がいたらしい。
彼の試合を見に来たいため、人々が我先にと席を取り合い、ダフ屋の値を高騰させたのが原因だろう。
賭け屋
戦車競技や剣闘士試合でオッズを決め、賭け事を成立させる商売が賭け屋だ。
ローマでは賭け事は法律で禁止されていたが、賭け屋は法律の抜け道を見つけ出して商売を行っていたらしい。
これはちょうど現代日本のパチンコ屋に相当するテクニックだろう。
彼ら民間の賭け屋が主催する賭け事に、ローマ市民は熱狂した。
当然賭け事は勝つときもあれば負けることもある。
そして負けたときの落胆も激しい。
そのため、戦車競技で賭けを行ったものは、しばしば相手選手が事故を起こす呪詛をかけたようである。
志願剣闘士
剣闘士の多くは奴隷からなったものが多かったが、自由民でありながら剣闘士になるものもいた。
それが志願剣闘士である。
剣闘士になる動機はさまざまで、貧困から金を求めて剣闘士の世界に入ったもの、スリルと名声が欲しくて入ったものなどがいた。
また剣闘士の志願者の中には女性もいた。
彼女たちは女性同士で戦うことや、見世物のために障害者(矮小者)と戦う場合もあったようだ。
剣闘士試合主催者
剣闘試合に人気があっても、開催を主導するものがいなければ、試合が開かれることはない。
その試合を主催したのが、剣闘士の試合主催者である。
彼らは剣闘士たちの給料や剣闘興行師(ラニスタ)に対して莫大な費用を払い、剣闘士試合を開催する。
その目的は民衆に対する人気取りであり、選挙対策だった。
帝政となって後、首都ローマの剣闘士試合は皇帝たちがもっぱら剣闘士の興行を支える試合の主催者となった。
皇帝のポケットマネーで大々的な剣闘試合が、年に2回程度行われたのである。
剣闘士教官
剣闘士の試合を支える高度な戦闘技術を教え込むのが、剣闘士の教官たちである。
彼らはどの部分に動脈があるか、どのように戦えば観客を「魅せる」ことができるのか、盾の使い方、剣闘士の各タイプ別による戦い方などを、訓練生に徹底的に叩き込んだ。
剣闘士の教官は、元剣闘士として活躍していたものもいた。
また教官の中には軍団兵に戦闘技術を教えるものもいたという。
猛獣供給業者
剣闘士の中には、戦う適性が著しく低いものもいた。
そのような落ちこぼれにあてがわれたのは、猛獣との対決という、いわば本戦の前の前座のようなショーである。
彼ら闘獣士との対決に使われる獣を輸入し、供給していたのが、猛獣供給業者だ。
人間との戦いの他に、猛獣同士で戦わせるためのショーにも使われた。
また罪人の死刑にも、猛獣刑という形で観客たちに披露されることもある。
このような猛獣―ライオンや熊、サイ、カバ、クロコダイルなど―を、帝国中から集め、生きたまま輸送し試合当日まで管理したのである。
これら一連の剣闘士に関わることは、剣闘士― 民衆を熱狂させた古代ローマ帝国のグラディエーターたち―でも紹介しているので、あなたが詳しく知りたければ、お読みいただくといいだろう。
美容に関わる仕事
美容師
古代ローマで女性の髪型をきれいにし、芸術的に編み込むのは美容師のしごとだった。
裕福な女性は自分専門の女性美容師奴隷を雇っていたが、ローマ市内に仲間と組んで働いていた美容師もいた。
彼女たちはクライアントの髪を、はやりの髪型にまとめるほか、ケルト人など北方に住む女性が持つブロンドの髪がもてはやされると、髪の色を抜く処理も施す。
逆につややかな黒髪に染めることもあった。
彼女たちのクライアントは、髪結代を払える裕福な女性のほか、高級娼婦たちもいたようだ。
理髪師
美容師が女性の髪を整えるなら、理髪師は男性の髪を切る職業だ。
しかし彼らが行うのは、カットだけではない。
ひげの手入れはもとより、爪切り、眉抜き、耳かき、全身脱毛、さらに抜歯までも行ったという。
彼らがひげ剃りのときに利用した、酢とクモの巣をあわせた止血剤が、抜歯に役に立ったのだろう。
理髪師の内容をみると、歯医者を兼ねた男性エステサロンのような感じかもしれない。
この業界は男性がほとんどだったが、女性も理髪店で働くことがあったようだ。
オイル塗り係
ローマ市民なら誰もが通うテルマエの中で、お客の体にオリーブオイルを塗る従業員、それがオイル塗り係である。
ローマ人はまず入浴する時、石鹸代わりにオイルを塗る。
それをJ型、もしくは半月型の肌かき器で擦り落として、垢を流す。
オイル塗り係は、その手伝いをするのだ。
しかし彼らの仕事はそれだけではない。
オイルとは別の軟膏で体のマッサージをする。
浴場の負担で化粧品や病を癒す飲み物を与え、栄養に関するアドバイスを行い、簡単な運動も教える。
現代日本のスポーツジムにいるトレーナーのような役割も担っていたのである。
わき毛処理師
紀元1世紀ごろ、古代ローマでは全身脱毛が流行っていたようだ。
そこで登場するのが、わき毛処理師である。
わき毛処理師は文字通りわき毛を抜く、あるいは剃ることを仕事としていた。
彼らの仕事道具はピンセットと、鎌形のナイフ。
毛の処理をするときは、客に痛みを与えることに耐えられる度胸と、痛みに耐えかねた客が暴れるのを押さえつける腕力が必要だった。
また彼らの同業者には、除毛師もいた。
彼らは脱毛後の毛根処理と称して、客に様々な薬品を塗りつけ、毛の発毛を遅らせることを仕事としたようだ(実際除毛できたかは怪しいが)。
性に関わる仕事
娼婦
お客に性的なサービスをする女性が娼婦なのは、あなたもご存知のとおりだろう。
古代ローマの娼婦は、娼家に買われた奴隷が春を売ることも多かったが、貧困にあえいだり、夫に先立たれて生活ができなくなった女性が身をやつすケースもあった。
では彼女たちはどれぐらいの値段で春をうったのか。
古代ローマでの娼婦の相場は総じて安い。
ポンペイで残っている落書きの最安値では、ワイン2杯分の値段で娼婦が買えたことが記されている。
もちろんサービル内容によってはもっと高かったり、逆に場所によってはもっと安かったりした。
古代ローマの娼婦については、古代ローマの娼婦 ―売春方法から場所、値段など―で詳しく書いているので、興味のある方はご参考いただくといいだろう。
男娼
娼婦が女性なら、春を売る男性が男娼である。
古代ローマでは男性同士の関係を法律で禁じていたが、男娼に関しては別だったようだ。
古代ローマの男娼は、娼婦よりも社会的地位が高く、また料金もお高めに設定されていた。
ただし男娼は若く、容姿も美しい青年が好まれたため、働き稼げる期間は娼婦よりも短い。
つまり賞味期限が圧倒的に短かったのだ。
その他のサービスに関わる仕事
港湾で働く肉体労働者
動力の乏しい古代では、荷の積み下ろしや運搬などを担うのは人力である。
この運搬を行っていたのが肉体労働者たちだ。
そして港湾では船の貨物を運ぶため、様々な運搬業があった。
- 船荷積卸人
- 穀物運搬人
- アンフォラ運搬人
など。
もちろんこれら組合組織がしっかりしたものばかりではない、例えば建築資材を運ぶような肉体労働者も存在していた。
輿担ぎ
紀元1世紀ごろ、ローマでは輿に客を乗せて運ぶサービスがあった。
古代版タクシーといったところだ。
この輿を運ぶ人たちが輿担ぎである。
彼らはティベリス川近くに停留所を設け、別の地域からやってくる人々を運んだ。
また町の周辺にも、客を乗せるのに便利な場所を設けた。
輿担ぎは通常4人一組で、それぞれの角から出る竿を担ぐ。
肩の負担が少しでも減るよう、分厚い当て物をしていたようである。
また休憩中は目印となる停留所のポールが外され、四隅に木材を置き、その上に輿を置いた。
しかし彼らの仕事は重労働だったようだ。
客も基本的に乗せるのは一人だけ。
熟練した輿担ぎたちは、4人のタイミングを合わせ、なるべく揺れの少ないリズムで歩いたという。
旅行ガイド
古代ローマも帝政に入る頃には、領土内の平和が保たれるようになる。
それとともに増えるのが、ローマ領内の観光地への旅だった。
その観光地で案内をするのが旅行ガイドの仕事である。
旅行ガイドたちは現代のガイドと同じく、客を観光スポットに案内したら、その足で親戚が営む土産物屋に連れていき、客からお金を頂いたようである。
入れ墨師
古代ローマも帝政になると、新兵には手などに名前や部隊番号の入れ墨を施した。
これは兵士たち個人の識別を簡単にする目的の他に、脱走兵を見つけるだめでもあった。
彼ら兵士たちに入れ墨を施したのが入れ墨師である。
入れ墨の彫り方はこうだ。
西洋ネギの絞り汁で皮膚を洗ってから針をさす。
インクの材料は、樹皮、胆汁、硫酸、酢、腐食した青銅。
入れ墨には細菌感染の心配が常にあった。
また奴隷にも入れ墨が彫られたが、彼らが解放された時、入れ墨を消すときはどうしたか。
そんな場合は、入れ墨を消す専門家のところに行ったようである。
また理髪師も入れ墨消しを行うことがあったという。
徴税人
共和政末期、徴税は徴税請負人(プブリカニ)という民間団体に委託された。
彼ら徴税人たちは、属州に対して過酷な取り立てを行うことで有名だった。
徴税請負人は、まず徴税を行う権利を入札する。
そして入札した額を一括で支払ったあと、その分を取り返すべく属州民たちから取り立てを行うのだ。
徴税人が委託元の属州総督と結託して行った徴税により、住人が10分の1に減少した属州もあったという。
しかし帝政に入ると属州の徴税を公平にするべく、アウグストゥスが監査官を派遣した。
これにより、属州の取り立ては以前と比べてマシになったようである。
縮絨工
縮絨工とは、古代のクリーニング屋のこと。
古代ローマ人たちは服を洗う時、尿とアクやあるいは尿とフラー土(吸着性の強い粘土)を使ったため、強烈な悪臭を放つ。
そのため家庭では洗濯をせず、洗濯屋である縮絨工を頼ったのである。
彼らの仕事の工程は次の通り。
- 布をアンモニアの混合物の入った最初の桶に浸す
- 裸足の職人が足で踏みつけてきれいにする
- きれいになった衣類を手で絞る
2の工程で、縮絨工たちは飛び跳ねて踏みつけたため、彼らの動きは「縮絨工のダンス」と呼ばれていた。
また彼らは漂白のために、洗濯物(主にトーガ)を枝編み細工の半球のカゴに入れ、煙を出す壺に燃えている硫黄を入れてカゴの下に数時間置き、フラー土で再びこすった。
乾いたあとネジ式プレス機で平にして、客に渡した。
競売人
競売人とは、オークションを取り仕切る人のこと。
彼らは次の3つの人々が協力をした。
競売を開催するのは、両替商。
その助手が競売の専門家で、彼が槍を地面に突き立てて競売を開始する。
声がけをして取り仕切るのは、触れ役とよばれる人だ。
競売の状況を前もって知らせ、入札を呼びかけ、集まった人々をあおり、ゆっくりした声で喋った。
ちなみに競売は故人の遺産や、借金返済のために開かれた。
また戦場で奴隷や戦利品を売るときも、競売をすることがあった。
中には戦費捻出や財政再建のために、私財を売る皇帝もいたようである。
太鼓持ち
古代ローマで行われた晩餐。
この席で気の利いた言葉や下品なゴシップの話題、風刺詩を披露して来賓を楽しませるのが太鼓持ちである。
現代に例えるなら、詩の才能があったお笑い芸人の営業、といったところか。
彼らは晩餐の席にも関わらず、お酒を飲んで酔っ払うことはもとより、料理のおこぼれに預かることもできず、給仕奴隷にちょっかいをだすこともできなかった。
また頻繁にトイレに行くこともできなかったという。
町の触れ役
町で起こった最新のニュースを伝えたり、重要なイベントの開催を知らせたりする仕事、それが町の触れ役である。
古代ローマ版アナウンサーといったところだろう。
町の触れ役は、競技会やレースの開催日、呼び込み、そして勝利者の発表などを広場で発表した。
また選挙時は投票を呼びかける。
元老院で法律や政令が採決されているあいだ、内容を声に出して復唱する。
重要人物が死んだときは、葬儀の模様を詳しく述べる。
犯罪の刑罰を発表する、といったことも。
このような重要な内容とは別に、
- 失せ物や行方知れずの人物を探すよう呼びかける
- 恋人への言葉を届ける等雑多なことも引き受ける
といったことも行い、その都度彼らは依頼人から袖の下をいただき、副収入にしていたようだ。
郵便配達人
古代ローマにも、郵便を配達する人が存在した。
彼らは皇帝や属州総督などからの急使で知らせを運ぶほか、特に急がない郵便や重い荷物の場合は、雄牛に積んで運ぶこともあった。
では一般市民の郵便はどうしたか。
彼らは郵便の宛先まで行く人(途中寄りもあり)に頼み、郵便物を運んでもらっていた。
おそらく切手代わりに少しの心遣いを、運び人に添えて頼んだのだろう。
葬儀屋
古代ローマ時代の葬儀屋は、司式者(ディシグナトル)と呼ばれるものが経営していた。
古代ローマの葬儀は騒がしい。
土葬と火葬は時代によってちがったが、火葬を例にあげると、次のような感じである。
- 防腐処理をしていない遺体に美しい服を着せ、衣装をこらした担架の上に、まるで生きているような姿勢で横たえて運ぶ
- 楽師が葬列用の音楽を演奏する
- 泣き女が髪をかきむしり、頬を引っ掻いて嘆き悲しむ
- 道化役者がデスマスクをつけ、故人の物まねをする
- 司式者の部下ウストレスが、火葬場に着いた遺体を焼く
など。
これら葬儀に必要な専門家たちを雇入れていたのが葬儀業者で、集まった人たちに上等な葬列を見せびらかすこともあったようだ。
今回のまとめ
それでは古代ローマの職業について、おさらいしよう。
- 古代ローマの仕事は、現代に通じるものもあれば、古代独特のものもあった
- 彼らは早くから組合を作っていることもあった
- 仕事の内容で、きつい仕事、安い仕事もあれば、おいしい仕事、儲かる仕事、憎まれる仕事まで、色んなものがあった
今回紹介した職業が全てではないし、奴隷が行った仕事や、(一部例外を除き)権力者、上流階級が就いた職業は省かせてもらっている。
もしあなたが古代の仕事に興味を持ったなら、ぜひ一度『図説 古代仕事大全』を読んでみることをおすすめする。
私の紹介以上に詳しく、そして職業ごとの豊富なエピソードを、読みやすい文章で紹介してくれるので、楽しむことができるだろう。